マニャーノ戦役
3月26日ヴェローナ



 3月26日のヴェローナの戦い

 クライ中将からのより最近の報告によれば、敵が戦力をヴィラ=フランカとカステルヌオヴォ付近に集結させているとの忠告をカイム中将は受けていた。そこでこの将軍は情報を得た24日から警戒を払っていた。彼はまたその話を伯爵ホーエンツォレルン将軍に連絡し、後者はすぐにヴィチェンツァを出発してギューライ[連隊]の2個大隊、シュテンツ擲弾兵1個大隊、ミトロフスキーの3個大隊、ローフェネールの2個騎兵大隊、カラクツァイの5個騎兵大隊と伴に25日にヴェローナへ到着した。リプタイ将軍も同様に、クレベックの1個大隊、フュルステンベルクの2個大隊と伴に24日から25日にかけての夜間にヴェローナに着いた。かくしてカイム将軍はパストレンゴの陣地をシュレーダーの3個大隊、及び砲兵1個中隊で強化することができた。エルニッツ[エルスニッツ]とゴッズハイム[ゴッデスハイム]将軍が指揮するこの陣地の防衛線には歩兵7個大隊と、新たな第5ユサール連隊の3個騎兵大隊がいた。前哨線はガルダ湖畔から始まり、国境に沿ってベイラーク周辺まで伸びており、オグリンスの1個大隊、ヴァラスディンの1個大隊、アスプレの4個猟兵中隊、及びユサール騎兵1個大隊によって守られていた。その退却を容易にするため、そしてまたアディジェ左岸との連絡を保つため、その河に架かる2つの船橋がポル近くに設置され、砲兵に守られた2つの橋頭堡によって補強されていた。相互の距離という理由からアディジェ右岸を通じたこの陣地とヴェローナとの連絡は維持できなかったため、彼らは可能な限り連絡を保持する狙いでユサール騎兵の分遣隊をヴェローナからカーサ=カーラに送り出すだけで満足した。だがアディジェ河畔から同河畔まで至る、トンベッタ、トンバ、サンタ=ルチア、サン=マッシモ、クローチェ=ビアンカを通るヴェローナの前哨線は歩兵3個大隊によって守られ、ヴェローナの新門にある城壁斜面によって支えられていた。ミトロフスキーの2個大隊、ハンガリー第48[連隊]の1個大隊、及び騎兵6個大隊がポルタ=ヌオヴァ[新門]近くに配置された。歩兵4個大隊と騎兵5個大隊は予備としてポルタ=ゼノ[聖ゼノ門]の背後に配置された。この状態で、敵は我々の前哨線を26日早朝に攻撃してきた。カイム中将はすぐにそこへ行軍し、敵の攻撃が主にサンタ=ルチアに向けられているのを知ってその地を増援する対応を取った。彼はそこに追加の1個大隊を送った。兵と伴にサンタ=ルチアにいたリプタイ将軍は4時半には既に負傷していた。そこでカイム将軍はその地の指揮権をモルスクヴィッツ将軍に委ね、サンタ=ルチアを攻撃している敵の側面に襲い掛かろうと試みるためクローチェ=ビアンカへ行軍した。この陽動はルガーニャ[ルガニャーノ]とマッシモ間からドッソーボン[ドッソブオノ]へ向けて行われる予定だった。最初に得られた捕虜から、敵がヴィクトール及びグルニエ麾下の完全な2個師団と、加えてセリュリエ師団の一部にピエモンテ軍、スイス軍及びポーランドの亡命者軍6000人で構成されていることが分かった。かくして敵は2万5000人から3万人の間の戦力で、その町を奇襲によって奪取する断固とした期待をもってヴェローナ攻撃を組織していた。敵は既に15日間、給与未払いのまま生活していたため、ヴェローナ市で2時間の略奪を認める軍への命令を出していた。カイム将軍はすぐ予備部隊に前進を命じ、ホーエンツォレルン将軍にミンクヴィッツ将軍の支援を命じて左翼へ送り出した。そして彼自身はサン=マッシモへ向かった。6時、敵は全戦力を集め、主攻撃をサンタ=ルチアとサン=マッシモに向けてきた。前者の陣地はすぐ敵に奪われ、そしてミンクヴィッツ将軍が負傷したことを知ったにもかかわらずホーエンツォレルン将軍は2回そこを奪回するのに成功した。だが彼はそこを保持できず、敵は終日そこを確保していた。彼らはサン=マッシモでは同じようには成功できなかった。彼らは連続してそこを7回攻撃し、新たな戦力で7回この陣地を奪い、そして我らの勇敢な兵によって7回そこから撃退された。この地は敵に多大な損害をもたらした。我々は終日この地の確保し続けただけにとどまらず、我々の前哨線も、サンタ=ルチアの陣地を除いて、同様に保持した。我々の損害はかなりのものであり、敵のそれは我々の倍だった。カイム将軍曰く、彼の指揮下の兵は全て驚嘆すべき勇敢さを演じた。絶えず新たな兵を前進させてきた数に勝る敵によって、僅かな休息もなく18時間にわたって続けられたこれほど破壊的なマスケット銃の射撃下においては、他に例を見ないものだった。この勇気と忍耐の英雄的な努力は、兵たちが攻撃の間、どのような元気の回復も快適さも手に入れられなかっただけに、なお素晴らしかった。12時少し前に、カイム将軍が負傷した。彼は全将軍にサン=マッシモの陣地を放棄しないように、そして敵に計画の大胆さを後悔させるには必要な敵側面及び背後への陽動を続けるように提言せずに持ち場を離れようとはしなかった。兵力不足とこれほど長い間戦ってきた者たちの疲れきった状態のせいで、我々がブッソレンゴとヴィラ=フランカ攻撃で得た優位を役立てるのが妨げられた。我々は大砲1門、弾薬車1両、少佐2人と士官35人を含む捕虜316人を得た。将軍によれば名を上げた者たちの一覧を作るのは不可能だという。誰もが最も揺るぎない勇気を示し、全ての者が自分の行為によって自らがその一部となっている陛下の軍の偉大なる名誉の評価を高めた。我々の損害は戦死が士官11人、兵士90人で、負傷が士官42人、兵士2675人だった。サンタ=ルチア攻撃では1000人の捕虜が敵の手に落ちた。敵の損害は少なくとも8000人から1万人と見積もられる。

"A Collection of State Papers, Vol. VIII." London Gazette, p175-177


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