1815年6月18日昼
モン=サン=ジャン





朝方の連合軍


「シーン37――屋外、ワーヴル道路の近辺
 フランスの攻撃縦隊が散兵線を突破し、丘の上に迫っていた。
ウェリントン:バイラントの部隊が崩れた。穴を埋めろ。
 ピクトン、頷く。
ウェリントン:重騎兵を使おう」
映画ワーテルロー:スクリーンプレイ
 NAPOLEON! (JAPAN)

 ワーテルローでウェリントン率いるイギリス連合軍とまみえたナポレオンは、まず午前11時半からウーグモンの館に攻撃を仕掛けた。しかし、これはあくまで陽動。彼の本当の狙いは右翼のデルロン軍団を使ってモン=サン=ジャンの丘に展開するイギリス連合軍の中央から左翼を突破することにあった。ウーグモンへの攻撃によってウェリントンの予備部隊をイギリス連合軍の右翼に振り向けさせ、手薄になった左翼を攻撃するというやり方だ。
 攻撃に備えてナポレオンは約80門の大砲をシャルルロワ=ブリュッセル道路の東側に集め、事前にイギリス連合軍の戦線を叩いておこうとした。大砲を集中的に使用し敵にダメージを与えるのはナポレオンの十八番である。この戦術は具体的に敵兵力の削減を狙うというより、心理的な圧力を加えて抵抗力を失わせることに眼目があったという。
 ナポレオンの大砲兵隊の目標となったのは、ピクトン将軍率いるイギリス軍第5師団と、その前面に布陣していたバイラント少将のオランダ第1旅団だった。砲撃を加えられ、さらにデルロン軍団による攻撃を受けたバイラント旅団は退却を強いられたが、イギリス軍は騎兵部隊を投入してフランス軍を押し返し、多くの捕虜を得ることに成功した。
 問題は、バイラント旅団の行動にある。彼らがフランス軍との戦闘で壊走したのは間違いない事実であるが、具体的にどのように戦ったかについては色々な説がある。特に論争を呼んでいるのが、ナポレオンの大砲兵隊が砲撃をしている間、彼らがどこにいたかである。

 まずChandlerとEsposito & Eltingから行こう。彼らは以下のような見解を示している。

「大砲兵隊がウェリントンの左翼と中央に対して激しい事前砲撃を加えた(そしてバイラントの露出していた旅団を殺戮した)にもかかわらず、歩兵による襲撃を騎兵で適切に支援する試みは行われなかった」
Chandler "Campaigns" p1077

「午後1時ごろ、この見事な砲兵隊は700ヤードの距離から雷のような砲火をウェリントンの戦線に加えた。ただ、実際には彼らが砲撃すべきものはごく限られていた――ウェリントンの砲兵、彼の前哨線、そしてもちろん露出していたバイラントの旅団を除くと、彼の軍の大半は稜線の背後に隠れていた。(中略)青地にオレンジの縁取りをした軍服に身を包んだ不幸なバイラントのオランダ及びベルギー兵は、もちろん多くの大砲による砲撃で酷い損害を蒙った」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p139

「丘の背後に隠れていたイギリス=オランダ兵(バイラントの旅団を除く)は比較的小さな損害しか受けなかった」
Esposito & Elting "Atlas" map 166


 いずれもバイラント旅団がフランス軍の砲撃に対して身を晒していたと指摘している。この旅団は「連合軍の中で稜線の前面に展開していた唯一の部隊」(André Dellevoet "Cowards at Waterloo?" Napoleon Journal #16, p28)であり、他の部隊が稜線の背後に布陣してフランス軍の砲撃から身を隠している時に彼らだけが一方的に砲撃を受けた、というのが一般的な説だ。この説に従った記述は実にたくさんある。

「大きな損害を蒙った部隊はただ一つ、第2オランダ=ベルギー師団に所属するバイラントの第1旅団だった。稜線の前面に布陣した旅団は次々と砲撃を受けた」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p202

「午後1時にはデルロン軍団の前面に展開する大砲に第1軍団から40門の6ポンド砲、親衛隊から24門の12ポンド砲が加わり、全部で88門の砲兵隊を構成した。これらは露出していたバイラント旅団の中心に穴を開けた」
Geoffrey Wooten "Waterloo 1815" p53-55

「にもかかわらず彼ら[デルロン軍団]は、ウェリントンの左翼中央に展開しておりナポレオンの24門の“美しい娘たち”(彼は12ポンド砲をそう呼んでいた)による破滅的な砲撃に激しく叩かれていたヴァン=バイラントの露出していた第1オランダ=ベルギー旅団を壊走させるのに成功した」
Alan Schom "One Hundred Days" p282-283

