フルーリュスの戦い
バレールの議会報告



 バレール:しかしサンブル方面でのより重要な成功の方が皆様の注目をひきつけるでしょう。
 王政期フランスが1622年にスペイン軍を、1690年に連合軍を打ち破ったフルーリュスでの戦役は、各世紀においてフランスの勝利の舞台になろうとしているかのように見えます。
 共和国兵が勝利の桂冠と伴に奴隷たちの死体をこの同じ場所にばら撒いたのは、ごく最近のことでした。6000人の奴隷たちがフルーリュスで滅したのは、シャルルロワ奪取の15日前でした。盗賊どもの中でも最も有名な指揮官の下で団結した外国の大群に対して得られたばかりの目覚しい勝利もまた、この場所でした(何度も拍手が起きる)。
 英国の新聞によればシャルルロワは難攻不落でしたが、シャルルロワは全守備隊と伴に無条件降伏しました(拍手)。
 シャルルロワは英兵が守っているから難攻不落であり、そして英兵はこの拠点が奪われる前に勇敢にも逃げ出しました。彼らはだらしなくも軍旗を置き去りにし、それは最近になってこの議場へと運ばれてきました(拍手)。
 サン=ジュストが塹壕にも軍法委員会を送り込み、そしてこの法廷は敵の目前で裏切り者に正義の鉄槌を下しました(拍手)。
 本日はあなた方に話すことができるもう一つの出来事があります!
 今戦役の決定的な地点と見ているサンブル沿いの共和国軍を壊滅させ、シャルルロワを救援もしくは取り戻すために敵はあらゆる準備を行いました。暴君たちはヴァランシエンヌ、ランドレシー、ケノワ及び周辺にいる彼らの戦力を糾合しました。これらの敵に売られた場所には砲兵と奇襲を避けるための軍事的配備のみが残されました。会戦前日に2万人のプロイセン軍が強行軍で到着し、これら奴隷たちは突如10万人もの群れに膨らみました。
 全砲兵がこのために集められ、騎兵は我々の倍に達しました。この軍でもって集まった盗賊たちはシャルルロワへ前進しました。彼らの意図はフランス軍の側面に向かい、マルシエンヌ=オー=ポンとシャテ[ママ、シャトレか]を確保して[フランス軍を]包囲するというものでした。彼らは砲撃の音がシャルルロワの守備隊にとうとう救援が来たことを知らせるのを期待しながらサンブル沿いに前進しました。
 我々の方は敵の数にかかわらず、ただ彼らと戦い彼らを圧倒することのみを自らに約束していました(拍手)。
 フルーリュスの戦いは収穫月8日の夜明け前、午前3時から始まりました。双方とも選抜兵おり、誰もが血腥い日になることについてはっきりとした決意を明らかにしていました。
 敵軍の右翼は、所謂オラニエ公が指揮していました(笑)。左翼はボーリューが、騎兵は年老いた暗殺者、かつてのランベスク公(戦慄が走る)が指揮し、用心深いコーブルクが司令官でした。
 会戦が始まり、我が軍は数多くの砲撃を伴う敵によって防御陣地までの後退を3回強いられました。しかしこれらの動きも共和国兵の熱意を高めることにしか役立つことなく、そして一方の端から他方の端まで全戦線で自らの権利の為に戦うフランスの戦闘員たちにふさわしい言葉が聴かれました。「きょうは退却してはならない! 退却するな!」(激しい拍手。――傍聴席の市民が軍に栄光を!と叫ぶ)
 間違いなく戦いに勝ったのは兵士たちです。勝利の凱歌は彼らの勇気を祝しました。しかしよき将軍たち、勇敢なリーダーと誠実な指揮官たちも成功と無縁ではあり得ませんでした。
 あなた方にジュールダン、デュボワ、マルソー、ルフェーブル及びクレベールといった多くの将軍たちのことを話さなければなりません。
 マルソー将軍は獅子のように戦いました。彼は乗馬を2頭殺されました(拍手)。
 8000から1万人の決然たる兵から成る前衛部隊は、塁壁のように5時間も不動のままとどまり、敵騎兵及び歩兵の衝撃を常に支えました(拍手)。
 彼らは9時間も戦いました。勝利の行方は見えず、戦士と死者しか残っていないにもかかわらず、勝者は未だ定まっていませんでした。
 ルフェーブル将軍はエルピニ[ママ、エッピニーか]を奪回しました。ジュールダンはデュボワ将軍に騎兵で突撃するよう命じました。彼はその命令を共和国の名の下にくだしました。そしてその地点を3個大隊で増援しました。マルソーは右翼側へ移動し、我々の歩兵はエルピニーの近くで突撃しました。砲撃の音がこの村から半リューのところで聞こえました。それは敵を追撃した我々の軽砲兵のものでした。一方でクレベールは、既に破壊されていたマルシエンヌの橋を脅かしていたものを押し返しました。
