1800年―ライン戦線



(ナポレオンによる1800年春季のドイツ戦役に関する解説はこちら


・フランス軍の前進

 ラインではカール大公が指揮権をクライに譲った。この年の春の段階でクライが率いた兵は14万人(12万人の説もある)だった。一方、モロー率いるライン軍は13万7000人に達しており、彼はそれを4つの「軍団」に分けて運用した。当初、モローはボナパルトから予備軍の軍事行動に協力するよう要請されたが、彼はボナパルトの計画は大胆すぎるとの理由から協力を拒否。ライン軍は独自の戦役を繰り広げることになった。

 4月25日からフランス軍の軍事行動が始まった。モローはライン河方面で陽動をかける一方、主力はスイス方面からオーストリア軍の補給基地があるシュトックアッハへ攻撃をしかけようとした。一方のクライはイタリア方面での攻勢に合わせて二次的攻撃をしかけるよう命じられたが、フランス軍がシュトックアッハに向かったのに気づいて部隊をエンゲンへ集めてその行動を阻止しようとした。5月3日にシュトックアッハでルクルブ率いるフランス軍2万人とヴォーデモンのオーストリア軍1万2000人が衝突し、数で勝るフランス軍が勝った。同日、モローとクライの主力部隊同士もシュトックアッハ西方のエンゲンで五分五分の戦闘を戦ったが、シュトックアッハ陥落の情報を得たクライのオーストリア軍は退却に追い込まれた。両軍の損害は7000人ずつだった。

 モローはさらにオーストリア軍の左翼から回り込むべく東方へ前進。これを止めようとしたクライの部隊と5月5日にメスキルヒで戦闘が行われた。クライは予備部隊を送り込んでフランス軍を押し返そうとしたが、フランス側は続々と到着した増援によって逆にこれを押し切った。参加兵力はフランス軍5万人、オーストリア軍4万人で損害はフランス軍3000人、オーストリア軍5000人だった。増援を得てフランス軍が強力になったのに気づいたクライは防御に適したウルムに兵力を集め、そこでフランス軍に対抗しようとした。

・ヘーヒシュテット

 モローは機動によってオーストリア軍をウルムから退却させようと試みた。彼はウルムを大きく迂回し、6月19日にウルムからドナウ下流60キロメートルのところにあるヘーヒシュテットでオーストリア軍を攻撃した。フランス軍の最初の攻撃は奇襲となった。クライは予備部隊を率いて戦場に到着し、激しい戦闘の末日中はオーストリア軍の拠点を守った。しかし、夜になってモローは町を奪い、河の両岸を確保した。戦闘の時期は18−19日だという説もある。フランス軍は4万人、オーストリア軍は7万人(1万人の説もある)が戦闘に加わり、損害はフランス軍1000人、オーストリア軍5000人(4000人の説もある)だった。クライは夜が明ける前に部隊をイン河へと退却させた。

 モローはウルムにいるオーストリア軍を封鎖する一方、退却するオーストリア軍の後衛部隊に追いすがった。7月7日、フランス軍はランズフートでフェルディナント大公率いるオーストリア軍後衛部隊に攻撃をしかけて、その大砲をすべて奪った。28日にパルスドルフで休戦が結ばれたときには、オーストリア軍はミュンヘンまで後退していた(休戦が結ばれたのは15日との説もある)。

・ホーエンリンデンの戦い(1800年12月3日)

 夏の間に行われたフランスとオーストリアの講和の話し合いは不調に終わり、タカ派のトゥーグートなどに後押しされたオーストリア皇帝フランツは11月13日に交戦状態を再開した。ライン方面のオーストリア軍は休戦の間に部隊を再編し12万人(13万人の説もある)を集結させたが、クライに代わる指揮官はそれまで軍を指揮したことがないヨハン大公であり、部隊の士気は上がらなかった。フランス軍18万人の指揮はモローが取っており、ミュンヘンからイザール川を越えて進む準備をしていた。

 オーストリア軍の前進計画は悪天候などで11月29日まで延期され、ヨハンがフランス軍の北翼を迂回しようと動き出した時にはモローはオーストリア軍左翼をウィーンへ向かうように前進していた。助言者として同行していたラウエルの進言に従ってヨハン大公は迂回を諦めホーエンリンデンにいるフランス軍に向けて真っ直ぐに前進した。12月1日、オーストリア軍のうちリーシュとベイユが率いる縦隊がアンプフィングでネイ師団と交戦。ネイやアルディの部隊はしばらく抵抗したうえでホーエンリンデンへと退却した。敵の退却を見たヨハンや彼の参謀長であるヴァイローテルは勝利を確信し、追撃へ転じようとした。

 3日、激しく雪が降る中、オーストリア軍は部隊を4つの縦隊に分けてホーエンリンデンへと前進を再開した。リーシュの1万3300人が最左翼に、主力となるコロヴラットの2万2000人がその右に展開し、そのすぐ右に1万人を率いるベイユがホーエンリンデンへ向かう主要道路に平行して深い森の中を進んだ。最右翼はキーンマイヤーが1万6000人を率いてイゼン川沿いに前進した。これに対しフランス軍はホーエンリンデンから北方ハルトーフェンまでをグルニエの軍団(ルグラン、バストゥール、ネイ、グルーシー師団などで構成)で防衛し、右翼からリシュパンスなどが前進してオーストリア軍の側面を攻撃する作戦を立てた。オーストリア軍は主要道路を通ったコロヴラット縦隊が突出する一方で他の部隊の前進は悪天候もあって遅れが生じた。特に左翼のリーシュが進撃できずにいる間にリシュパンスがその前方を通り過ぎてコロヴラット縦隊の背後に進出。オーストリア軍を包囲してこれをパニックに陥れるのに成功した。一方、フランス側はグルニエ軍団がオーストリア軍をひきつけるのに成功。オーストリア軍のうちリーシュとベイユの縦隊は結局まともに戦闘に参加しないまま、コロヴラット縦隊の敗北を受けて退却した。最右翼のうちシュヴァルツェンベルク率いる部隊がグルニエ相手に奮闘したものの、他の部隊が全面退却に移る中で彼らにできるのは整然と後退することだけだった。フランス軍は7万6400人、オーストリア軍は5万8200人が参戦し、損害はフランス軍7000人(5000人、2500人の説もある)、オーストリア軍1万8000人(1万1600人の説もある)だった。退却は壊走に変わり、オーストリア軍はザルツブルク付近で部隊の立て直しを図ったが失敗した。12月17日、カール大公がオーストリア軍の指揮官となり、彼は25日にシュタイアーでフランス軍と休戦を結んだ。


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