マニャーノ戦役
3月30日ヴェローナ



 3月30日、第2次ヴェローナの戦い

 レニャーゴの戦い直後、以前の報告で述べたように、クライ将軍は一刻も失うことなく軍の大半と伴にヴェローナへ行軍した。
 29日、ヴィクトール将軍は司令官[クライ]に1人の士官を送り、戦場にいまだ残って危険な伝染病を引き起こしている戦死者を運び出すために、24時間の休戦を申し出た。クライ将軍はこの提案を承諾し、その継続期間を翌日12時までと定めた。だが10時に敵は、ポラ[ポル]にある彼らの前線の対岸に位置するアディジェ左岸の我々の前哨基地への攻撃を始めた。前哨線は僅かに撃退され、同時に敵はヴェローナを迂回するべくサン=アンブロッソ[サンタンブロージョ]近くの山地を越えて前進してきた。前哨線及びシュリーダー、ソルディ、及びテラチッチの大隊の退却が既にパローナまで達した時、既に準備を整えていたナダスディ連隊、ヴェーバー、フェケルモン、メルカンタン及びコーラーの大隊とロプコヴィッツ、カラクツァイの騎兵連隊、及び第7ユサール連隊が動き出し、敵を攻撃し一瞬にして圧倒した。攻撃は3つの縦隊で行われ、うち一つはアディジェ沿いに、他の縦隊はティロル街道沿いに、3番目は山地に沿って実行された。攻撃はあまりの速さで遂行されたため、敵はあらゆる場所で支えきれなくなった。かくして我々は彼らの橋まで到着し、彼らはその対岸に大砲12門の砲列を敷いて我々にしばし砲撃の停止を余儀なくさせた。だが短い休止の後、橋の強襲が命じられた。コーラー、フェケルモン、及びヴェーバー[連隊]の擲弾兵はすぐに橋を制し破壊した。ヴェローナ迂回のため山地を越えて行軍していた敵は自らが遮断されたのに気づき、降伏して捕虜になることを余儀なくされた。まだ多くの兵が山中をさまよっているが、次第に連れてこられるであろう。敵がこの遠征で大砲1門しか持っていなかったのは注目に値する。彼らはヴェローナを奇襲し強襲で奪う期待を抱いていたに違いない。我々の損害は戦死46人、負傷166人以下である。敵は1000人を失い、1112人の捕虜を出した。敵はこの攻撃をセリュリエ師団全部とヴィクトール師団の半数、合計1万5000人で行った。さらに最近のクライ将軍の報告によれば敵は4月1日に後退し、彼はホーエンツォレルン伯爵が指揮する騎兵2個連隊、歩兵5個大隊で構成される前衛部隊にカステル=ヌオヴォまで前進するよう命令した。この前衛部隊は、アディジェを渡りヴェローナ城下で宿営しているツォプフ師団に支援された。4月2日、分遣隊がペシェーラとヴィラ=フランカに送り出された。そして第5ユサール連隊のフクラ少将が2個騎兵大隊と伴にヴィラ=フランカで士官29人と兵士800人を捕虜にし、大砲2門、弾薬車9両、小火器300挺を手に入れた。2門の榴弾砲からの砲弾がペシェーラに撃ち込まれ、敵を驚かした。そして同日(4月2日)[クライ]将軍は全軍をもってアディジェを渡り、ヴェローナ前面の宿営地を占め、左翼をトンバに、右翼をサンタ=ルチアに拠った。
 敵はなおアディジェとタルタロ間の土地をレニャーゴにかけて占拠している。だがガルダ湖近くの場所からは完全に撤収したため、アディジェ渓谷を通じたティロルとの連絡線は開かれた。既にサン=ジュリエン伯爵はティロルからリヴォリまで前進し、偵察隊をペシェーラまで送り出した。現在、敵は40の平底船を用意し、アディジェを渡ろうとしているように見える。
 この渡河はロンコとロヴァスキアーノ[ロヴェルキアーラ]近くで実行されるものと予想される。だが司令官は、我々の前方への移動と彼らへの正面からの攻撃、あるいはさらに有利な背後への攻撃によって、敵が遂行しようと試みるであろうあらゆる計画に対して準備をしている。クレナウ将軍はポー河に沿ってオスティーリャまで偵察し、全地域を驚かせた。この地域を僅かな兵力のみで占拠している敵は、あらゆる場所で退却した。そして将軍とその偵察隊は、ポー両岸で喜びの拍手と伴に迎えられた。クレナウ将軍はオスキューソ湖で小さな武装船を1艘沈め、もう1艘を岸辺まで曳航した。敵は大砲で武装した全ての船を沈められたため、乗員はフェラーロ[フェラーラ]へと送った。フランスの将軍はクライ将軍に、26日と30日に捕虜となった士官の交換を申し出た。彼は、まず[皇帝]陛下の士官を先に送り、それから彼が捕虜にした中から同数のフランス士官を返還すると回答した。

"A Collection of State Papers, Vol. VIII." London Gazette, p177-178


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