リニーの戦い
速報その2



 1815年6月20日
 パリ、6月19日
 陸軍省
 フルーリュスで1815年6月17日に参謀部の士官によって書かれた手紙。

 フランス軍はまたもやフルーリュスの平野で不朽の名声をあげた。
 我々は15日にベルギーに入った。我々に抵抗しようとしたあらゆる場所における最初の戦闘で敵は崩壊した。
 シャルルロワ前面ではいくつかの方陣が蹂躙されたが、必要とされたのはほんのいくつかの騎兵大隊だった。これらの方陣を構成していた5000―6000人のうち、捕虜になった1700人のみが助かった。
 昨16日、我々はフルーリュス近くに布陣する敵の全軍と遭遇した。ウェリントン麾下の英国軍で構成される右翼はメレ前に、中央はサン=タマンに、左翼はソンブルフにいた。その陣地は強固でリーニュの小川に守られていた。
 敵はまたこの川の前にあるリニーの小村を占拠していた。我々の軍は平野に進出した。ネイ元帥麾下の左翼はゴッサリーに、皇帝が位置した中央はフルーリュスに、そしてジェラール将軍が指揮する右翼はソンブルフに布陣した。
 戦闘は2時に左翼と中央で始まった。双方とも信じられないほどの意欲で戦った。サン=タマンとリニーの村は4回以上奪い合いが繰り返された。我らの兵は皆栄光に包まれた。8時に皇帝は全親衛隊と伴にリニーを攻撃しこれを奪取した。我が勇者たちは駆け足で敵の主要な陣地へ向かった。敵軍は中央を突破され、大混乱の中で後退することを余儀なくされた。ブリュッヒャーはプロイセン軍と伴にナミュールへ、そしてウェリントンはブリュッセルへ。
 親衛隊は目の前で崩れた砲兵部隊の大砲をいくつか奪った。射撃は午後10時になってやっと止んだ。あらゆる行軍において皇帝万歳! の叫びが数千回繰り返された。それは斃れゆく勇者が発する最後の言葉でもあった。これほどの熱狂が見られたことはかつてなかった。
 4000―5000人のスコットランド人で構成される英国の師団は寸断された。彼らのうち捕虜になったものを見たものはいなかった。高貴なる神も混乱していたに違いない……。
 戦場の敵はフランス軍の8倍もあった。
 彼らの損害は5万人と言われている。その砲撃はまるでモスクワ[ボロディノ]の戦いのようだった。
 今朝、17日にはパジョル将軍の騎兵がプロイセン軍を追撃すべくナミュールへの街道上に進んだ。既に2リュー半の距離を進んでいる。敵はいくつかの集団で捕らえられている。彼らはその指揮官がどこにいるか知らないという。
 この方面は完全に壊走しているので、たとえ再編が可能だとしても、すぐにプロイセン軍の動きについて聞くことはないだろうと期待している。
 英国軍については、今日のうちに彼らがどうするか分かるだろう。皇帝はそちらの方にいる。

"Supplément au recueil de décrets, Manifestes, Discours, etc. de Napoléon Bonaparte" p297-298


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