ホーエンリンデンの戦い
ライン方面軍公報



 ライン方面軍公報
 デソル将軍作成

 (中略)

 ホーエンリンデンの戦闘
 我らの兵が退却時に敵に邪魔される心配はないと見た司令官は、[雪月]10日[12月1日]夕方、軍の集結命令を出すためにハークに戻った。
 敵の計画は今や進展していた。彼らはヴァッサーブルク街道からはほぼ離れており、その軍は集まってミュールドルフ街道とイセン峡谷を経て行軍していた。6000人の部隊がランズフートを経てフライジンクへと向かっており、クレナウ将軍の部隊はランズフートの部隊と再合流するためにレーゲンスブルクでドナウを渡っており、全てが我々の左翼に対して敵が攻撃を行おうとしていることを告げていた。同時にかなり多くの部隊がアウグスブルク街道上を進み、我々をそちらへの退路から切り離し、ミュンヘンからランズベルクへの街道を経て我々を山岳部の麓へと追いやろうとしていた。そちらには我々の側面にいるティロル部隊が、今度は自分たちが我々の後退を邪魔しようと待ち構えていた。
 以上が敵の採用した大掛かりな計画だった。だが必然的に伴う大きすぎ広すぎる移動は、その実行を極めて遅いものとし、敵が左翼に接近できる前に右翼側の相手を打ち砕くべく戦力の大半を集めるためのあらゆる時間が司令官に残された。
 そこで彼は以下の配置を命じた。グルニエ将軍は7日に占めていた右翼はホーエンリンデン、左翼はハートホーフェンの陣地に戻る。グルーシー将軍が指揮する中央の師団はこの陣地の最右翼につく。
 左翼を構成するルグラン将軍は側面をカバーするため、歩兵5個中隊と第16猟騎兵連隊の2個大隊を、ラングドルフの出口に向かい合うヘールコーフェン近くに残す。騎兵予備はグルニエ将軍の配下に置き、エスパーニュ将軍の旅団を除いてホーエンリンデンの背後に向かう。エスパーニュ旅団はルグラン師団の歩兵4個中隊とともにアーディンゲン[ママ]に向かい、この地点で軍の左側面とミュンヘンからの連絡路をカバーする。
 ザンクト=クリストフからエバースベルクへの道を経てワルテ旅団が合流してきたリシュパンス将軍はエバースベルクへ、そしてデカーン将軍はツォルノルディンゲン[ママ]へ後退する。ヘルフェンドルフと最初の陣地へ戻ったルクルブ将軍は、戦力の大半を左翼へ、グロンの水源方面のプフラメリンクへと進ませる。
 サント=シュザンヌ将軍配下の2個師団はコロー将軍が指揮し、進軍方向を変えて強行軍でフライジンクへと移動し、12日にはそこに到着せよと命じられた。
 11日の日中はこれらの移動全てを実行するために使われた。敵は、前日戦った2個師団の後衛をなお担っていたグランジャン将軍の師団を僅かに追撃してきた。軍の残りは追撃されることなく退却した。
 11日、敵は軍をハーク前面に進ませ、午後8時にはグルーシー将軍の哨戒線が攻撃された。これによって敵前衛部隊が既にホーエンリンデンの平野へと押し入ってきたことが推測された。一方司令官は、イセン峡谷とレンドルフ方面にかなり多くの部隊が到着したことを知らされた。
 従って敵は進軍し、明確に攻勢に出て、ホーエンリンデンに到着し平野へなだれ込もうとしていた。そのため彼らは道が通り抜ける森へと入ることを余儀なくされており、その道はマテンペート[ママ]からホーエンリンデンまで1リュー半にわたって隘路を形成していた。
 司令官はリシュパンス将軍に、夜明けとともに移動を始め、エバースベルクからザンクト=クリストフを経てマテンペートへ行軍し、敵の背後に襲い掛かるよう、命令を送った。デカーン将軍はリシュパンス将軍に追随せよとの命を受けたが、1個部隊のみはエバースベルクに残し、ルクルブ将軍の兵と連携して街道を監視する。ルクルブはプフラメリンクからエバースベルクへ行軍し、そこを超えて突入しようとする全ての敵の側面を突くよう命じられた。
 グルニエ将軍は、敵が交戦してきた場合、司令官が合図を出す攻撃の時が来るまで、それを支えるにとどめるよう命じられた。
