シャルルロワ降伏
派遣議員の報告



 サンブル河畔で合流した北方、モーゼル方面及びアルデンヌ方面軍所属の派遣議員から、公安委員会へ。
 シャルルロワ、一にして不可分のフランス共和国暦2年収穫月7日。

「市民同僚諸君、我々はシャルルロワ奪取まで、それに先立つ詳細を述べるのを控えてきました。
「先月26日、軍は早朝1時に敵に向かって行軍を始めました。敵も同じ時間に我々に対して行軍しており、双方が遭遇しました。霧は濃く、戦闘は午後3時まで激しく続きました。勇敢なクレベール将軍が指揮する左翼は感嘆すべきことを成し遂げました。デュエム准将がそこで名を上げました。中央も同様に戦い、騎兵の先頭に立って突撃したデュボワ将軍は捕虜500人、大砲7門を奪い、700から800人を斃しました。ルフェーブル将軍率いる前衛部隊も同様の成功を収め同じ勇気を示しました。我々の砲兵はユサールのように突撃し、霧が出ている間に奪われた大砲を取り返しました。敵は、我々が前に伝えた3000人ではなく6000人を失いました。
「夕方、弾薬の欠乏により我々は後退し、敵もまた後退しました。我々の死傷者は1500人でした。
「30日、シャルルロワ攻囲がこれまでにない熱心さで再開されました。工兵士官マレスコは仕事を進める際の活発さで多くの名声を得ました。砲兵は町を灰に変えました。
「攻囲用塹壕を掘った6日後、敵に降伏が勧告されました。彼らは降伏を拒否しました。6日、砲撃は倍化し、7日に彼らは条件付きの降伏を申し出てきました。15分以内に全面降伏しなければ攻撃を命じ守備隊を刃にかけることになりました。彼らは交渉使節を送ってきましたが、我々は[彼らの]手紙を開封することなく送り返しました。レニャック将軍はシャルルロワに全面降伏を命じ、共和国の寛大さに身を委ねました。オーストリア家の高慢さを頚木に敷くのを見ることになるであろう名誉ある降伏文書を、ジュールダンがあなた方に送るはずです。捕虜となった守備隊は3000人で、そこには50門の大砲がありました。弾薬は尽きており、そこはもはやただの前哨基地でしかありませんでした。
「本日、大胆さが成し遂げた膨大な情報をあなた方と分かち合うことができないのが残念です。我々はそれを調べ、フランス人民に伝えるつもりです。
「サンブル及びムーズのこの地点は最も重要な場所になりました。敵はここに戦力を連れてくるでしょう。我々は勝利を予想しています。敵の軍旗を送りました。
「署名 ジレ、ギトン、サン=ジュスト」

"Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt et Unième." p80


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