ジュマップの戦い
デュムリエの報告



 モンスの司令部にて、1789年[ママ]11月7日、フランス共和国1年。

 私が手紙に日付を記した場所を見て、オナングの司令部から書き記した前回の手紙からどれほどの時間が経過したかお分かりになるでしょう。私は3日、ドゥロンジュとヴィエリーの間に陣を敷くべく前衛部隊と伴にかの地を出立しました。この陣のためにテューランという村を確保する必要がありましたが、我々はそこから追い返されました。攻撃を任せられたベルギー部隊が村の彼方にあるブシュの風車を確保しようと危険を冒しすぎたためと、大砲を伴っていなかったためです。彼らは1200から1500騎のユサールに包囲され、彼らは2個中隊を孤立させました。この強力なオーストリアのユサール騎兵に突撃し、ベルギー部隊の退路を確保して彼らを救出した300騎に満たない第2ユサール連隊の素晴らしい活躍がなければ、この部隊は全て壊滅していたでしょう。
 同3日、アルヴィユ将軍はその軍と伴にバヴェに到着しました。翌4日、私はテューラン攻撃とブシュ陣地の奪取を強化するため、オナングの宿営地から9個大隊を引き抜きました。そのうえでアルヴィユ将軍との合流を実行するのが私の計画でした。そのためにはサールからブシュへ延びる長い帯状の森からオーストリア軍を追い出すことが必要でした。私は連携攻撃を手配し、そこではアルヴィユ将軍はサール城を占拠することになっていました。第11猟兵連隊の大佐は、彼の連隊及び軽歩兵と伴にブランジーへ突入し、そのうえで同じサール城へ移動し、森の右側へ進んでフラマリ村を確保します。その間、同じ森の左側に沿って移動した私がブシュを奪います。これら3つの攻撃は完全に成功しました。オーストリア軍はとても頑強にブシュの風車を守りましたが、私は砲兵を使って彼らを追い払いました。彼らは500から600人の損害を出しました。戦闘は砲撃戦となり、私はその夜、前衛部隊と伴にブシュの森の先端で野営すると伴に、軍にドゥロンジュの地に来てそこで野営するよう命じました。この日の成功により、私は大口径の大砲及び榴弾砲の増援を受けました。
 5日、私はジュマップの高地にいる敵の陣地を偵察しました。私は彼らの左翼を比較的激しい砲撃で牽制している間に歩兵にカリニョン村を攻撃させました。同日、フレグヴィユ大佐は敵の左翼と接触しました。歩兵と騎兵によるいくつかの小規模な戦闘があり、我々が常に優勢でした。同日、アルヴィユ将軍の軍はその半分、約6000人だけしかフラマリに到着することができませんでした。私はジュマップ正面に宿営し、左翼をオルムに、右翼をフラマリに拠らせました。大口径の大砲は移動病院と同様ブシュまで来させました。クレアファイトの軍が合流してしまう時間を残さないよう翌日にジュマップ高地に対する決定的な攻撃を行うと決めた私は、同日夕にカリニョン村を放棄しました。この村を見下ろしているジュマップの戦力相手に支えることはできなかったためです。
 6日朝、私は16ポンド砲12門、12ポンド砲12門と榴弾砲12門を前進させ、私の前線全体に砲列を配置しました。シフィの高地に布陣したアルヴィユ将軍は敵の左側面に位置し、私はフェラン、ロジエール、ブロットフィエール准将の指揮する9個大隊に支援されたベルギー部隊によって再びカリニョン村を奪うことで敵の右翼を攻撃しました。
