ショレの戦い
クレベールの記録



 クレベールの記録

 我々が[今後の作戦について]議論している間に、反乱軍の一部は実際にサン=フロランでロワール河を渡り、デルベとボンシャン率いる4万人の部隊が、そこでワインに溺れ略奪に専心している我々の兵を奇襲できるに違いないと信じてショレへ向かった。しかし我々は用心をしており、既に朝6時頃にはいくらかの軽歩兵に支援されたオートヴィユ大尉と50騎の猟騎兵が敵を発見するために出立し、マイの向こう側まで前進してそこで敵の偵察部隊と遭遇した。彼らは敵の戦力を知りその計画を見抜くことができるように敵を移動させるため、しばらく適当に敵を射撃した。それから彼らは敵を追い払い、宿営地に戻ってきた。その報告により、彼は反乱軍を監視し、かつ兵士たちがいつでも戦う準備ができているように、立て続けに部隊を送り出すよう命じられた。
 午後2時頃、前衛部隊が攻撃され、前哨線が大急ぎで撤収していることを私は知った。
 すぐ私は市と宿営地にいる将軍たちを出動させた。誰もが急ぎ武器を取った。私は最も弱体で、細心の注意を払っていなければショレの森を通って最も簡単に迂回される戦線の左翼側へ少し移動した。私はそこで、全てに目を光らせているアクソ、サント=シュザンヌ、ジョルディを見つけた。既に大砲が鳴り響き、激しい斉射の音が聞こえていた。私は敵を偵察し、その結果を私に報告させるため参謀副官ナットと副官ビュケを送り出した。待っている間、私は近くにいた部隊を配置に付かせた。兵士たちの間を移動すると、皆が私に戦って勝利を得ると誓った。右翼のいくつかの大隊が前衛部隊を支援するため前進するのが見えた。私は彼らに後退するよう命じた。
 ボーピュイが支援を求めてきたが、私は拒否した。敵が当然に待ち構えているたった1ヶ所だけで我々を攻撃するとは考えられないためだ。何より私は敵を観察しその正確な準備状況を知ることが必要だった。なぜなら地形の険しい地域ではたった1個大隊の不在が大いなる混乱をもたらすことがあるからだ。さらに、ショレの森に退却する前衛部隊には、既に森を守るための2個大隊も供給されていた。
 しかしながら私は、上に述べたように河の向こう側に宿営していたシャルボ将軍麾下の師団を探すため、参謀副官ダマを送り出した。彼らが到着するや否やボーピュイの前衛部隊を増援するよう申し出るためだった。だが、突然砲撃と射撃が倍化し、前衛部隊は撤収を強いられ敵はそれを追撃した。
 私はアクソとともにいる左翼の大隊の先頭に飛んで行き、そこで兵士たちに話しかけあらゆるところで彼らを元気づけることができた。彼らは前進したが、敵は既に森を確保し我々の左翼を脅かすためにあらゆることを試みた。
 私は退却した大隊を再編し、彼らが放棄した陣地へ戻した。同時に私はアクソの予備部隊に属するいくつかの大隊を前進させ彼らを支援した。この部隊は第109連隊所属で、彼らは軍楽隊を先頭に進んだ。その誇り高い足取りは最も落胆したものの心さえも高揚させ、皆がその例に倣おうと急いだ。しかし敵は敢えて彼らを待とうとせず、逃げ出した。すぐに前衛部隊はその勇敢な将軍の叫びに答え、彼は反乱軍の混乱に乗じて突撃し彼らを追撃した。以上が左翼の状況だった。
 中央と右翼もまた、他の2つの縦隊に攻撃された。ヴィムーは右翼を指揮しており、すぐれた陣地に拠っていた。有利なそこを守るのに必要なのは勇気と堅固さだけだった。私は彼の対応に異論はなかった。加えてデンバレール将軍が彼と連携しており、彼に忠告を与える能力も持っていた。
 マルソーが指揮するリュソンの縦隊で構成された中央は完全に守られており、この勇敢な若き戦士は、彼の立派な戦友たちと同じく、どれだけの価値を持っており何を成し遂げられるかを前日に示したばかりだった。