 共和国兵は遠方に赤い軍服を着た部隊を見つけました。国民公会の布告は、英国軍が現れたらすぐに殲滅戦をすると宣言しています。デュエム将軍は彼らを捕虜にする代わりに、銃剣をもって赤い軍服に向かって疾走しました。誰一人として共和国兵の一撃から逃れた者はいませんでした(ブラボー! ブラボー! 室内のあらゆるところから叫びが起きた。英国人を殺せ!)。
 ジュールダンが予備と砲兵を集め、全戦線に突撃を命じたのは夕方6時過ぎでした。共和国兵たちは既に勝利していました。彼らは共和国万歳! と叫びながら一致して力を振るいました。この時、敵はこの衝撃にこれ以上抵抗できず、暴君たちの軍は壊走しました(満場一致の喝采の中から共和国万歳! の叫びが聞こえた)。
 連合軍はどうなったのでしょう? 彼らの司令官は何と言っているのでしょう?
 オーストリアとオランダの脱走兵から話を聞いた派遣議員たちの収穫月9日朝時点の報告書は、以下のように述べています。
「軍は午前1時に出発し、モンスとナミュールへ移動しました。脱走兵たちは帝国軍が多くの兵を失ったと言っています。裏切り者のランベスクは退却時に彼が指揮した騎兵に対して多くの不平を述べていました。彼と、多数いる他の亡命貴族たちは、フランス兵に対する恐怖を振りまいていました。彼らは絶望していました。コーブルク将軍も彼らの激情を抑えられませんでした。砲列の背後に整列していたミュレー歩兵連隊は終日不満を述べていました。大混乱状態で退却を始めたのは彼らでした。
「脱走兵によれば軍には不満の種が溢れているそうです」
 ああ! 暴君の軍に溢れる不満や奴隷たちの不平が何だというのです! それよりも勝利の叫びや、兵士たちの大胆さとこの日共和国にふさわしい価値を示したマルソー及びルフェーブル将軍についての輝かしい証拠について聞いた方がいいでしょう(拍手)。8000から1万人の奴隷が戦場に散らばっていました。赤服は全員戦死しました。どのような礼儀も、どのような配慮もこれら盗賊どもには与えられませんでした。共和国兵のところにたどり着いた英国兵は一人たりとも息をしていません。これほど執拗で血腥い戦いは決してありませんでした。
 どれだけの捕虜を得たのか、サンブルの軍が不誠実な英国兵に対するあなた方の布告をどれだけ実行したのか、あなた方に想像がつきますか?
 この偉大な1日における捕虜はたった1人でした(拍手)。
 以上がモーゼル、アルデンヌ及び北方軍の合流がもたらした幸福な成果です。今後はサンブル=エ=ムーズ軍の名で呼ばれるこの合流軍は、果たしてピルニッツ同盟や欧州の盗賊集団たちの陰謀よりも価値が劣るでしょうか?
 フルーリュスの戦いに参加した派遣議員のギトン、ジレ、ローラン、デュケノワ及びサン=ジュストは、この戦闘においてその素晴らしい特質と勇敢な行動を輝かせました。急ぎその事実を国民公会にも知らせるつもりです。しかしこれらの派遣議員だけが成功に貢献したのではありません。ルボン、自由の敵からあれほど中傷を浴びたルボンがカンブレーでスパイを処刑し敵のあらゆる情報をギロチン送りにしたと、サン=ジュストの手紙の中で知らせてきました(拍手)。外国の新聞と亡命貴族が吐き出してきた恐るべき呪いに対しカンブレーで2ヶ月対応してきた警察は、敵の戦役計画を変更させました。この事実はギトン、サン=ジュスト及びルバが尋問した何人かの捕虜の報告によって立証されています。しかし革命警察と共和主義かつ忠実な議員の活動の結果であるこの件については、いずれ追加で特別の報告をします。
 共和国の英雄たちの軍に対する国家的な褒賞を行うまでの対応として、委員会は北方、アルデンヌ及びモーゼル軍が祖国にふさわしい存在であり続けているとの布告を更新することを提案します(拍手)。
 勝利に関していえば、芸術をもってそれを祝します。ティルテウスの歌を思い出させる国民的かつ共和国的な音楽を伴い、自由な人民にふさわしい熱狂的な性格のものです。今夕、共和国軍が得た勝利についての市民的な歌の披露が執り行われます。

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt et Unième." p93-94


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