 司令官は午前7時に戦場に来た。大粒の雪が降っていた。ホーエンリンデンの平野に沿って、主要街道と平行に、及びその左側にインディンゲン[ママ]まで延びている森に支えられたグルーシー将軍の右翼に対し、敵は攻撃を始めた。第108は戦闘隊形を取り、縦隊を組んだ第46と第57は森の端に沿って梯形に布陣した。グルーシー将軍は第4ユサール及び大砲3門に第108を支援させ、この攻撃を支える任務をボネ将軍に与えた。この半旅団は果敢に抵抗し、敵の攻撃が進展するのを防いだ。ハンガリー擲弾兵6個大隊を含む8個大隊が、グルーシー師団が拠っている森を通ってその右翼を迂回しようと回り込んできた。
 側面を突かれた第108はしばし後退を余儀なくされ、マルコニェ大佐は負傷し捕虜となった。極めて強力な砲撃に長時間晒されながら、いつもの堅固さでそれを支えていた第46は、敵が多大な優位を生かして森から出撃してきた時に、グランジャン将軍に率いられて第108の救援に向かった。グルーシー将軍とグランジャン将軍に率いられたこの半旅団の半個大隊は敵に激しく突撃し、血腥い白兵戦の末にこれを打ち破った。第57の半個大隊もさらに右側で森に入り、既に側面かなり遠くまで広がっていたこの部隊の残りに接近した。そこは執拗かつ栄光ある小競り合いの舞台だった。我々は至近距離で戦い、この戦闘を率いたスパンノッキ将軍を含む数多くの捕虜とともに勝利は我々の手の内にとどまった。
 オーストリア軍は側面攻撃と同時にグルーシー師団の正面でも新たな攻撃を行った。第4ユサールに支援された第11猟騎兵の2個大隊が彼らに突撃し、大砲5門を奪った。
 しかし敵は、強力な砲撃を行わないまま、ブルクライン高地とクライナカー高地を経てネイ将軍のところに到達し始めた。
 その時、司令官は、オーストリア軍の攻撃に勢いがなく、その移動が極めて不安定になったことに気づいた。リシュパンス将軍の行軍が彼らに知られるようになった可能性があり、今こそ敵正面に接近するべき時だった。司令官はグルニエ将軍にそうするよう命じた。
 ネイ将軍とグルーシー将軍は即座に攻撃縦隊を組んだ。ネイ将軍はグルニエ将軍から隘路の入り口まで街道を経てきびきび突入せよとの命令を受け、またグルーシー将軍は敵左翼を圧倒しながら同じ地点へと移動した。ネイ将軍は極めて積極的に行軍したため、一瞬にして8から10門の大砲と1000人以上の捕虜を敵から奪った。より大掛かりな移動を余儀なくされたグルーシー将軍も、同じように素早く行軍した。シュパンス将軍によるマテンペートへの進軍を語る時が近づいている。
 実際、この将軍は師団とともに午前7時にザンクト=クリストフを出発した。既に第8半旅団、第1猟騎兵連隊及び第48が村を通過した時、アルバッヒンゲン[ママ]峡谷を経てハークからヴァッサーブルクへの道を機動した敵が、おおよそ隊列の中央にいた第14軽の大隊がいるところで師団を側面から突いた。活発な銃声が聞こえた。縦隊の先頭にいたリシュパンス将軍は、しばし行軍を止めた。だが彼は、10歩先のものでさえ見分けられないほど降り積もった大量の雪のために案内人が迷って道を見つけられなかったせいで、酷い道に入り込んでいた。後退が不可能だった縦隊の先頭は、前方へと移動を続けるしかなかった。そこでリシュパンス将軍は、敵と戦っている旅団を率いていたドルーエ将軍に対し、デカーン将軍が来て彼を解放し師団の先頭に再合流できるようになるまで、敵を強力に牽制するよう命じた。師団の先頭は、司令官の命令によれば必ず到着しなければならないマテンペートへの行軍を続けた。
 この決断をしたうえで彼は行軍を続け、多大な困難の末にマテンペートへ到着した。そこには下馬したナッサウ胸甲騎兵がおり、彼らは捕虜となった。第8戦列は村を通り抜けて前面を形成し、第1猟騎兵は右翼に、追随していた大砲6門は正面に配置された。それから第48が行軍し、第8の左翼についた。
