ジュマップの戦い
デュムリエの第一報



 モンスの司令部にて(何度か拍手あり)、1792年11月7日、共和国暦1年。――デュムリエ将軍より国民公会議長殿へ。

「市民議長殿、5日にわたり共和国軍は帝国軍の前にいました。彼らは日々戦い、遂にモンスの町は勝利の果実となりました。(新たな拍手)我々はかの地で今朝、兄弟として迎えられました。人民主権はそこであらゆる見解の基礎となっています。あらゆる人が自由の大義を支持するべく急ぎ武器を取っています。(拍手)行政組織は再生され、あらゆる場所でいずれ選挙が行われてすぐにエノーとフランスの県との間には何の違いもなくなるでしょう。我らの成功は我らの論拠に力を与え、今度こそ理性と正義は武器によって支えられました。
「兵たちの驚くべき価値と、人類の記憶の中でも最も恐ろしい戦闘の後に彼らが示した人間性に対し、多すぎるほどの称賛を与えることはできません(拍手)。4万人のフランス軍が、森と山に塹壕を築き、40以上の堡塁に大口径の大砲20門、より小さな口径の極めて数が多い大砲と榴弾砲を備えた2万8000人のオーストリア軍をまさに打ち破ったところです。それに先んじるあらゆる戦闘は我らの有利に終わっていましたが、ジュマップの戦いが全てを決定づけました。それはこれまであった中で最も本格的なものの一つでした。敵の戦線全てと側面は同時に攻撃されました。あらゆる部隊が投入され、あらゆる兵が自ら戦いました。(拍手が始まり長く続く)あらゆる場所で、極めて頑強な抵抗の後に、フランス国民はその2つの最強の手段、即ち大砲と銃剣によって勝利を得ました。(新たな拍手)
「市民陸軍大臣が国民公会にさらなる詳細をお伝えするでしょう。これほど栄光ある勝利を得た激しい会戦にかなりの兵の損失が伴わないのはあり得ません。まだ正確な数は把握しておりませんが、戦死者は300人、負傷者はその倍になると見積もっています。3日から7日まで、特に6日の敵の損失は1500人以上の捕虜及び脱走者、そして4000人以上の死傷者に達します。我々は2門の大口径砲を含む9門の大砲を奪い、それとは別に多くの弾薬車と弾薬も得ました。捕虜と脱走兵は常に我らの下にやって来ています。我らを解放者、兄弟として迎えた住民たちは、市内に隠れていた1000人以上のオーストリア兵が我らに降伏することを保証しています。軽騎兵が敵を追撃しており、そこから捕虜を引き続き連れて帰っています。我々はここでいくつかの飼料と補給物資を発見し、私は一方で8000人を率いるボヌロン将軍、他方でほぼ同数を率いるダンピエール将軍を使ってアトの町とそこにある地域の物資貯蔵所を確保しようと努めています。
「オーストリア軍は大壊走しながら退却しました。彼らはブリュッセルとブレーヌ=ル=コントへの道をたどっています。彼らを攻撃した日の少し後に、彼らはクレアファイト将軍麾下の部隊と合流しました。近いうちに彼らを追撃します。
「3夜の野営、4日に及ぶ戦闘、そして彼らが望むほど素早く届くことができなかった多数の必要物資の完璧な欠乏にもかかわらず、兵たちは確実にあらゆる困難を克服するであろう熱意と忠誠を示しました。将軍たちや他の士官たちも同様で、この軍は国民の信頼と評価に値します。
「司令官、デュムリエ」

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Quatorzième." p434


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