ライプツィヒの戦い
プロイセン軍の報告(10月16日)



 1813年10月16日のメッカーンの戦闘に関するプロイセン公報
 ハレ、1813年10月17日

 シュレジエン軍司令官たる中将ブリュッヒャー閣下は、同軍とともに10月3日にエルベを渡りエルスターに向かった後で、ハレへと移動し、そこに10月11日に到着した。兵士及び馬匹が極めて必要としていた4日間の休息後、ブリュッヒャー将軍は15日にライプツィヒへと向かった。同日、彼は司令部をシュコイディッツに置いた。彼の前哨線はメッカーンにあった。
 16日午後2時、メッカーンの戦いが始まった。フランス軍はこの地の近くにバリケードを築いていたが、何物も勇敢なプロイセン兵とロシア兵を引き下がらせることはできなかった。恐ろしいフラーという叫びとともに彼らは銃剣を持って敵に襲い掛かり、敵は塹壕から追い払われゴーリス村へと退却した。兵たちはここも攻撃したが、勇敢なプロイセン兵は3回、押し戻された。4度目に彼らは敵を追い戻すのに成功し、敵は大急ぎで混乱しながらライプツィヒ市内へと身を投じた。彼らはそこまで追撃され、プロイセン軍は夕方8時頃には郊外を支配していた。
 約40門の大砲、士官79人と大佐1人を含む捕虜2000人、鷲章旗2本と大量の弾薬車が勝利の戦果だった。敵は死傷者5000人以上を失ったが、我々の損害も僅かではなかった。負傷者の中にはメクレンブルク公がおり、彼はシュコイディッツに運ばれた。
 ヴァーレン村、メッカーン村及びゴーリス村は多くの損害を被ったが、戦闘そのものとフランス軍の退却の両方で受けたものではなかった。
 本日10月17日、ブリュッヒャー将軍は司令部をライプツィヒから数時間の距離にあるリンデンタールに置いている。

Österreichischer Beobachter auf das Jahr 1913. Zweyter Band. p1553
Recueil des pièces officielles destinées à détromper les François, Tome Troisième. pp245-246


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