ホーエンリンデンの戦い
デカーン将軍の報告



 将軍、マイテンベートで敵を攻撃することになっているリシュパンス師団の移動に追随するようにとのあなたの命令に従い、私は午前5時にツォルネディンクから移動を始め、ヴァッサーブルク街道に沿ってオバーンドルフ村の先、アバースドルフとクリストフを抜けてマイテンベートへ至る道があるエバースベルク村正面まで行きました。
 前衛部隊は特に右翼を偵察するよう命令を受けており、側面部隊はシュタインヘリンク村の向こうにいくらかの敵を見つけました。リシュパンス師団はヴァッサーブルク方面の出口をカバーするための兵を残していなかったため、私はシュタインヘリンクを監視するために騎兵1個大隊と軽歩兵1個中隊を送り出し、自らの移動は遅らせませんでした。むしろ、クリストフとホーエンリンデンで激しく戦っていたため、私は進軍を急がせたほどでした。
 ラフォン大佐が指揮する前衛部隊がクリストフの台地に到着した時(おそらく10時半)、ドルーエ将軍指揮下の旅団、サユーク将軍が指揮するリシュパンス将軍の予備がそこにいました。
 ホーエンリンデン方面で攻撃されたのと同時に遭遇したリシュパンス将軍の移動に驚いた敵は、おそらくアルバッヒンクからツェル及びヴァルへ行軍している3000人以上の部隊と合流するため、ヴァッサーブルク方面に向けて別の攻撃を行いました。この移動はドルーエ将軍の旅団をリシュパンス将軍から切り離し、同時に別の敵部隊の散兵たちが森の中からクリストフの台地へと飛び出してきました。リシュパンス師団の予備は周辺の森を見ても背後に土地がなく、雪が大量に降っていたため、行動することができませんでした。この師団に続いていた予備弾薬といくらかの装備は、もしラフォン大佐がその障害を積極的に乗り越えていなければ、酷い悪道における後方への行軍によって極めて害になっていたでしょう。一刻も失うわけにはいかない中、まっすぐ敵に接近するよう私に推奨されたラフォン大佐は、このような状況で求められるあらゆる積極性を発揮しました。彼はマサール隊長が指揮する第14[半旅団]第3大隊と、勇敢なモントーロンが指揮する騎兵連隊の1個大隊に対して敵を攻撃するよう命じ、彼の兵たちはすぐ命令を実行して敵を強力に押し戻しました。だが敵がその力をもって我々に退却を強いようとしたその時、私はポーランド軍団の1個大隊に彼らを支援させました。マイテンベートに突入したリシュパンス将軍に合流できるようドルーエ将軍を支援するべく、クニャージェヴィッチ将軍はクリストフの隘路から出撃しました。同じく果敢に実行されたこの移動は多大な利益をもたらしました。ドルーエ将軍は味方との合流を果たし、ラフォン大佐が率いるポーランド軍団の大隊に支援された第14の大隊は敵を追い詰め、すぐに壊走させました。捕虜た奪った大砲があらゆる場所から運ばれてきました。
 この壮観な勝利は、まさにこの素晴らしい瞬間に雪がやみ、そして太陽がその輝き全てとともに姿を現しただけに、何よりも喜ばしいものでした。この神聖なる恒星がまるで我らの勝利を彩っているかのようでした。
 師団の残りは梯形に隊列を組みました。私はデビリー将軍の指揮下に歩兵1200人、騎兵600騎といくつかの大砲から成る部隊をエバースベルクに残し、ヴァッサーブルク街道の偵察、クリストフに向けて私が行う移動のカバー、及びこの地点で彼と交代することになっている右翼の兵が到着するまでの間、エバースベルクとホーエンリンデン間の連絡を維持する役を任せました。ですが右翼の兵は来ませんでした。
 左翼で敵が執拗にしがみついていることに気づいた私は、デュリュット将軍に対して彼の旅団を動かし、砲撃が最も激しそうに見える地点へ向かうよう命じました。約900人の敵部隊が周辺にいて突破を図っていることを知らされたデュリュット将軍は第14の第2大隊からカラビニエ中隊を含む2個中隊を送り出し、この敵部隊の一部と戦っている兵を支援させました。これらの中隊は参謀副官コルニルが率いましたが、彼は敵を発見し、彼らが防御態勢を敷いているのを見て単独で前進し、スパンノッキ将軍の副官とともに、降伏せよ、もし射撃するなら剣でお前たちを殺すと、ドイツ語で叫びました。敵は降伏しました。
 デュリュット将軍が移動を実行し、私はそれに続きました。彼がホーエンリンデンからハークへの主要街道にたどり着きそうになった時、グルーシー師団がハークへと前進していることに気づき、この師団の移動から左翼には増援は必要ないと判断した私は、敵のヴァッサーブルクへの連絡路を可能な限り遠くで分断するべく、兵の大半をアルバッヒンクを通り過ぎてハークへと向かわせることを決めました。
 時間は午後3時半頃、私がこの移動を命じている間、右側面をカバーするためクリストフの地点に留まるよう指示していたクニャージェヴィッチ将軍から、終日彼の前面にいた3000人の部隊に攻撃されていることを知らされました。戦闘が始まり、クニャージェヴィッチ将軍はこの攻撃をよく支えていました。しかし私がアルバッヒンクに向けて行った行軍は敵の右翼を脅かし、彼らにすぐ退却を強いました。彼らは追撃されましたが、夜の到来でその逃亡を利用することができなくなり、また私が指揮した兵たちも少数の散兵を除きアルバッヒンクの平野に出撃することはかないませんでした。敵は騎兵5個大隊と大砲3門を配置し、平野の入り口を散弾で砲撃しました。
 この日、師団は3000以上の捕虜、大佐2人を含む士官50人、及び大砲7門の結果を得ました。損失は戦死と負傷を合わせ、士官6人を含むたったの286人でした。
 第14の第2及び第3大隊、第4戦列歩兵の第1大隊、ポーランド軍団と第6猟騎兵連隊の1個大隊は偉大な勇気を示しました。もし他の兵たちにもその機会があれば、彼らの示した熱意から、彼らもまた敵と戦ったものと同じ模範を示したと信じられます。(後略)

"Mémoires et journaux du général Decaen, Tome Second" p145-147


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