アマルガム



 王政時代に由来を持つ旧常備軍と革命後に集められた国民志願兵という2種類の軍隊で戦争を行っていたフランス軍だったが、このやり方は双方の部隊間の対立など余計なトラブルを引き起こしていた。こうした事態を避けるためにデュボワ=クランセは旧常備軍と国民志願兵の融合を提言した。これがアマルガムと呼ばれる手法で、少数だが高度な訓練を受けている旧常備軍と大半は未訓練だが熱狂的で数の多い志願兵大隊を一体化し、革命理念を広めると同時に部隊としての信頼性を高めるのが狙いだった。このやり方の淵源は1792年の北方軍で採用された「旅団化」という方法に遡る。

 旅団化を行ったのは北方軍の指揮を取っていたラファイエットだという。彼は国民志願兵部隊を強化する目的で、必要に応じて旧常備軍の1個大隊と国民志願兵2個大隊を一つの旅団にまとめた。あくまでこれは「仮の」措置であり、この旅団が恒久的な組織となる訳ではなかった。また、一つの旅団に所属するとはいえ、旧常備軍兵士と国民志願兵とはあくまで別の大隊に所属していた。

 これに対してデュボワ=クランセが試みたのは、より恒久的な組織である「半旅団」を作る方法だ。アマルガムでは「旅団化」と異なり、各大隊が中隊レベルまで細分化されたうえで組み合わせられた。旧常備軍兵士と国民志願兵が同じ大隊で肩を並べて戦うようになった。この方法は、サン=ジュストなどの賛成を受けて1793年2月21日に議会で可決された。主な条文は以下の通りである。

「第1条 この法令の公布の日より、前線連隊と呼ばれる歩兵科部隊(注:旧常備軍部隊)と国民志願兵とのあいだには、もはやどのような区別も相違も存在してはならない
 第2条 フランス共和国が俸給をもって傭う歩兵科部隊は、半旅団から構成され、半旅団はそれぞれ旧前線部隊の連隊の1箇大隊と国民志願兵の2箇大隊から構成される(後略)
 第3条 第1半旅団は、在来の第一歩兵連隊の第一大隊、およびそれにもっとも近接する地域の、できれば同じ県の国民志願兵2箇大隊から構成される。第2半旅団は、在来の第1連隊の第2大隊、およびそれに近接する地域の、できれば同じ県の志願兵2箇大隊から構成されるものとする。続いて他の軍団もまた同じ融合方式に従う。すなわち、順序番号に従い、196箇の前線部隊大隊が392箇の志願兵大隊と融合し、196箇の歩兵半旅団を構成する(後略)
 第5条 (前略)したがって、将校、下士官、兵士よりなる半旅団1箇は、正規定員2437名であり、4口径の大砲6門を備える。前線部隊軍団全体は、196の半旅団よりなるから、兵員総数は47万7652人であり、1176門の野砲を有するものとする
 第8条 国民公会は、別に定める法令の公布まで、旧前線部隊の連隊と志願兵の大隊との融合を延期する。各部隊は暫定的に現在の組織のまま当分のあいだ存続するものとする(後略)」

 第8条にある通り、各部隊が戦場で戦っている状況で制度変更をすぐに行うことは難しかった。アマルガムの実施はおよそ1年ほどかけて行われたが、かなりの混乱をもたらした(1894年にこの当時のことを調べていた陸軍省の担当者は分析不可能としている)。また時間もかなり要しており、1795年初頭の時点で北方軍の各部隊のうちまだ10%がアマルガムを終えていなかったという。

 当初は198の歩兵半旅団と15の軽歩兵半旅団が作られたが、これはすぐに209と40に増え、最終的には少なくとも書類のうえでは254と42にまで拡大した。だが、歩兵半旅団のうち49と軽歩兵半旅団のうち7つは実際には作られなかったようだ。常備軍の大隊の数が足りなかったためもあり、73(15という説もある)の半旅団は志願兵大隊3つだけで作られた。

 しかし、長期の戦争にともなう損耗のため、これらの半旅団のうち定員を満たしているものはほとんどなくなっていた。1795年時点で早くも定員約2400人に対して実際の半旅団の人数は300人程度まで減っており、時には僅か50人しかいないこともあった。総裁政府は現状に合わせ、1795年11月に第二次アマルガムの実施を命じた。複数の半旅団やそれ以外の部隊を再び融合し、歩兵半旅団を100(1796年1月18日に110に変更された)、軽歩兵半旅団を30まで減らして半旅団の兵力数回復を図るのが狙いだった。

 第一次アマルガムでは旧常備軍第1連隊第1大隊が中心になった半旅団を「第1半旅団」と名付けたが、第二次アマルガムでは半旅団の番号はくじ引きで決まった。いくつもの古い半旅団が一緒になり、全く関係のない新しい番号で呼ばれるようになった。

 例えば日本語で読めるナポレオン戦争当時の回想録の一つ「ナポレオン戦線従軍記」の著者であるフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンが所属していた第32半旅団は、第二次アマルガムによって第21歩兵半旅団、第118歩兵半旅団、第129歩兵半旅団が融合したもの。それぞれについて遡ると、旧第21半旅団は常備軍のラ=マリーヌ連隊第1大隊がヴァール志願兵第2大隊、オート=ガロンヌ志願兵第1大隊と融合したもの。旧第118歩兵半旅団は旧常備軍のブルゴーニュ連隊第2大隊がドローム志願兵第2大隊、イゼール志願兵第3大隊と融合したもの。そして旧第129歩兵半旅団は旧常備軍のムドック連隊第1大隊がエロー志願兵第1大隊、同第2大隊と融合したものだ。ヴィゴ=ルシヨンはエロー県出身であり、旧第129歩兵半旅団から第32歩兵半旅団所属の兵士となった。

 複雑な経過をたどったアマルガムであるが、こうした融合策がやがてプロの傭兵だった旧常備軍の兵士と熱狂的な素人であった志願兵たちに一体感をもたらしたのは事実である。そして何より、彼らは相次ぐ戦火をともにくぐり抜けることで強い兵士になっていった。革命時代に作られたこの基盤を縦横無尽に使いこなしたのがナポレオン・ボナパルトであった。



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