 18個大隊からなる中央の攻撃はエガリテ中将[シャルトル公]とステーテンボッフェ、デフォレ及びドルーエ准将が、前衛部隊からなる右翼はブールノンヴィユ中将とダンピエール准将が指揮しました。アルヴィユ将軍の師団は敵の塹壕から遠すぎたため、我らの攻撃を大砲でしか支援することができませんでした。最も控えめな見積もりによれば、オーストリア軍は騎兵3500騎を含む2万人から成っていました。他の見積もりでは2万8000人となっています。我らの兵力は3万人に満たないものでした。オーストリア軍の陣地は手ごわいもので、ジュマップ村に拠るその右翼は、その正面と直角を成し、左翼はヴァランシエンヌ街道に拠っていました。この戦線全ては森がちの山に位置しており、その斜面には3段にわたる堡塁が築かれ、大口径砲20門、少なくとも同数の榴弾砲、さらに大隊ごとに3門の野戦砲を備えていました。砲兵全体でほとんど大砲100門に達していました。我々もほぼ同数を保有していましたが、もし我々が戦闘を砲撃によって終わらせようとこだわった場合には、高い位置にある彼らの砲列の方がとても有利でした。自らの価値を信じていた兵たちは、長いこと敵と接近して自らの力を測りたいとの強い望みを口にしていました。私も敵の砲撃下で彼らに行わせたあらゆる移動において彼らがあたかも訓練のように機動し行軍しているのを見ていたため、彼らを信頼していました。特にこれに先立つ3日間、私が命じた機動と展開を彼らが実行した際の正確さは敬服に値するものでした。
 双方による最も激しい砲撃が午前7時に始まりました。それは10時間続きましたが、私が見たところこの種の戦闘では満足がいくだけの十分に決定的な成功は得られませんでした。私が戦線の前を移動した際に、兵たちは銃剣で敵に接近するのを切望していると私に述べました。ブールノンヴィユ将軍も長いこと私にそう提案しており、エガリテ将軍も同様でした。私は彼らの情熱を心に留め、よりそれの活力が増すのを期待しました。堡塁を奪取してこの戦闘を終わらせることこそが私の計画だったからです。しかし私はとりあえず効果を増すため砲兵隊を敵に近づけることで満足し、さらにカリニョン村の攻撃を命じました。この村を取らなければ、この方面からジュマップを攻撃できなかったためです。
 滅多にない実績を持つ士官である参謀副官のトゥヴノ大佐に、この攻撃の指揮と、ジュマップ及び敵右翼全体の奪取を委ねました。敵の左翼に対してより効果を上げられるよう、アルヴィユ将軍には彼の砲列をより接近させるよう要請しました。ブールノンヴィユ将軍にも同じ機動と、正午ちょうどに攻撃を行う準備をするよう求めました。同じ命令を左翼にも出しましたが、それによって我々がカリニョンを支配するものと見積もっていました。もし敵がかの地を支配し続けていれば左翼での攻撃がこの村から迂回されてしまうため、そこの占拠は必要でした。正午ちょうど、全歩兵は一瞬のうちに大隊縦隊を組み、素晴らしい速度と歓喜の中、敵の防御拠点へ向かって前進しました。一つの縦隊として後ろに残るものはいませんでした。
 第1段目の堡塁がまず素早く奪取されました。しかしすぐに障害は増し、中央は窮地に陥り、縦隊の側面に突撃するため敵の騎兵が平野部に入る準備をしているのが見えました。私はエガリテ中将を送り込み、彼は冷静に極めて手早く縦隊を再編し、第2段目の堡塁へと彼らを導きました。私は第3猟騎兵連隊と第6ユサール連隊にこの攻撃を支援させました。彼らは敵騎兵を阻止し、突撃するのにちょうどいいタイミングで到着しました。同時に私は右翼へ向かいましたが、そこではブールノンヴィユ将軍による堡塁攻撃が、迂回と奪取によってあらゆる成功を収めた後に、歩兵の先頭を占めていた騎兵が少しばかりの混乱に陥っていました。私は彼らを急ぎ再編し、同時に既に我々の右側面にやって来ていた敵騎兵に対し大いなる活力で突撃を行いました。この再編の間に、敵騎兵1部隊がパリ第1大隊を押しつぶそうとしましたが、彼らは頑強にそれを受け止め、突撃者のうち60人を殺しました。右翼におけるこの戦闘の幕間に、中央は第2段目の堡塁を奪いました。高地では新たな戦闘が必要でしたが、それはさほど激しくも長くもないものでした。オーストリア軍は我が兵の常に増大する頑強な価値に完全に恐れをなしていました。
 2時、彼らは大混乱の中、退却を行いました。我々の兵は両軍の使者が散らばる敵の陣地全てを占拠しました。彼らの損害と狼狽はかなりのもので、彼らはモンスの町を通過してベルテルモンでも、パリセールの丘でも、ニウシーの高地ですら足を止めることはできませんでした。