 まだ左翼の戦闘がどうなるか不透明だったこの時、シャルボ麾下の一師団の先頭が到着した。それは約4000人から成るミュラー師団だった。この危機的な状況で何と重要な増援であったことか! しかし、彼らは前進して高地を獲得する前に突然の恐怖に囚われ、いきなり回れ右するとショレに混乱を引き起こし恐怖と狼狽をもたらした。兵たちは互いに押し合いへし合いし、互いを締め上げ、相互に殺しあった。かくして一人の反乱軍も見ることなく、彼らはこの日の栄光をマインツ部隊とリュソンの縦隊のものとしたのである。
 その間、敵右翼は我々の抵抗に驚き、我々の頑強さにまごつき、逃げ出すことで安全を図るしかなくなった。ボーピュイは常に敵を追撃し、大量に虐殺した。
 突然、中央で砲撃が倍化され、私はダマとともにそこへ向かった。この地点に再集結した反乱軍は突撃するべく戻ってきた。彼らを見たマルソーは動揺することなく、注意深く隠していた砲兵を前進させた。狂信者の群れは銃の射程距離の半分以内まで接近しており、この計略を予想していなかった。その瞬間、散弾が全隊列を覆した。驚愕した反乱軍は動揺し、背中を向け、彼らの右翼が見せた例に従って逃げた。マルソーは今度は自ら彼らを追撃し、私は我が軍が退却する場合に支援できるよう布陣させていた5個大隊を率いてそれに加わった。かくして後方の安全は確保され、我々は常に前進した。何ものも兵士たちの熱狂を抑えることはできなかった。すぐにその地の全域が炎に包まれた。街道の周囲にある城や農場、村に隠れ、降伏を拒否した多くの悪党たちは、彼らの住処同様、炎の餌食となった。
 しかしながらあたりは暗くなっていた。我々は道案内も、食事もなく、ショレまではシェミーエ街道上を4リュー移動する必要があり、一方で我々は翌日にはボープレオーへ戻らなければならなかった。これらを考慮した結果、我々は追撃を終了することを決断し、退却を実行した。
 兵士がそれぞれの軍旗の周囲に集まった時、成功を喜んだデンバレール将軍が我々に祝いを述べに来た。だらしなく部下の兵から見捨てられ、これほどの素晴らしい戦いに寄与できなかったことについて慰めようのない様子を見せていたミュラー将軍も同行していた。
 我々の位置を司令官に伝え、彼からの命令を受け取るべく送り出していたダマが、私の下に来て宿営地に戻るようにと伝えた。
 左翼縦隊はボープレオー街道上で追撃を続けた。食糧の欠乏にもかかわらず停止しなかった理由は、我々が翌日にはそこを確保しなければならなかったためだ。ウェステルマンの提言により、アクソとボーピュイはその夜のうちに哨兵を前進させることを決めた。ウェステルマンはそうすることの重要性を知っていた。壊走した軍に対する勝利した兵たちの圧倒的な優位は誰もが確信していた。かくして4時間続いた血腥い戦闘も、共和国軍がその成功を追い求めほとんど6リューの距離を行軍するのを妨げることはできなかった。深夜前、ボープレオーは攻撃され、最初の哨兵は喉をかき切られた。敵に大砲から散弾を2回撃つほどの時間しか与えることなく、我らが勇者たちはその大砲を奪った。後衛部隊を形成していた敵8000人は、サン=フロランにいる主力部隊と合流すべく牡鹿のような素早さで逃げ出した。しかし、暗い真夜中に錯綜して不案内な土地に悩まされていた我々の兵士たちは、彼らを追撃することができなかった。
