ホーエンリンデンの戦い
グルーシーからモローへの公式報告



 12月5日、ライヒャースハイム

 将軍、12月3日についての最初の報告を送ります。
 2日夕、私の指揮下にある師団はホーエンリンデン村の右側と少し前の陣地を占めていました。第108半旅団は主要街道と森の間の土地に配置されました。第48半旅団と第57は同じ森の端に梯形に布陣し、森を抜けてヴァッサーブルクとエバースベルクへ通じるいくつかの小道を守っていました。騎兵は歩兵の左の平野部におり、砲兵はインディンクから来る出口の端にいました。オーストリア軍の哨戒線からマスケット銃の射程内にあった我々の前哨線は、2日から3日にかけての夜間に攻撃され、我々の前方正面にあった集落は奪われ、奪回し、最後は敵の手にとどまりました。
 3日午前8時、師団は全正面にわたって攻撃されました。オーストリア軍は主に第108半旅団が守っている部分と、ホーエンリンデンに至る道路上に攻撃を集めました。ボイエ将軍が大砲3門及び第4ユサール連隊を率いて第108を支援し、後者は完璧に陣地を維持して敵の進展を阻止しました。敵は師団右側面の森を経由し、大半が擲弾兵で構成されている歩兵8個大隊で攻撃を行うことを決断しました。迂回された第108はしばし後退することを余儀なくされ、その指揮官マルコニェは負傷し捕虜となりました。最も激しい散弾砲撃に長いこと晒され、彼らにとっては通常である堅固さをもってそれを支えていた第46は、敵が多大な数的優位を生かして森から出撃してきたその時に、グランジャン将軍に率いられ第108の救援に向かいました。第46の半個大隊が銃剣で敵に襲い掛かり、血腥い白兵戦の末に敵を打ち破り追い払うのに成功しました。第57の半個大隊も、常に森を通って我々を迂回しようと試みる敵の企図に抵抗するべく右翼で前進しました。森は執拗かつ栄光ある小競り合いの舞台となりました。我々は至近距離で戦い、ついに勝利と、そしてこの攻撃を率いたスパンノッキ少将を含む数多くの捕虜が、われらの手にとどまりました。しかしオーストリア軍は側面攻撃と同時に正面でも攻撃を再開しました。彼らは第11猟騎兵の2個大隊に突撃され、騎兵は敵を圧倒し大砲3門を奪いました。最後に、完璧に指揮された師団砲兵の砲撃が多大な効果を生み出し、完全に彼らを壊滅しました。
 これら最初の優位を利用するべく、グルニエ将軍の各師団と私の師団による総攻撃が命じられ、第46と第57が攻撃縦隊を組み、第108はその支援及び、もし敵が右側面で新たな攻撃を試みる場合にはそれを止めるため森を監視する役を担うよう配置されました。オーストリア軍はあらゆる場所で圧倒され、マテンポットの隘路に身を投じ、この地点において彼らは全面的に壊走しました。にもかかわらずグルニエ将軍に対する彼らの別の部隊による激しい攻撃が3時頃に行なわれ、第57と第108の一部はその支援に連れていかれました。そして師団の正面にはリシュパンス師団がおり、第4ユサールと軽砲兵の一部は、彼らを増援しこの日の成功と数多くの捕虜の確保に協力すべく送り出されました。
 夜の到来でこれ以上は敵を追撃できなくなり、師団は森の右側、ハーク街道の鞍部にあるシュトラスマイアーに布陣しました。(後略)

"Mémoires du Maréchal de Grouchy, Tome Deuxième" p145-147


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