マニャーノ戦役
4月5日マニャーノの戦いフランス軍報告



 イタリア、及びナポリ方面軍司令官から総裁政府へ
 マルミロトの司令部にて、共和国暦7年芽月17日[1799年4月6日]

 市民総裁殿、私の直前の報告であなた方は、敵をアディジェ右岸から撤退させるため、そして渡河時に彼らが私の側面と背後を取るのを防ぐため、近々私が2度目の会戦を余儀なくされるであろうとの予感を抱いていたことでしょう。この会戦は昨日行われました。交戦は一瞬にして全戦線に広がりました。ヴィクトール将軍とグルニエ将軍はヴェローナ下流のアディジェ河畔に隣接し、サン=ジャコモ村を奪おうとしました。デルマ将軍は前衛部隊と伴に、ドッソブオノが突破されないように、そしてこの2個師団を攻撃から守るため行動しました。モロー将軍はアトリ及びモンリシャール師団と伴にヴィラ=フランカとヴェローナ間の全敵との戦闘を委ねられました。最後にセリュリエ将軍は同じヴィラ=フランカを攻撃し、この小さな町を奪った後に敵を追撃しアディジェまで追い込む役目を委ねられました。
 敵が私の意図を知らされていたかどうかは分かりません。いずれにせよセリュリエ将軍はヴィラ=フランカへの攻撃を押し返された後に、それでもどうにか激しい突撃でそれを奪い、900人以上の捕虜を得ました。モロー将軍は彼の2個師団と伴に平野部にいた敵に後退を強い、ヴェローナへ向け真っ直ぐに行軍しました。夜間の落馬によって傷口が再び開いたにもかかわらず、デルマ将軍は彼の師団の指揮を執りたがりました。
 私はこの攻撃において中央の地点に持ち場を定め、必要なところを補完しました。戦闘は午前11時から午後4時まで続きました。左翼の4個師団は、敵の多大な数的優位にもかかわらず敵に対して優勢を示しました。
 当初は猛烈な兵によっていくらかの優位を得ていたヴィクトール及びグルニエ将軍は、4時頃にまずはその攻撃が鈍らされたのに気づき、そして敵がヴェローナから相次いで増援を受けたため、6時頃には退却命令を出すことを余儀なくされました。
 デルマ師団はいくつかの突撃を、決して敵に突入されないまま支えました。敵がそれに対して送り込んできた多くの兵は師団の側面にまで溢れ出てきましたが、デルマ将軍は素晴らしい機動の腕前を見せ、とうとう敵に後退を強いました。これらの様々な出来事の結果、夕方5時にはセリュリエ将軍がヴィラ=フランカを占拠し、モロー将軍はほとんどヴェローナ城下、敵の宿営地で戦っていました。デルマ将軍も戦場の支配者としてとどまっていましたが、右翼の2個師団の退却が私の右側面を晒したため、私は他の師団に日没まで現在地を保持し、それから会戦前に占拠していた陣地まで退却するよう命じました。
 市民総裁殿、以上が戦闘の結果です。敵からは2000人の捕虜と7門の大砲を奪い、激しく熱心な戦闘が7時間も続いたため戦場には4000人以上の死傷者が撒き散らされています。
 私の損失は死傷者と捕虜3000人近くに達しました。また大砲4門を失いました。

 署名 シェレール

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt-Neuvième." p651


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