 かくしてこの血腥く忘れられない日は終わった。いくつかの12ポンド砲を含む大砲12門が勝者の手に落ちた。ショレの町を縁取る平地と道路上には死体がごろごろしており、反乱軍は多くの指揮官が戦死したことを嘆いた。何人かが負傷しており、その中にはデルベとボンシャンもいた。極めてよく率いられていたが、同時に彼らにとって極めて破滅的であったこれほどの執拗な戦いは、これまで決してなかった。ボープレオーでは病院に400人の負傷者が発見されたが、彼らはクリッソンからの退却時に救急車両の中で喉をかき切られた同数の共和国兵の復讐と報復のため犠牲に供された。反乱軍は虎のように、我が兵たちは獅子のように戦った。攻撃のための大胆さ、退却に対する慎重な態度、敵を押し返す猛烈さ、その全てが順番に適用され、実行に移され、成功をもたらした。
 これほどの血腥い戦いは知られるに値する場所を占めるべきだろうと容易く想像される。
 ボーピュイは2頭の乗馬を殺された。その拍車が2頭目の馬具に引っかかった。この事故によって彼はすでに彼を取り囲もうと備えていた敵の手に落ちそうになった。危険を前にボーピュイは火事場の馬鹿力を出した。彼は力を振り絞り、そこにいた敵を追い払い、壊れた弾薬箱の背後に身を投げ、幸いにも無傷の状態で味方の大隊の先頭にたどり着くことができた。
 ブロスと彼の擲弾兵たちはすでに獲得していた評判を守った。あまりに多くの敵に圧倒され、彼らは一瞬だけ混乱に陥った。ブロスは彼らに加わり、徒歩で彼らの中にあって絶えず争いに混じり、白兵戦を繰り広げた。彼がある反徒のサーベルの一撃を避けたところ、別の兵が至近距離から射撃した。私の副官ビュケが悪党の銃身をサーベルで跳ね上げ、彼に砂を噛ませなければ、この誠実な兵は殺されていただろう。
 大胆なタルジュは撃たれ、銃弾は腕を貫通し胴体に入った。彼は私の下へ来ると、その痛みについて何も言わず、勝利は我々のものだと告げた。
 同時に私は私の傍にいたヴェルナンジュが致命的な一撃を受けたのを見た。彼は私に別れを告げて叫んだ。共和国万歳!
 第32連隊のサン=ソーヴール少佐は大腿部に銃弾を受けて負傷した。参謀副官のデュブルトンは脚部を撃たれた。彼らは敵の敗北が確定した時になって、ようやく戦場を離れた。彼らは自らの血が流れるのを悔いることなく、我々の成功を喜んだ。
 2日前[15日]に指揮官が戦死したカッセル猟兵では、パトリ少佐もまた死去した。軽歩兵部隊の4人の指揮官はかくして全員戦死または負傷し、我々にとって計り知れない損失となった。
 これら勇敢なものたちの他にも、何人かの佐官が戦死または負傷した。擲弾兵大隊を指揮し40年の軍務経験を持つアジュロンもまた、栄光ある経歴に終わりを告げた。
 (最後に、私は10月15日と17日に、我が師団のみで佐官、あるいは参謀士官たち14人、全てマインツでともに戦った我が友人にして戦友を失った。)
 派遣議員のメルランは絶えず軍の先頭にいた。我々が敵の大砲を奪うや否や、彼は地面に降りそれを反乱軍に向けて撃った。彼は傍で戦死した友人であり秘書のジュイフの損失にとても衝撃を受けていた。
 もし私がこの会戦の記録でレシェル将軍とその補佐であるロベールに触れていないとしたら、それは彼らを見たことを確言できるものが誰もいないためである。彼らは絶えず大砲の射程距離外にあるボワ=グロロー街道の脇にとどまった。レシェルは周囲の誰からも見られたくない様子がありありとしていた。この件について説明を受けたデンバレールは、彼に向かって率直に、かつ彼の態度と同じやり方で答えた。

"Kléber en Vendée" p215-226

 :この文節は"Guerres des Vendéens et des Chouans contre la République française, Tome Deuxième"のp267には掲載されているが、Kléber en Vendéeには見当たらない。


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