1815年6月18日昼
オーアン街道





鷲章旗の奪取


「突然、そしてまるで命令が与えられたかのように同時に、全[バイラント]旅団が崩れ踵を返して逃げ出し、丘へ登って生垣と道路を乗り越えていった。奔流の中にいた死に物狂いの兵たちは彼ら自身の予備大隊とその背後にいた砲兵を押し流し、あちこちで英国兵とぶつかった。英兵たちは彼らに非難とブーイングを浴びせ、彼らを撃つのを自制しなければならなかった」
David Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p66


 デルロン軍団の攻撃前にバイラント旅団(ベルギー兵)がどこにいたかについては論争があることを「1815年6月18日昼 モン=サン=ジャン」で指摘した。だが、布陣していた場所はともかく、彼らがフランス軍の攻撃を受けて退却したことについては異論を持つ者はいない。バイラント旅団はフランス軍の圧力を前に後方へと逃げ出した。
 Howarth同様、多くのワーテルロー本ではこの逃走に対して英国兵が非難の声を浴びせたとしている。彼らが逃げ出した結果、ピクトン師団所属の英国兵たちがその穴を埋めなければならなかった。英国兵、特にスコットランド兵はフランスの大軍を迎え撃ち、彼らの進撃を食い止め、ところによってはそれを撃退。最後にポンソンビーのUnion Brigadeの突撃でトドメを刺した、というのが一般的なワーテルロー本の説明だ。

「しかし生垣[の防衛線]は放棄されなかった。ピクトン率いるスコットランド兵はそこから100ヤード離れた背後にいて砲撃から身を隠していた。フランス軍が接近するにつれ、彼は薄く弱体化した戦線に前進を命じた――2列横隊の彼らはフランス軍とブリュッセルの間に存在する唯一の歩兵だった。
 タイミングは思いがけず完璧だった。フランス軍が隊列を組み始めた時、スコットランド兵は生垣に達した。マルタン[フランス軍中尉]には彼らが地面から湧き上がったように見えた。ピクトンが『撃て』と叫び、40歩の距離から3000のマスケット銃が生垣越しに放たれた。(中略)
 しかしフランス軍は崩れつつあった。彼ら自身の隊列によって動きが封じられ、隊列を組んでいる最中を狙われて彼らは教えられたように戦うことができなかった。奇襲射撃は彼らを混乱に陥れ、突撃は混沌をもたらし、その混沌はパニックにつながった」
Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p67-68


 Howarth以外にも同様の話を書いている人は多い。だが、中には通説と異なる話を紹介している研究者もいる。代表例がAlessandro Barberoだ

「そして戦闘からそれほど遠くないところにいたウェリントン自身がしばらくしてキャメロン[第79連隊]が『持ちこたえられないところまで来たように見えた』。
 トーマス・ピクトン卿が、彼にとって恐怖であったことに、スコットランド人部隊が崩れつつあるのを見た時、彼は通りかかった最初の士官に合図をし、部隊の崩壊を止めるよう命じた」
Barbero "The Battle" 133

「彼らの将軍[パック]が期待したように銃剣を構えて前進する代わりに、彼ら[第92連隊]もまた射撃を始めた。必然的に撃ち合いは最悪の結果となり、彼らは混乱の中で退却を始め、その間に[フランス軍]第42連隊の兵たちは勝利の雄叫びを上げながら密集して生垣を越えた」
Barbero "The Battle" p137


 Barberoによれば英国歩兵は必ずしもフランス歩兵を撃退や食い止めることができたとは言えない。それどころか第92連隊に至っては、ブーイングを浴びせたベルギー兵たちと同じようにフランス軍の圧力を前に退却したことになっている。
 なぜ通説と違う話が出てくるのか。最終的にフランス軍に大きな損害を与えた騎兵部隊(Union Brigade)の関係者が残した証言が、原因の一つかもしれない。実は複数の人間が、英国歩兵部隊の苦境についてWilliam Siborne宛ての手紙で触れているのだ。

「我々の旅団は小さな窪地状の道と生垣から100ヤード後方まで来た。(中略)我々はそこで我々の歩兵が騎兵大隊の側面を通り過ぎることができるよう、そして我々自身が道路を横切って突撃していればそうなったであろう代わりに敵が道路を通過する際に少し混乱するだろうと考え、敵縦隊の先頭が――私が理解する限り――窪地状の道をちょうど越えるまで数分間待機した。[ポンソンビーの副官De Lacy Evans]」
Herbert Taylor Siborne "Waterloo Letters" p61

