ライプツィヒの戦い
シュレジエン軍の報告(10月19日)



 ライプツィヒの司令部にて、1813年10月19日

 主力軍[ボヘミア軍]とスウェーデン皇太子の軍[北方軍]との接点を固め、ハレに必要な橋を架けた後で、シュレジエン軍は10月15日にシュコイディッツへと出発した。
 敵はラーデフェルトとリンデンタールにいたが戦力は不明だった。
 10月16日、敵の陣地に対する全面攻撃が命じられた。主力軍はボルナからライプツィヒへの街道上を行軍した。伯爵ギューライ将軍はリュッツェンからマークランシュテット経由で前進した。1時、シュレジエン軍は攻撃を行った。ランジェロン伯はラーデフェルトの敵を排除しブライテンフェルトからグロス=ヴェテリッツ[ヴィーデリッチュ]へと移動した。ヨルク将軍はリンデンタール村を奪い敵をライプツィヒ方面へと追い払った。ここにはオイトリチュとメッカーン間に布陣するかなりの敵集団が姿を見せていた。後者の地は敵歩兵が占拠していた。そこは奪取し、奪回された。敵は戦っている歩兵を支援できる地点に40門の大砲を配置した。ヨルク軍団の全歩兵は次第にマスケット銃の射程内に入り、ランジェロン伯の軍団は左翼でグロス=ヴェテリッツ及びクライン=ヴェテリッツを征服し、それを失い、再び奪った。ザッケンの軍団は予備だった。司令官は彼に前進するよう命じたが、彼らが到着する前に兵の勇気が勝負を決した。敵は完全にメッカーンから叩き出され、騎兵は逃げ出した歩兵になだれ込み、そして日没にはライプツィヒ前面のオイトリチュとゴーリスの戦闘は終わった。
 鷲章旗1本、軍旗2本、43門の対応、及び2000人以上の捕虜がメッカーンの戦いの成果だった。
 マルモン元帥が、第4、第6及び第7軍団から成る敵軍を指揮していた。
 我々の損害はかなりのものだった。ヨルク軍団では多くの士官が負傷した。
 10月17日、ランジェロン伯の軍団がオイトリチュの背後まで進んできた敵右翼に対する移動を行った。
 コサック及び騎兵4個連隊とともにオイトリチュとシェーンフェルト間にいたヴァシルチコフ中将は敵戦線へと前進し、敵は激しい砲撃で迎え撃った。敵は騎兵を右翼に配置した。
 ヴァシルチコフの騎兵のうち2個連隊はこの敵騎兵に突撃し敵騎兵を打ち倒した。彼らは手綱を持ったまま歩兵の背後まで追撃され、2000歩背後にあるライプツィヒ郊外へ逃げ込んだ。ここで彼らは粉々になれ、多くの歩兵と騎兵がまとめて切り倒された。多数の捕虜と5門の大砲が奪われた。
 敵戦線の背後まで攻撃は進んだが、戦線自体は密集を維持しており、あらゆる方面から砲撃が加えられた。ユサールたちは捕虜と奪った大砲を真ん中に置いて、敵歩兵の射撃を浴びながら自軍主力のところまで退却した。
 この騎兵攻撃はこの戦争において最も美しく大胆なものだった。
 敵はパーテ川とライプツィヒの町まで退却した。
 夕方に北方軍がシュレジエン軍の左翼に到着し、またベンニヒゼン将軍が到着するとの知らせを主力軍が受けたため、10月18日には敵はあらゆる方面から同時に攻撃を受けることになった。
 10月18日夜明け、フランス軍の周辺で砲声が同時に始まった。
 配置を終えた後でランジェロン伯の軍団はスウェーデン皇太子の軍に合流し、タウヒャ地域でパーテ川を渡り敵の右翼を捲り上げていくことになった。だが敵の配置からモッカウでパーテを強行渡河するのは難しくなく、またその行動が北方軍によるタウヒャを越えての出撃を大いに容易にすると結論付けた司令官[ブリュッヒャー]は、攻撃命令を出した。
 敵は僅かな抵抗しか見せず、ランジェロン伯の軍団はパーテを越えてライプツィヒ方面へと突入した。いくつかの敵騎兵連隊は攻撃しようとした時に我々に合流した。彼らはザクセン兵だった。ザクセンの歩兵と砲兵は北方軍のもとに来た。
 北方軍はすぐ敵の左翼へと移動した。ベンニヒゼンが彼らと合流し、そして今度は左翼をエルスター河畔のコネヴィッツに拠っていた主力軍も加わった。
 正午には砲撃による硝煙が全軍の集中的な前進を示していた。50万人の兵が1マイル四方の空間に集まっていた。
 ランジェロン伯の軍団は敵をシェーンフェルト内と周辺に発見し、そこで激しい砲撃戦を行った。ランジェロン伯は歩兵でシェーンフェルトを攻撃し、そこを奪った。敵は村に火をかけ、そこを奪回し、ようやく日没になってランジェロン伯はそこを征服した。その間、ザッケン将軍はライプツィヒ市とローゼンタールを歩兵で攻撃することで、前者を支援し敵戦力の負担を共有しようとした。ヨルクの軍団はこの日は予備にとどまった。
 夜の到来に伴い敵はあらゆる方面からライプツィヒへと集まってきた。リュッツェン及びヴァイセンフェルスへの街道においてのみ、エルスターへと移動した優勢な戦力を使ってギューライ伯の監視軍団を突破し、リュッツェンへの道を開くことができた。この情報を得た司令官はこの日の夕方、ザーレ左岸のマーゼブルク及びヴァイセンフェルスで敵の機先を制するべく、ヨルク軍団をハレへと行軍させた。
 10月19日夜明け、敵はライプツィヒ市街へと完全に後退していた。町の正面に運ばれてきた多くの火薬車が敵の手で爆破された。9時、敵は町中に閉じこもり、混乱しながら撤収しているのが見えた。
 全方面から攻撃が行われた。敵はとても執拗に防御した。ザッケン軍団はハレ門の正面にある塹壕を襲撃し、門そのものまで突入したが、敵の配置はとても有利なもので、門に置かれた2門の大砲が散弾を発射したため兵の勇気だけでは障害を乗り越えることができなかった。
 司令官はランジェロン伯の軍団からパーテの牧草地に沿って増援を送り襲撃を行うよう命じた。この移動はハレ門の奪取を決定づけ、敵はすぐ陣地を離れ完全に逃げ出した。
 北方軍はグリンマ門を襲撃し、散歩道で戦闘を行った。四方から欧州における4大国の兵たちが侵攻し、友情をもって手を握り合った。
 市内では全ドイツ兵が降伏した。司令官のレイニエ将軍及びローリストン将軍は、多数の将軍たち及びかなり捕虜たち(3万人以上と推計されている)とともに我らの手に落ち、ライプツィヒの市内だけで大砲103門、200両以上の弾薬車を奪った。
 ポニャトフスキー公の死体はプライセ川で見つかった。
 敵はリュッツェンを越えて逃げ出した。彼らがどうやって脱出できたのかはまだ不明だ。皇帝ナポレオンは2万人の親衛隊で後衛部隊を編成した。
 かくしてライプツィヒにおける4日間の諸国民の戦いは、世界の命運を決めた。

Actenstücke und Materialien zu der Geschichte des großen Kampfes um die Freiheit Europa's in den Jahren 1812 und 1813, Viertes Bändchen. p30-36
Recueil des pièces officielles destinées à détromper les François, Tome Troisième. p257-264


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