「この大砲兵隊による砲撃は、まず稜線の前面に布陣していたバイラント率いる不幸なオランダ=ベルギー歩兵旅団に集中した」
Jac Weller "Wellington at Waterloo" p96

「不幸なバイラント旅団の兵士たちは、1時間半にわたって大砲兵隊の砲撃に晒された後で、単独であれだけ巨大な兵力に抵抗することになり、混乱状態に陥って、同盟国であるイギリス軍からの不当な罵声を浴びながら後方へ落ち延びた」
John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p306


 Nofiによるとこの砲撃とその後のデルロン軍団との戦闘で、バイラント旅団は全兵力の40%以上に当たる「約750人が戦死し、600人が負傷した」(Nofi "The Waterloo Campaign" p206)。そしてこの説によると、砲撃で痛められたバイラント旅団は壊走した後には二度と戦闘に参加することはなかった、というオチがつく。

 バイラント旅団が敵に身を晒す場所に展開し、結果として大きな損害を受けたという説がここまで広がったのは、イギリス軍の戦闘参加者の多くがそうしたことを主張しているためだ。特に大きな影響を及ぼしたのは、ワーテルローに参加した軍人に手紙を送って詳細な歴史の再現を試みたWilliam Siborneの書物であろう。彼は以下のように指摘している。

「ピクトン師団と、既に述べた通りイギリス連合軍の中で外側の斜面に布陣していたバイラントのオランダ=ベルギー旅団に対する後者[フランス軍による砲撃]の影響は厳しいものだった」
William Siborne "History of the Waterloo Campaign" p247


 連合軍から見た外側斜面、つまりフランス軍から見て稜線の前面に布陣して身を晒していたバイラント旅団が砲撃で損害を蒙ったという話は、Siborne自身が集めた戦闘参加者の証言が裏づけになっている。その一例を紹介しよう。

「ウィリアム・ゴム、第2歩兵近衛連隊中佐兼第5師団補給担当補佐
 1837年1月5日
 (前略)オランダ人旅団は確かにフランス軍縦隊が前進してくる前に戦線にいた。彼らは斜面を十分に下がった場所におり、Rogerの砲兵がその頭越しにフランス軍の砲撃に対抗して砲撃することができた。その後、敵の縦隊が前進してくると彼らは森[?]から逃げ出し、谷底にたどり着くと我々の布陣する丘を登り始めた。
 このオランダ人たちは間違いなく必要以上に身を晒していた――80門の砲兵は彼らに対し、騎兵銃の射程距離かそれより少し遠い程度の場所から砲撃を始めていた。
 私は彼らをその場所に布陣させてはいないし、そうした命令があったかどうかはっきりとは憶えていない」
Herbert Taylor Siborne "Waterloo Letters" p30-31


 Siborneが集めた資料以外にも、同様の指摘をしているイギリス軍関係者は多い。たとえば次のようなものもある。

「兵力3233人を擁するペルポンシェル師団のバイラント旅団は(実に奇妙なことに)ベスト旅団の右翼及び前方と一部はパック旅団の真正面にあたるワーヴル道路前方斜面に配置された。この場所は本当の戦線であったワーヴル道路から前方へ張り出していた。部隊は戦場にあった巨大なフランス軍砲兵隊の砲撃に直接晒されており、加えてフランス軍の攻撃縦隊による襲撃に対しても孤立していた」
James Shaw Kennedy "Notes on the Battle of Waterloo" p61


 理由は分からないが彼らはそこにいた。稜線の前面に展開しフランス軍の砲撃に身を晒して大きな損害を蒙った。「なぜ彼らがそこに残されていたのか、あるいはなぜ[ウェリントン]公爵やピクトンが彼らに後退するよう伝えなかったのか、これまで説明したものは誰もいない」(David Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p62)。これが広く知られている説である。

 果たしてそうなのか。本当に「これまで説明したものは誰もいない」のだろうか。実はそんなことはない。例えば1914年に初版が出た本に、以下のような話が載っている。

「その間、幸運なことにペルポンシェル将軍がバイラント旅団の露出した配置に気づき、准将に対してかれの部隊をワーヴル道路の背後へ後退させるよう命じた。命令を受け、正午にはバイラント旅団は後退しケンプト旅団とパック旅団の中間点の前に布陣した」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p189


 バイラント旅団はペルポンシェル=ゼドルニツキー中将(オランダ第2師団長)の命令を受けて稜線の背後へ後退した。それがBeckeの指摘である。そして、彼と同様の話を記している研究者も最近は増えているのだ。