「接近しているように見えたフランス軍縦隊の先頭は、撃退されたようにも本気で食い止められたようにも見えなかった。むしろ、私が前に述べた通り、彼らは我々の戦線を押し通り、その縦隊の先頭は二重の生垣のブリュッセル側にあった。私が見たところ彼らの正面には英国歩兵は存在せず、推測するに生垣の背後に敷かれていた戦線は左翼側へ移動し(というのも私は彼らを突撃の瞬間まで見なかった)、前進してきた左側縦隊の左側面を射撃していた。
 事実として高地の稜線は奪われ、決定的な瞬間になされた騎兵突撃がそれを奪回したのだ[第1竜騎兵連隊大尉A. K. Clark Kennedy]」
Siborne "Waterloo Letters" p72

「[Siborneからの]前回の手紙を貰うまで、我々が稜線を奪回する前にフランス軍縦隊の攻撃がジェームズ・ケンプト卿の旅団に迎撃され撃退されていたことなど全く分からなかったし、正面で何が起きていたのかを見ることもできなかった。
 瞬間的に見た中では、我々の歩兵が明らかに大混乱の状態で生垣を越えていたのを(本当は隊列を組みなおすため成功した攻撃から戻ってきたのだが)縦隊の先頭が私のすぐ左前方で高地を奪っていた敵の前進によって生じた自発的でない移動だと勘違いしたのも許されるだろう。
 我々が横隊を組んでいた時、我が歩兵が生垣を越えていたのは確かだが、彼らが後方で再編したのか、それともすぐに前進し前方で隊列を組みなおしたのか、私には断言できない。ただ、その瞬間には明らかに大きな混乱が生じていた[A. K. Clark Kennedy]」
Siborne "Waterloo Letters" p76-77

「[スコッツ・]グレイが生垣のある丘の頂上にやって来た時、第92ハイランダーズ[連隊]は退いているように見えた。
 第92ハイランダーズはグレイの隙間を通り抜け、幾人かは連隊と伴に生垣から丘を下った。第92連隊がグレイに声援を送り『スコットランドよ、永遠に!』と叫んだのはこの時である[第2竜騎兵連隊中尉C. Wyndham]」
Siborne "Waterloo Letters" p81

「彼ら[スコッツ・グレイ]は命令に従い、真っ直ぐ正面へ前進し、ほとんどすぐにいくらか混乱して退却する第92連隊と出会った[第2竜騎兵連隊少佐Frederick Clarkeが喇叭手W. Crawfordから聞いた話]」
Gareth Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p60

「歩兵部隊を通り抜ける際――その一部は騎兵に場所を空けるため回れ右をしていた――、一部は騎兵大隊の隙間を通り抜け、そして私が想像するにいくらかはより不揃いな状態で通過していった[第6竜騎兵連隊中佐Joseph Muter]」
Siborne "Waterloo Letters" p84


 De Lacy EvansとMuterはいずれも騎兵の前進時に歩兵部隊が騎兵部隊を通り過ぎていったと述べている。つまり、歩兵は騎兵と反対方向(後方)へ移動していたわけだ。WyndhamとCrawfordは歩兵(第92連隊)が退却していたと記しているし、Clark Kennedyは歩兵が稜線付近で大混乱状態に陥ったのを確認している。要するに騎兵部隊から見た歩兵部隊は混乱し、騎兵部隊の周囲を後ろへ向かって移動していたのである。
 これに対し、歩兵部隊の人間がSiborneに出した手紙では、基本的に彼らが退却したような事実はないと主張している。むしろピクトン師団の歩兵部隊はフランス軍の前進を食い止め、撃退したと書いている人が多い。一例としてケンプト少将の発言を記しておく。

「フランス歩兵が陣を敷いた稜線上を通る道路と生垣を奪取しようとしたちょうどその時、私は横隊を組んだ第28、第32、第79連隊を率いて彼らに突撃し、敵の縦隊を完全に撃退して大混乱のまま斜面を追い落とした」
Siborne "Waterloo Letters" p347