 リシュパンス将軍がちょうど布陣した戦線は主要街道と平行に伸びており、その道はマテンペートからマスケット銃の射程内を通っていた。移動を終えた第48の左翼は、ほとんど街道がホーエンリンデン森に入る地点にあった。リシュパンス将軍の正面にはおよそ騎兵8個大隊と7から8門の大砲がいた。第48が隊列を組んでいる間、第1猟騎兵が敵騎兵への突撃を試みた。彼らは積極的に接近したが、地形の陰に隠れていた敵騎兵1個大隊に側面を突かれ、戻って第8の右側で再編することを強いられた。周囲を全て囲まれ、ドルーエ将軍が師団の残りとともに自由になれるかどうか分からなかったリシュパンス将軍は、自らの弱みを悟られる時間を敵に与えてはならないと感じ、街道上を集団で行動し、敵の背後に向けて電光石火の速さで進軍することを決断した。
 この大胆な進軍において、右翼のワルテ将軍は前面にいる騎兵を牽制し、左翼のリシュパンス将軍は森へと入ることになった。彼は兵を半大隊正面の縦隊に組み、主要街道に到着し、縦隊を左に転じて森へと前進した。入り口を守ろうとした敵は大砲3門とともに到着し、何発かの散弾と激しい射撃が発せられたが、我らの移動は止められなかった。そこで彼らはハンガリー擲弾兵3個大隊を集め、密集縦隊を組み、駆け足で前進してきた。
 この決定的な瞬間にリシュパンス将軍は振り返り、兵たちの目を見た。活気とともに、勇者たちを信じている彼は言った。『第48の擲弾兵たちよ、やつらをどうしてくれようか?』『将軍、戦死させよう!』この言葉とともに彼らは突進し、敵は打ち倒された。勢いが与えられ、縦隊はまるで奔流のように相次いで対峙しようとした集団全てを打ち破った。
 同時に大いに果敢にオーストリア軍を追撃していたネイ将軍がホーエンリンデン方面の隘路の出口に到着した。敵はなお自らを守ろうとしたが、すぐに押し込まれた。ネイ将軍は隘路に入り、そこで膨大な縦隊があらゆる方向から圧迫され、漂い、渦を巻き、最終的には脇道がある森へと駆け寄っているのを見た。恐ろしい叫びが聞こえ、空しく避難場所をモミの木の背後に探そうとする逃亡兵たちを、木々の間を抜けて死が追撃していた。勝者の寛大さに訴えることのみが、虐殺を逃れる手段だった。少し前まで数千の兵士たちが埋め尽くしていた道には、今や散らばった死体と、導く主人がおらず恐れをなした馬たち、荷車とひっくり返った弾薬箱、そして我らの手に落ちた87門の大砲しかなかった。この混乱と恐怖の光景の真ん中で、なお互いに遠かったリシュパンス将軍とネイ将軍は、相互に同時に兵を押し出し、相手に気づき、それぞれのやりかたで合流がなされたと宣言した。リシュパンス将軍は、マテンペートを出発した時に戦っていた騎兵と交戦しているワルテ将軍を支援するべく、すぐに引き返した。ネイ将軍とグルーシー将軍は彼に続いて進み、そして歓喜と誇りに満ちた我らの兵が、多くの戦利品に覆われたこの地を相次いで行進した。
 進路を戻ったリシュパンス将軍はワルテ将軍と会った。彼は胴体を貫いた弾丸によって深刻な怪我を負っていたが、この勇敢で尊敬すべき士官の命には危険はなかった。兵たちに運ばれた彼の目は、痛みよりも輝かしい勝利の喜びに彩られていた。失ったばかりの全ての損害を感じたリシュパンス将軍はしばし彼の近くにとどまり、それから兵たちのところへ戻った。今や我々が支配者となった森の端に歩兵を並べ、彼は騎兵とともに敵へ向けて出撃した。敵は彼の前で慌てて退却するのみだった。デカーン将軍によって解放された師団の残りも彼と合流した。ラフォン大佐が指揮していたデカーン将軍の前衛部隊は、ドルーエ将軍がザンクト=クリストフの高地で交戦しているのを見つけたが、そこには隊列を組む場所がなかった。ラフォン大佐は第14軽の第3大隊及び第6猟騎兵連隊の1個大隊とともに、あからさまに敵に接近しこれを追い払った。モントーロン騎兵少佐が乗馬を殺され、自ら歩兵の先頭に立って何度も彼らとともに突撃したのはこの場所だった。敵は予備とともに前進し我らの兵に退却を強いた。デカーン将軍はクニャージェヴィッチ将軍に対し、マテンペートとホーエンリンデン間の街道に向けて左翼の森の中へ入るよう命じた。実行されたこの移動はドルーエ将軍を解放し、同時に敵の街道への壊走をもたらした。