 私は勝利を収めた軍をキュームの村まで前進させ、そこを歩兵で占拠しました。この村では13ポンド砲1門を手に入れました。負傷者、落伍兵がそこに集められました。同日、私はアルヴィユ将軍の師団にパリセールの丘を、ステーテンボッフェ准将の師団にベルテルモンを占拠させました。
 私はモンスの町に降伏勧告を送り、交渉に入りました。詳細は同封した資料でお分かりになるでしょう。既に3日の野営を行い、この恐ろしい会戦当日はスープを作ることすらできなかった兵たちは、常に同じ熱意を示し、モンスに言ってその城壁をよじ登る許可を私に求めました。私は翌日にはその希望を満足させると約束することを余儀なくされ、実際にモンスを囲む攻撃陣地を補完し、同時にいくつかの場所を攻撃できるよう部隊を配置しました。敵は夜を利用してそこを撤収し、そこに残した最後の400人も午前9時頃にはそこを去りました。
 私自身が砲兵隊と一緒にいた9時に、オーストリア軍が閉じた城門を破った住民が、私に町へ入るよう招きに来ました。私はすぐ入城しました。執政官たちは町の城門にいて、鍵を私に差し出しました。私は自らの手を掲げ「我らが兄弟及び友人として来たのは、常にその城門をかつての圧政者たちに対して閉じ、我らが勝ち取った自由を守るためだ」と彼らに言いました。
 この永遠に記憶に残る日は、フランス国民を不滅の栄光で覆いました。どの歩兵大隊も騎兵大隊も、いや軍のどの一人ひとりでさえ、至近距離で敵と戦わなかった者はいませんでした。あなた方は既にブールノンヴィユ将軍の才能と価値をご存知でしょう。他の将軍たち全て、特にエガリテ将軍は、兵たちの指揮に際して大いなる知性を示しました。幕僚士官たちと副官たちは、砲撃の真ん中、恐るべき虐殺の中で、偉大な活動力と極めて高い正確性をもって命令を運びました。ドルーエ将軍は射撃によって足を砕かれました。参謀副官のショーモン大佐は腕を銃弾に貫かれ、乗っていた馬を殺されました。フェラン将軍は足に酷い打撲傷を負い、乗馬1頭を殺されました。参謀副官モーソワは口に銃弾で穴を開けられ、7本の歯を持っていかれました。第104連隊のデュブレ大佐は重傷を負い、国民憲兵隊の中尉である市民ベルティシュは41ヶ所の刀傷を負いながら7人を殺しました。ドゥー=セーヴルの2個大隊の中佐である市民ラフォスは、銃弾によって腕を砕かれました。他にも多くの士官と兵たちが戦死し、負傷しました。
 私はまだ我々の損害の正確な数を知りませんが、約300人が戦死、600人が負傷と見積もっています。各部隊から情報を受け次第、あなたがたに状況をお知らせします。彼らはブールノンヴィユ将軍の前衛部隊が奪った5門と、我々の左翼の攻撃で奪った3門を含む8門の砲兵を失いました。砲兵はその勇気と、我らの敵に恐れられているいつもの能力で役に立ちました。敵の損失は、戦死、負傷あるいは落伍者を含め少なくとも4000人にのぼりますが、我々が日々集めているほとんど同数の放置され、軍から離れ行方不明になった者はその数に含んでいません。以上がベルギーの征服にとって決定的だったこの戦いの詳細です。オーストリア軍はこれ以上敢えて本格的会戦を試みようとはしないでしょう。この戦闘で我々は、たとえ地形を活用する技術と手を組んだとしても、フランス兵の勇気を止めることはできないことを証明しました。
 私はこの報告を我が副官、中佐にして偉大な勇気の持ち主である市民ラリューを通じて送ります。
 司令官、デュムリエ。

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Quatorzième." p434-436


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