 歩兵部隊と騎兵部隊の証言が矛盾しているわけだが、実は英国歩兵部隊の中にも「英国歩兵が退却した」と証言している人はいる。

「かくして勇敢なベルギー人が捨てた陣地はすぐにロイヤル[・スコッツ連隊、すなわち第1連隊]の第3大隊と第44連隊第2大隊によって再占領された。この2つの弱体な大隊は襲撃者に激しい銃撃を加えたが、相手は断固とした勇敢さをもって前進を続け、我々の戦友を生垣から退却せしめるのに成功した。
 誰もが今やこの戦闘が重要な局面に差し掛かり、この奔流に抵抗する試みがすぐなされなければ高地とそれと同時に勝利が敵の手に渡ることを確信した。ベルギー部隊は去った。ロイヤルと第44連隊もまた後方へ退却し、我々の左翼側かなり遠くの重要地点に布陣していた第42連隊はそこから動くことができなかったため、危険な試みは約230人の戦力だった第92連隊にかかっていた[第92連隊中尉James Hope]」
Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p283-284

「我々の側面を通り過ぎて退却したロイヤルと第44連隊のことについては、私は簡単な記録でそれが本当に起きた事実だと記しており、それに付け加えることも撤回することもない。もし私の記録が事実だと認められなかったのならば、回想録を購入してくれた親切な18人のロイヤルの士官たちの誰かが私の誠実さに異議を申し立てていたのでは?[James Hope]」
Glover "Letters from the Battle of Waterloo" p289


 Hopeはパック旅団の第1及び第44連隊の各1個大隊がフランス軍の前進によって退却したと明言している。もっともそのHopeが所属していた第92連隊自身も、他の関係者からは逃げ出した部隊の一つとして指摘されているのだが。

 以上、関係者の証言を見てきたが、現実はどうだったのだろうか。まず注意すべきなのは、Siborneの集めた手紙はいずれもワーテルローの戦いから20年以上経過したものばかりという点。歩兵部隊は自らは踏みとどまったと言い、騎兵部隊は歩兵は逃げて騎兵の突撃で局面を打開したと言うなど、誰もが自分に都合のいいことばかり述べているのも、彼らの記憶が20年以上を経て捻じ曲げられたせいだと考えられる。
 また、戦場の興奮状態で見たものを勘違いした可能性も否定しがたい。デルロン軍団の前進は両軍による事前の砲撃の後に行われたのであり、戦場を覆う硝煙もかなり濃密だっただろう。目の前で起きていることを正確に把握できた人間はそれほどいなかったかもしれない。
 そのうえで個人的な見方を記しておくのなら、おそらく真相は中間あたりにあるのではないか。つまり、英国歩兵の中には逃げ出した者もいたし、一方で踏みとどまって戦った者もいた、ということ。騎兵たちが見た逃げ惑う英国兵は確かにいた。だが、歩兵たちが主張するように逃げずにフランス軍に立ち向かった英国兵もまた存在したのだろう。それを裏付けると思われるのが、騎兵Clark Kennedyが残した以下の証言だ。

「我々が生垣を通り過ぎた後で、我が歩兵は不可欠な支援を我々に与えてくれた。彼らは小さな部隊や方陣を組んで突撃に後方から追随し、敵の追撃を食い止めただけでなく、私が満足している彼らの支援と援助なくして我々はあれほどいい状態で引き上げられなかっただろうし、突撃時に得た捕虜の半数も保持できなかったことは確実だ[A. K. Clark Kennedy]」
Siborne "Waterloo Letters" p71


 逃げ出した兵を背後に置き去りにした騎兵が前進した時に、小さなグループを作りながら彼らの後についていった歩兵がいたのである。英国歩兵部隊の中で踏みとどまった連中がそうやって前進したのだろう。英国歩兵部隊はまとまって行動していたのではなく、戦場の混乱の中で個別バラバラに対処していたのではなかろうか。
 人間はどこへ行ってもそんなに変わるものではない。ベルギー兵が全て臆病で、英国兵は全て勇敢などということはないだろう。ベルギー兵が逃げ出すほど恐ろしい戦場で、英国兵が誰一人逃げ出さなかったとしたら、それはむしろ異常な事態だ。同じように恐怖を感じた人間は逃げ、一方で度胸が据わった連中もしくは開き直った者はとどまった。
 きっとフランス軍側でも同じことが起きていただろう。連合軍の騎兵は、その大恐慌状態の中に飛び込んできたのだと想像する。

――大陸軍 その虚像と実像――