 戦いに勝利し、敵の中央は壊滅した。だが彼らの右翼と左翼はなお戦っていた。グルニエ将軍は、ルグランとバストゥールの2個師団及び騎兵予備とともに、左翼にとどまっていた。またネイ将軍の師団の擲弾兵大隊と第13竜騎兵及び第19騎兵で構成されていた予備旅団も、彼は手元にとどめていた。これらの兵とともに彼は、ブルクラインからホーエンリンデンへの出口方面におけるバイエ=ラトゥール氏の攻撃を支え、ルグラン将軍はハートホーフェンで、バストゥール将軍はブーフとフォアステレン[ママ]でも戦った。敵はこの極めて有利な戦場で半数以上の数的優位を保持していた。グルニエ将軍は劣勢にもかかわらず、中央への攻撃の成功を見て自らも攻勢に出る決断をした。攻撃が命じられ、敵は驚くべき果敢さで戦ったが、ルグラン師団とバストゥール師団は驚嘆すべき価値を示した。両軍は何度も入り乱れ、陣地は奪い奪われ、第51及び第42半旅団は何度か騎兵に側面から突撃されながらも一時たりとも揺らぐことはなかった。最後にルグラン将軍の右翼がレンドルフの隘路で敵を倒し、一方でボネ将軍がバストゥール師団の1個旅団とともに敵をイセンへと追いやり、彼らはほぼ1500人の捕虜と大砲6門を我々の手に残して後退した。この執拗な戦闘において第5猟騎兵連隊の指揮官は酷い怪我を負い、また第42の指揮官は乗馬を殺された。
 敵はなおバストゥール将軍の中央及びネイ将軍の予備に対して大いに攻撃を行ってきた。グルニエ将軍はドープール将軍に対し、ネイ将軍の擲弾兵大隊に支援されながら3個騎兵連隊とともに到着するよう命じた。新たな兵のおかげでバストゥール将軍は攻撃縦隊を組むことができ、森の正面にあるダッティンク[ママ]高地に新たな戦線を敷いた敵へと行軍した。敵をイセンへと追い払ったばかりのボネ将軍は、第42の1個大隊及びフォーコネ将軍が指揮する騎兵に支援されながら移動を行い、攻撃の右側面を担った。一方、ジョバ将軍率いる予備旅団は左側面へと前進した。敵はこの最後の攻撃に抵抗できなかった。彼らは混乱して後退し、大砲と多くの捕虜を我々に残した。この日を通じた行動が最高の称賛に値するバストゥール将軍は、この攻撃で深刻な怪我をした。
 グルニエ将軍が支えたとても激しい戦いの音を聞いた司令官は、第108半旅団及び第57の2個大隊に対し、ホーエンリンデンへ後退し増援になれと命じた。これらの兵は最大限の速度で行軍したが、彼らが到着した時、敵は既に全面的に壊走していた。
 マテンペートへ向かうリシュパンス師団に追随すべくエバースベルクを発した右翼のデカーン将軍は、ヴァッサーブルク街道をカバーし、ルクルブ将軍の兵が到着する時間を与えるため、デビリー将軍が指揮する1200人の部隊を残した。行軍の際に彼は分断されていたリシュパンス師団の一部を解放した。ホーエンリンデン平野における隘路の出口でグルーシー将軍の素早い移動によって退却できなくなっていたオーストリア軍の900人の部隊は、ヴァッサーブルクへと脱出を試み、デュリュット将軍の旅団を攻撃した。この将軍は、カラビニエ中隊を含む第14軽の2個中隊を前進させた。彼らはしばし撃たれたが、捕虜となるべき兵たちがなお抵抗を試みようとしているのに立腹した参謀副官コルミル[ママ]は、彼らの間へと駆け寄って降伏を命じた。彼らは武器を置いた。
 右側面をカバーするとともに朝方にリシュパンス将軍を攻撃した部隊を監視するべくクニャージェヴィッチ将軍をポーランド軍団とともにザンクト=クリストフへと向かわせたデカーン将軍は、マテンペートへの行軍を続けた。だがグルーシー師団が森から出てくるのを見た彼は、敵の退路を再び断つべく、デュリュット将軍に対して方向を変えアルビシンゲン[ママ]を経てハークへ行軍するよう命じた。その時、クニャージェヴィッチ将軍が敵に激しく攻撃されていると彼に告げた。デカーン将軍は陣地にとどまるよう彼に命じ、そしてこの将軍は、デュリュット将軍がアルビシンゲンへと行軍し、敵の右側面の向こうまで通り過ぎて敵に退却を強いるまで、軍団の先頭に立って極めて勇敢に彼らを支えた。この日、デカーン将軍が続けた戦いにおいて、彼の兵たちは抜群の方法で彼らの名を知らしめた。彼の師団は大佐2人と士官50人を含む3000人の捕虜、及び大砲7門を手に入れた。
