マニャーノ戦役
3月26日レニャーゴ



 3月26日、レニャーゴ近くで起きた会戦の記録

 26日夜明け、遥か遠方、ヴェローナとパストレンゴ周辺から激しい砲撃が聞こえた。8時頃、レニャーゴ近くの前哨線も攻撃を受けた。クライ中将は可能な限り急いでベヴィラクアの宿営地からレニャーゴへ移動した。町の守備隊はまだ修復が充分に進んでいなかった城壁と道路に陣取った。ギューライ連隊の1個大隊、及びラターマン連隊の1個大隊は橋を守るため町の前面、ブセオ運河近くに布陣した。敵はあらゆる方面から町へ向けて前進を試みたが、あらゆる場所で撃退された。彼らは主力をアディジェ沿いのアンギアーリ近くに配置しており、そこでは彼らは守られていた。2回の猛烈な攻撃の後、彼らはその地へ退却することを余儀なくされた。もう一つの恐るべき攻撃が、マントヴァへの主要街道があるレニャーゴのサン=ピエトロに対して行われた。レニャーゴ守備隊が単独で敵の前進を3時間半にわたって阻止した後、ベヴィラクア部隊の前衛が到着し、フレーリヒ指揮下にある最初の師団が今度は敵への攻撃に使われた。この攻撃はレニャーゴから出るあらゆる道路と、分断されている土地で可能な限り他の場所でも行われた。主要攻撃はサン=ピエトロに対して実行された。ヴァルテンスレーベン連隊のラインヴァルト少佐が前衛部隊を指揮し、ナダスティ連隊を率いるアプザルテルン大佐が、縦隊主力と伴に続いた。伯爵パール少佐が敵の背後を攻撃するべくサン=ピエトロへ向かう道へ前衛部隊を導き、ラターマン連隊の一部と伴にあったルット大佐が、縦隊の残りと伴に続いた。ロプコヴィッツ連隊のソマリヴァ大佐はアンギアーリに対する攻撃を指揮した。これらの主力攻撃に加え、異なる場所に対するいくつかの部分的攻撃が行われ、全兵士たちは多大な勇気を持って行動し、誰もが充分にその義務を果たした。町中と近くの平野にいた砲兵は、長いこと著名であった手腕と熱意を持ってあらゆる攻撃に抵抗した。
 フレーリヒとラターマン将軍は異なる戦闘を指揮した。彼らの冷静さとよき模範は、兵士たちに勇気と信頼を呼び起こした。司令官は同じ称賛をルット、アプザルテルン、及びソマリヴァ大佐にも授けた。任務に就いたばかりの主計総監シャステラー侯爵は、この機会に彼の能力、活発さ、そして軍務に対する熱意についての決定的な証拠を示した。ラインヴァルト少佐は最も激しい攻撃を持ちこたえなければならなかったが、彼はメルカンタン中佐とコーラー中佐に最も勇敢に支えられ、うち前者は戦死し後者は負傷した。ソマリヴァ大佐は単独でアンギアーリ攻撃の縦隊を指揮し、その先頭に立って勇敢にかつ活発に戦った。町の指揮官だったスカル大佐は、新たな兵が到着するまで、午前中敵を抑止した。これまで軍の主計総監として活動してきたザック[ツァッハ]大佐は、この戦闘において彼が行った極めて優れた配置によって、兵を前進させた際の熱意によって、そして同じく攻撃の間に彼が追求した方策によって、多大なる信望を得た。参謀副官のヴァイダー中佐もまた、司令官に近い場所での戦闘で、その完全な称賛を得た。7時には敵はあらゆる場所で敗走していた。彼らは混乱しながらタルタロ方面へ退却した。しかし土地を縦横に走る運河のため、我々の騎兵で彼らを追撃することは不可能だった。そうでなければ彼らの損害はもっと大きくなっていただろう。彼ら自身が告白したその損害は2000人に達した。その中にはヴィニョール将軍とデルマ将軍も含まれており、前者は戦死し、後者は負傷した。我々は大砲8門、榴弾砲3門、弾薬車32両、士官22人、軍曹9人、兵士480人を含む捕虜511人を得た。我々の損害は佐官1人、士官3人、軍曹と兵士103人だった。負傷者は士官24人、下士官を含む兵士863人で、82人が行方不明または捕虜となった。

"A Collection of State Papers, Vol. VIII." London Gazette, p174-175


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