アウステルリッツ
ミロラドヴィッチの報告



 ミロラドヴィッチ中将からクツーゾフ将軍への報告

 1805年12月15日

 1805年11月20日(グレゴリオ暦では12月2日)、私はマロロシースキー擲弾兵、アプシェロン、スモレンスク及びノヴゴロド・マスケット銃兵、クドリャフツェフ大佐の砲兵中隊と40騎のエリザベトグラード・ユサールの各連隊と伴にオーストリア軍の第4縦隊に所属することになりました。私は計画に従い午前8時頃に野営地を発し、縦隊の前衛部隊としてノヴゴロド連隊のマスケット銃兵大隊とアプシェロン連隊の擲弾兵大隊を2門の大砲と伴にマナフト中佐の麾下に組織し、野営地から1マイル離れたシュラパニッツ村を占拠するよう命じました。
 この前衛部隊が野営地に近接する場所にあるシュラパニッツ村を通過するや否や、激しい銃撃と砲撃を伴いながら彼らに向かって直接前進してくる敵の2個縦隊と遭遇しました。部隊は急いで正面を整え、銃剣攻撃を行い、最初の敵縦隊を圧倒しました。しかし、敵の9個縦隊が突然現れ、市松模様の隊形に並び、砲撃を強化したうえで我々の側面を迂回して攻撃を再開したため、それを撃退することができませんでした。我々の大砲はいずれも既に損害を受けました。強力な砲撃と銃撃に守られた優勢な敵と対面し、私はすぐにレプニンスキー少将をノヴゴロド(連隊)の擲弾兵大隊と伴に(シュラパニッツ)村のこちら側にある丘を占領するため派出し、退却するノヴゴロド連隊のマスケット銃大隊がそこで合流できるようにしました。(オーストリア)帝国の2個大隊もこの丘に到着しました。(その間)閣下の命令を受けて私はマロロシースキー擲弾兵、スモレンスク(・マスケット銃兵)連隊及びアプシェロン(・マスケット銃兵)連隊を擲弾兵1個大隊と伴に集め、彼らを率いて我々に対し直接前進してくる(フランス軍)に対し、敵を圧倒するか少なくともその前進を止めてオーストリア軍が私の後方の陣を占領するのに十分な時間を与えるために攻撃を行いました。丘の中央には砲兵中隊が布陣しました。
 かくしておよそ5000人が集結した(ロシア軍)4個連隊とオーストリア軍2個大隊が、最終的には2万8000人に達した敵兵相手に決然と戦いました。アプシェロン・マスケット銃兵[連隊]の擲弾兵大隊は2回銃剣攻撃を行い、うちモロゾフ大尉率いた二度目の攻撃では大砲2門を奪うのにほとんど成功するところでした。大砲の多さを利用して(フランス兵は)4つの横隊を組んで混乱した縦隊を新たな兵と交代し、その兵力の大半をこの方面へ向け我々の小さな陣地の両側面を通過し、背後の高地を占拠しました。
 この間、レプニンスキー将軍は勇敢に戦いましたが負傷しました。ベルク少将は捕虜となりました。我々の背後に布陣していたオーストリア軍はそこを放棄し退却しました。そうした悲惨な状況と、兵の極端な疲労、弾薬の欠如、困難な地形とあらゆる方角からの敵の砲撃によって、それまでとても雄々しく戦ってきた兵たちは混乱しました。
 しかしこの混乱も、優れた秩序をもって陣を確保し敵と射撃を交わしていた陛下のイズマイロフスキー近衛連隊所属大隊のところに我々がたどり着くまでしか続きませんでした。この小休止を利用して私は兵を再編し、彼らは砲撃にも関わらす熟練した様子で周囲に集まりました。近衛大隊が最後に退却した時、私はアウステルリッツ村にある弾薬を入手しさらに村の反対側で敵と戦っているどの連隊でも増援するつもりで縦隊を村まで率いました。しかし私は陛下からアウステルリッツを占拠するよう命じられ、そして会戦が終わった後で陛下はゴリツィへ退却する軍の後衛部隊を増援するよう命じました。
 敵が戦場を支配するのに甘んじて我が軍を追撃せず、その砲撃がそれほど効果的でもなかったため、我々の損害はそれほど多くありませんでした。損害は士官――4人戦死、2人行方不明。戦死と行方不明が下士官で24人、軍楽隊8人、兵662人、その他25人でした。(フランス軍は)彼らが(しばしば)戦闘縦隊を入れ替える必要があったことから簡単に推察できますが、ずっと多くの損害を蒙りました。
 その勇気で名を上げた士官たちに触れるに際し、私は閣下に特に(以下の士官について)注意と配慮をお願いしたいと思います。ベルク少将、脚を負傷し脇に打撲を負ったレプニンスキー少将。マロロシースキー擲弾兵連隊からは腹部を負傷したクリスタフォヴィッチ少佐とステパノフ中尉。アプシェロン連隊からは大砲奪回にほとんど成功しそうになったモロゾフ大尉とシャルスキー幕僚大尉、旗手グトコフ。スモレンスク・マスケット銃兵連隊からはチチャゴフ少佐。ノヴゴロド連隊のミリュティノフ幕僚大尉。レプニンスキー少将の筆頭副官ベレゾフスキー、私の筆頭副官アラクチェーエフと、副官として私に割り当てられたマロロシースキー擲弾兵(連隊)の旗手ブラウコフ。アプシェロン連隊の連隊副官グリンカと、(戦闘中に)最も危険な場所へ伝令に出された同連隊の旗手トゥラエフ。
 この報告を記すに際し、私は致命的な負傷を負った皇帝陛下の副官であるティゼンハウゼン伯(クツーゾフの娘婿)のことを悲しみと伴に思い出さずにはいられません。この優れた士官は注目に値する勇気をもって戦い、絶えず最も危険な場所の渦中にあって、戦いの日に卓越し私を大いに助けてくれました。彼の死によって軍は特段の功績を持つ士官を失いました。

 ミロラドヴィッチ中将

 Napoleon Series "Memoirs from the Russian Archives"


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