フルーリュスの戦い
コーブルクの報告



 1794年6月26日、フルーリュス近くの戦闘報告。

 マルベ、1794年6月26日。
 シャルルロワが既に敵の手にあると疑う充分な理由があったにもかかわらず、確実な情報が入手できそうになかったため、そこの解放のために決断された攻撃は、シャルルロワのように重要な場所の命運を成り行き任せにしないためにも必要でした。
 その結果、軍は25日に5つの縦隊で行軍し、26日早朝、ランビュサール、エッピニー、及びゴスリー間にある敵の塹壕陣地を攻撃しました。
 強固な意志で実行された攻撃は、あらゆる場所で成功を収めました。敵の前衛部隊は、強力な堡塁に守られていたにもかかわらず、押し返された。夕方には左翼はサンブル此岸の主要高地に到着しました。
 この地は緩やかな下り坂を形成しており、敵はそこを極めて広大な線の堡塁で要塞化し、莫大な数の大砲を持ち込んでいました。これらの障害にもかかわらず、左翼は銃剣を構えて敵の陣地を突破しようと試みました。しかし25日夕に起きたシャルルロワ降伏によって敵は攻囲軍の増援を受け、かくしてその戦力の大半を我々の左翼へ振り向けました。この優位に彼らの状況及び大量の重砲を加えることで、彼らは我々の攻撃を撃退することができました。にもかかわらず兵たちは敵砲火の下で再び隊列を組み、そしてもし捕虜の報告といくつかの他の状況によって確認されたシャルルロワ陥落の確実性が我々の将官にこれ以上勇敢な兵たちを危険に晒させないことを決断させなければ、同じ決意で攻撃を再開していたでしょう。将官たちは、負傷者を移動し歩兵に急速を与えるために動きを止め、それから最大の秩序をもってマルベまで退却を行いました。軍はそこで今夜を過ごし、明日には可能な限りこの地域を防御しかつナミュールを守るため、ニヴェールへと行軍します。
 我々の損害はそれほどではなく、おそらく1500人になるでしょう。大砲は1つも失われず、一方で敵から榴弾砲1門と軍旗1旒を奪いました。

"A collection of state papers relative to the war against France, Vol. II." appendix p52


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