「第7戦列歩兵連隊の1個大隊、第27猟兵大隊、3個民兵大隊と1個砲兵中隊で構成されるバイラントの部隊は、当初ウェリントンの左翼前面の比較的露出した場所にいた。しかしその後、彼らは後退して主要防衛線に合流した」
Peter Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p82

「この部隊[バイラント旅団]の運命は様々に記録されているが、多くのイギリス側史料によると彼らは前方斜面に展開しており、砲撃によって損害を蒙った結果退却を強いられたとある。(中略)しかし、実際は当初の布陣が損害を受けやすいことが気づかれ、戦闘開始前に師団長ペルポンシェルの命令によってこの部隊はケンプトとパックの間の戦線まで後退した」
Phillip J. Haythornthwaite "Waterloo Men" p53-54

「[脚注]4(中略)バイラント旅団は当初、稜線の前方斜面、垣根のある道路の南方100メートルの場所に布陣していたが、ナポレオンの大砲兵隊が砲撃を始める前に稜線の背後へ後退した」
Andrew Uffindell and Michael Corum "On the Fields of Glory" p83


 Chandlerらはバイラント旅団が露出した場所におり、そのためにフランス軍の砲撃で大きな損害を受けたと記していた。だが、それとは異なる説を唱える研究者も実は数多くいるのだ。それによるとバイラント旅団は、確かに当初は稜線の前面に布陣していたが、ペルポンシェル中将の命令によってフランス軍の砲撃が始まる前に稜線の背後へと後退したのだという。
 こちらの説を裏付けるのはオランダ軍参加者の証言だ。最も代表的なものとして、ペルポンシェルの参謀長だったヴァン=ザイレン=ヴァン=ニーヴェルトの報告を見てみよう。

「正午に第1旅団(バイラント)の全部隊と右翼の砲兵はさらに後方へ下がった。彼らの後方に配置されたイギリス軍砲兵の展開を妨げないようにするためと、敵の砲撃に対してより露出しないようにするためである。窪んだ道路をわたり、旅団は道路の北方で前と同様に戦闘配置についた。その右翼と左翼はイングランドとスコットランドの兵に支援され、砲兵はイギリス軍砲兵と肩を並べた」
Mark Adkin "The Waterloo Companion" p406


 他にもバイラント旅団が道路の背後に布陣していたことを示す証言はある。例えば第7戦列連隊のシェルテン中尉は「フランス軍縦隊の先頭が短銃の射程距離に入るまで我が大隊は道路の背後で伏せて待ち構えていた」(Dellevoet "Cowards at Waterloo?" Napoleon Journal #16, p32)と、彼の部隊が道路の背後にいたことを指摘している。
 また、第7民兵大隊のヴァン=ブロンクホルスト大尉は7月9日付けの両親への手紙で「10時か11時ごろだった。私は中隊と伴に下がり、砲撃が始まり、そしてすぐにフランス軍が谷に下りてきた。(中略)すぐに我が旅団が第一線で待ち構えている稜線を越えて彼らが突撃してくるのが見えた」(Dellevoet "Cowards at Waterloo?" Napoleon Journal #16, p31)と記している。ここでもバイラント旅団は稜線の背後でフランス軍を待っていたと書かれており、戦闘時に彼らが稜線の背後に下がっていたことはほぼ間違いないと見られる。
 ではなぜ、イギリス側の関係者はバイラント旅団が稜線の前面に展開していたと思っていたのだろうか。おそらく、朝の時点でバイラント旅団が斜面のフランス軍側にいたことが、イギリス側関係者の脳裏に強く印象づけられていたのだろう。昼頃になってバイラント旅団は稜線の背後まで後退したのだが、それでもイギリス軍よりはずっと前方に展開していたため、イギリス側でその動きに気づく者が少なかったのかもしれない。まとめると以下のような経過になる。

「旅団は当初、味方をカバーするためモン=サン=ジャンの丘の前方斜面に450メートルに及ぶ2列横隊で布陣していた。その右翼(西方)側面は楡の木[ウェリントンの司令部があった]から約200メートル離れた場所にあった。弱体化していた第5民兵大隊は予備として稜線に配置された。旅団は後に(昼ごろ)稜線上にある垣根と道路の線まで後退し、そこで短くはあったが激しい射撃戦を前進してきたドンズロー師団と繰り広げた」
Adkin "The Waterloo Companion" p185


 6月16日のキャトル=ブラ、及び18日のワーテルローの戦いで大きな損害を蒙ったバイラント旅団は、数日後に5個あった大隊を2個に再編した。彼らの損耗率は、ワーテルローで戦ったイギリス軍部隊と比べても遜色のないものだったという。



ウィレム=フレデリック・ヴァン=バイラント少将(1771-1855)

――大陸軍 その虚像と実像――