総動員へ―30万人動員と総動員法



 1792年末から1791年に応募した志願兵の帰休・除隊の問題が生じた。1792年末時点でフランス軍は連合軍相手に有利な立場にあったものの、戦争に勝つためには兵力不足の問題を解決する必要があった。モンターニュ派議員デュボワ=クランセは1793年1月25日、50万人の軍隊を作り上げるには30万人の兵員募集が必要だと報告した。彼はまた2月7日に旧常備軍と志願兵大隊との融合を提言したが、これについては「アマルガム」の項目で説明する。

 30万人動員の法令は2月24日に可決された。中でも重要なのは以下のような部分だ。

「第1条 満18歳以上41歳未満にして未婚または子のない独身男性であるすべてのフランス市民は、このあとに法令で示される30万人の兵員を補充し終わるまでは、いつでも徴兵に応ずるよう待機しているものとする
 第10条 市町村には祖国の防衛に進んで身命を捧げようとする志願者が、自らの氏名を登録する帳簿を置く(後略)
 第11条 志願者の登録者数が、各市町村に決められた兵士の割当て数に充たない場合は、総則第1条に規定された徴募該当の市民が集まり、遅滞なくその不足数を補充するものとする。この補充には、多数決によりもっとも適当と思われる方法をとる
 第16条 前条までの規定に従い、祖国防衛のために応召し入隊すべき市民はすべて、市町村会の承認があれば、少なくとも18歳を超えた武装市民を代理として立てることができる」

 このシステムは基本的に絶対王政時代の民兵募集と同じであり、第11条や第16条を見れば分かる通り現実に徴兵されるのは農民や貧乏人であった。当然ながら農村の反発は強く、予定された兵力の半分しか集めることができなかった。ヴァンデなどでは反乱すら起きた。

 内憂外患に応じ、革命政府はより強権的な手法を使うようになった。ジロンド派を追い落として政権を握ったモンターニュ派は恐怖政治によって国内の箍を締めなおす一方、兵力不足を解決する最終的な方法として総動員法を成立させた。

「第1条 これより以後、敵兵が共和国の領土から追い出されてしまうまで、フランス人はすべて無期限の軍隊役務に徴用される。若者は戦いに行き、既婚の男性は武器を作り糧食を運ぶ。女性はテント・衣服を作り、病院で働く。子どもは古布を切って包帯にする。老人は公共の広場に赴き、戦士の士気を昂め、諸国王への憎しみと共和国の統一を説く
 第2条 国の営造物は兵舎にあてられる。公共の広場は武器作業場にあてられる。硝石を抽出するために地下室の床が洗浄される
 第7条 何人も、彼が徴用されている役務を他人に代わってもらうことはできない。公務員はその部署にとどまる
 第8条 召集は総動員である。最初に、18歳から25歳までの未婚の、あるいは、子どもを持っていないやもめの市民が進軍する。彼らは、遅滞なく、その地区の行政中心地に集結し、そこで出発の時を待ちながら、毎日、武器の取り扱いの訓練に励むものとする」

 恐怖政治の下、密告によって殺されるよりはマシだと考えた者たちがこの法令に応じて戦場へ向かった。その数は凄まじいもので、フランスは欧州でおそらく初めて100万人単位の軍隊を保有することになった。単なる革命の熱狂だけでこれだけの物理的力を現実化することはできなかった。けた違いの大兵力を作り上げるにはギロチンの恐怖が必要だったのだ。だが、革命がなければここまで徹底した徴兵システムはできなかっただろう。

 動員は軍隊だけにとどまらなかった。法令にもある通り、武器や衣服の製造、硝石の生産など様々な分野で戦争に関連した動員が行われた。軍務大臣のブーショットはフランスにいる全ての靴職人に対して10日当たり5足の靴を提供するよう命じたし、年間9000挺のマスケット銃しか作れなかったパリの軍事工場は、1793年9月から13ヶ月の間に14万5000挺のマスケット銃を製造した。

 ナショナリズムと恐怖政治が可能にした国家総動員体制だが、この総動員法には決定的な穴が存在した。第1条に書かれている「敵兵が共和国の領土から追い出されてしまうまで」という文章は、あくまでこの総動員体制が臨時異例の措置であることを示している。そして、現実に共和国の領土から敵兵が追い出されることが明らかになるや否や恐怖政治そのものがひっくり返された。総動員体制も解体し、兵力も再び減少傾向をたどる。1793年に動員された兵がいつまでも軍務を続けたのに対し、94年から97年までの間に動員された兵力はわずか7万人にとどまった。恒常的に国民を動員する制度としては、まだ総動員法は不十分なものだった。



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