マレンゴ
ベルティエの報告



 予備軍指揮官アレックス・ベルティエから第一執政へ
 サン=ジュリアーノの戦場にて、共和暦8年牧草月25日(1800年6月14日)午後9時

 市民執政殿が13時間に及ぶ最も執拗な戦闘において未決着だった勝利を決定づけたサン=ジュリアーノの戦いについて、私はあなたに報告しなければなりません。
 モンテベロの戦い後、前衛を形成していたガルダンヌ師団はカステッジョに接近し、ガロフォリとサン=ジュリエンの敵を駆逐したため、敵は24日夕方にマレンゴに布陣しました。
 第24軽連隊と同行していたガルダンヌ将軍はこの陣を攻撃し、マレンゴ村を奪取し、約200人の捕虜と2門の大砲を得ました。
 サン=ジュリアーノの戦い――25日朝、メラス将軍は全軍と伴にボルミダ河の橋と浅瀬から進出し、主力でもって我が中央のマレンゴに襲い掛かると同時に、多くの騎兵を生かしてその両翼を我が軍の右側と左側に広げました。
 ヴィクトール将軍の部隊が左翼と中央を保持し、ランヌ将軍の部隊が右翼を守りました。騎兵は両翼を掩護し、さらに予備となりました。
 敵は100門以上の大砲を投じてきました。攻撃とそれに対する我が兵の抵抗はいずれも執拗なものでした。
 敵は突破を望み勝利と完全な敗北以外に選択肢がない者のように戦い、マレンゴ村の主となるのに成功しました。我が左翼は騎兵に支援されながら退却しました。中央もこの動きに追随し、優勢に戦っていた我が右翼は、ドゼー将軍率いるブーデ師団が到着する瞬間まで執政親衛隊の擲弾歩兵に支援されながら我が右翼を迂回しようと試みる敵の動きを食い止めました。
 あなたが戦闘に導いたこのブーデ師団は、駆け足で敵の中央を攻撃しました。勇敢さで並ぶもののない第9軽半旅団が最前列で、ドゼー将軍が先頭に立ちました。
 あなたの存在が軍にこの推進力を与え、かつて何度もそうであったように勝利を決めました。敵の攻撃は撃退され、全戦線が揺らぎ終日戦ってきた師団がこれに続きました。
 我が左翼の後退を支援していたケレルマン将軍は敵歩兵が動揺した後で再度攻撃を試みた瞬間を捉えました。彼は猛烈な突撃を行い、6000人以上の捕虜と10門の大砲、そして敵参謀長のツァッハ将軍を捕らえました。
 敵左翼は秩序を維持し、全会戦を通じてその存在を知らしめた執政親衛隊擲弾歩兵に支援されたワトラン師団と、執拗に戦い続けました。ベシエール大佐率いる執政親衛騎兵と同砲兵も栄光に包まれました。ミュラ将軍の指揮した騎兵は何回か決定的な突撃をしました。
 モンニエ将軍は敵左翼のカステル=チェリオロ村を攻撃し、いくつかの大隊をボルミダ河に叩き落しました。敵騎兵部隊は分断されました。ラトゥール竜騎兵連隊の1個大隊は執政親衛隊擲弾歩兵の射撃により完全に破壊されました。
 この血腥い会戦により、メラス将軍の率いる軍の生き残りはアレッサンドリア要塞の砲撃支援が受けられるボルミダ河の背後に追いやられました。我々は参謀長ツァッハ将軍と多くの士官を含む約7000から8000人の捕虜を得ました。多くの大砲も奪いましたが、その数はまだ判明していません。
 敵の死傷者は6000人にのぼりました。現時点で私の下には敵の軍旗12旒が届いています。他にも各師団が奪ったものがあるようです。
 我々の損失は死者約600人、負傷者1500人で捕虜が500人でした。
 私はこの記念すべき日の詳細な経緯と名を上げた者たちの名を、各師団の報告書を記す際にあなたにお知らせします。
 ミュラ将軍の軍服は銃弾が貫通しました。ランヌ将軍は帽子を弾丸によって飛ばされました。マイノーニ、マーラー、リヴォー将軍は負傷しました。

 アレックス・ベルティエ

 共和国は本日、大きな損失を蒙りました。ドゼーが殺されたのです。彼は軍に合流してまだ2日でした。全軍は彼の死去を大いに悼んでいます。

Simmons Games "Campagne de l'Armée de Réserve en 1800"


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