 午後6時になり、夜の到来が敵を完全な破滅から救い出した。午後4時には圧倒的に戦いには勝利しており、まだ5時間は戦う時間が残されていた夏であれば、オーストリア軍は大砲10門も持ち帰ることができず、軍の半数以上は破壊されていたことだろう。
 この日の結果は、179人の士官、ドゥロワ将軍とスパンノッキ将軍、リーニュ公を含む4人の大佐を含む1万1000人の捕虜と、大砲100門が我らの手に落ちた。1回の戦闘でこれだけ多くの大砲がオーストリア軍から奪われたことは、軍事史にも例がない。
 これほどの決定的勝利は疑いなく最初の配置における大胆さと巧妙さに帰するものだが、それが実行された際の正確さと輝かしい活力についても、いくら称賛しても十分ではない。将官たち、士官たち、そして兵士たちは皆、期待を超えた。獅子のように戦った何人かの兵は『これほど素晴らしい日の終わりを見るまで、まだ今日は死ぬわけにはいかない!』と言った。
 グルニエ将軍は敵に対し、たとえたった2個師団でもどのように戦えるかを知っているし、優勢な敵全軍を前に誇りをもって後退できることを示した。彼はまたいかに勝利し、特に以前よりも激しく追撃することも知っていた。彼は完璧に司令官を手助けした。
 ネイ将軍、リシュパンス将軍、グルーシー将軍、バストゥール将軍、ルグラン将軍及びデカーン将軍はこの日、司令官が称賛の必要に迫られるほど輝かしい役目を果たした。
 クニャージェヴィッチ将軍、デュリュット将軍、グランジャン将軍、ボイエ将軍、ラオリー将軍、ドルーエ将軍、ボネ将軍及びサリニー将軍は偉大な軍事的才能の証拠を示した。ドルタンヌ将軍と参謀副官ルフォルは乗馬を殺された。
 参謀のデプランク、ダルボワ及びプローザンヌは、彼らが仕えた師団長たちから特に顕彰された。リシュパンス将軍は工兵士官の市民ラベルと、大佐の市民サリュ、バロン少佐、第5ユサールのクラベ大尉、第1猟騎兵のラポワント中尉を称賛した。デカーン将軍は第5猟騎兵連隊の大佐、市民ラフォンと、少佐の市民モントーロンの行為を称賛した。
 部隊の指揮官たち、参謀たち、副官たち、補佐たち、工兵たちは皆、際立った方法で活躍した。司令官の筆頭副官であるルギュエ大佐は乗馬を殺された。参謀のマクシミリアン・ラマルクは負傷し、ルノルマンとギヨーもまた名を上げた。グルーシー将軍の副官であるグリマルディ大尉は銃弾に腕を貫かれた。みな司令官の副官である市民シュトロルツ、ドルレー及びラパテルは、リシュパンス将軍への命令を運ぶために何度も敵戦線を突破した。
 我々の損害は死傷者合わせて約1200人にとどまった。敵の損害は膨大だったはずで、死傷者は7000人から8000人に上った。
 市民大臣殿、将軍たちの特別な称賛に値する権利を持った全ての勇者たちの名を告げるのは不可能である。我々が戦った土地の広さ、及びこの記憶すべき日に戦った兵の数の多さは、必然的に国家的な尊敬に値する多くの事実が忘れられてしまうことを示している。報告を知らされれば私は急ぎそれをあなたに伝え、ふさわしい報酬を政府に求めるだろう。
 続いて、エスパーニュ准将は真夜中頃にアーディンゲンで、騎兵1200騎と歩兵700人の部隊による攻撃を受けた。奇襲されるには活発すぎたこの勇敢な士官は、数的不利にもかかわらず敵を追撃し、防衛を任された地点を守り切った。

 (後略)

"Campagne des français en Allemagne, année 1800" p336-344


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