1800年春季―ナポレオンの解説



ドイツ

1795、1796、及び1797年の戦役計画の欠点。


 フランス共和国は1795、1796、及び1797年戦役の間、ライン河沿いに3つの軍を維持していた。北方軍はアムステルダムに司令部を置き、2万人のバタヴィア[オランダ]兵と同数のフランス兵で構成されていた。2つの共和国間に存在する条約によりオランダ共和国は国家防衛のため2万5000人のフランス軍を維持することになっていた。この4万から4万5000人の軍はスヘルトからエムスまでのオランダの海岸と、そして陸地側ではヴェーゼル対岸に至るまでの国境を防衛していた。2番目のサンブル=エ=ムーズ軍は司令部をデュッセルドルフに置き、メンツ[マインツ]とエーレンブリーステン[エーレンブライトシュタイン]を封鎖していた。3番目のライン方面軍の司令部はストラスブールにあった。彼らはスイスに拠り、フィリップスブルクを封鎖していた。

 北方軍は実際にはオラニエ家の党派を脅かし、イギリスがオランダに兵を上陸させるあらゆる試みに対抗するのが目的の単なる監視軍だった。バーゼルで締結されたプロイセン、及びヘッセン家とザクセン家との間で結ばれた講和により、北部ドイツ全域には平和が確立されていた。

 プロイセンが連合軍の一部を構成している限りは必要であったサンブル=エ=ムーズ軍は、フランス共和国がオーストリアに対しドイツ南部に於いてのみ戦争をするようになってから不必要になった。1796年戦役においてジュールダン麾下のこの軍はマイン河を進軍し、ヴュルツブルクを奪い、レードニッツ川に陣を敷いた。左翼はボヘミアの入り口であるエグラに拠り、一方右翼はドナウ渓谷に進出していた。ストラスブールから進軍したモロー麾下のライン方面軍はシュヴァルツヴァルトとヴュルテンベルクを越え、レッヒ川を渡ってバイエルンに入った。このライン方面軍とサンブル=エ=ムーズ軍という2つの軍が互いに独立して行動する2人の将軍麾下で機動していた一方で、彼らに対峙するオーストリア軍はカール大公の麾下に一つにまとまっていた。彼らの戦力はドナウ河のインゴルシュタットとラティスボン[レーゲンスブルク]に集められ、[2つの]フランスの軍の間に布陣して彼らの合流阻止に成功した。カール大公はサンブル=エ=ムーズ軍右翼を指揮するベルナドットを破り、ヴュルツブルクへの退却を強いて、遂にはラインを再渡河させるに至った。ライン方面軍は、このカール公のサンブル=エ=ムーズ軍に対する進軍の傍観者にとどまった。既に手遅れになった時、モローはジュールダンを支援するためドゼーにドナウ左岸へ渡るよう命じた。このライン方面軍の将軍に於ける決断力の欠如は、すぐにこの軍に退却を余儀なくさせた。彼らはラインを再渡河し、左岸の当初の陣に戻った。かくして2つのフランス軍に対してかなり劣勢だったオーストリア軍は、本格的な交戦に至ることもないままフランス軍が戦役のために立てた計画全てを崩壊させ、ドイツ全土を再征服した。

 フランス軍の計画は防御面でも攻撃面でも同様に欠陥があった。オーストリアのみと戦うことになった瞬間から、彼らは1つの連絡線を持ち、たった1人の指揮官が指揮する唯一の軍を持つべきだった。

 1799年、フランスはスイスの宗主国だった。2つの軍が作られた。1つはライン方面軍と、他方はエルヴェティー[スイス]方面軍と呼ばれた。後にドナウ方面軍と呼ばれた前者はジュールダン麾下にあり、ラインを渡り、シュヴァルツヴァルトを越え、そしてシュトックアッハに到着し、そこでカール公に敗れ、ラインを再渡河することを余儀なくされた。その間、エルヴェティー方面軍はスイス全土を支配し、その陣を動かなかった。かくしてフランス軍はまたも唯一の軍を持つべき時に2つの独立した軍を持つという失敗に陥った。そして、ジュールダンがシュトックアッハで敗れた時、彼はストラスブールとブリザックではなくスイスへと後退するべきだった。後にライン方面軍はストラスブール対岸[ママ]の左岸守備を任せられ、共和国の主力軍となったエルヴェティー方面軍はスイスの一部を失い、しばらくの間リンマット川にとどまった。しかし彼らはマセナの指揮下、同様に自らの2つの軍に分けるという連合軍の失敗に乗じてチューリヒでロシア軍を破り、スイス全土を奪回した。

 1800年1月、このエルヴェティー方面軍はスイスに駐屯していた。ルクルブ将軍麾下の下ライン方面軍はライン左岸で冬営していた。ブリュヌ麾下のオランダ方面軍はヨーク公の最後の師団が搭乗するのを見守っていた(註1)

 ジェノヴァ[ジェノラの間違いか]で敗北したイタリア方面軍は、混乱の中アペニンの峠で再編していた。コニ要塞は降伏し、ジェノヴァは脅かされていた。しかしサン=シール中将はオーストリアの軍団をボチェッタの彼方へ撃退し、名誉の剣を得た。これはナポレオンが国家の首長として最初に行った国家的な報奨だった。両軍は冬営に入った。オーストリア軍は美しいピエモンテとモン=フェラートの平原で、フランス軍はアペニン山脈の反対側、ジェノヴァからヴァールにかけて。長期に渡って海側から封鎖され、ポー河渓谷との連絡がなかったこの地域は疲弊していた。うまく組織化されていないフランス軍の管理組織は、不誠実な手に委ねられていた。

 騎兵と他の馬匹は欠乏によって消滅させられていた。感染病と逃亡は軍の組織を壊していた。悪行がはびこり、全部隊が陣地を離れ、軍鼓を鳴らし軍旗をはためかせながらヴァール川を再渡河し[退却し]ていた。この混乱はナポレオンからイタリア方面の兵士に多くの命令を出させることになった。彼は言った。『兵士諸君、私を政府首班に引き止めている現下の状況が、私を諸君の中に居させることを妨げている。諸君の欠乏は大きい。諸君への補給のためあらゆる手段が採られている。兵士にとって第一の資質は、疲労と欠乏に対する忍耐深い耐久力である。勇気は副次的な資質に過ぎない。いくつかの部隊が陣地を離れた。彼らは士官の声に耳を傾けてこなかった。第17軽半旅団もその中に含まれる。カスティリオーネ、リヴォリ、ノイマルクの勇者たちはもはや存在しないのか? 彼らは軍旗を離れるくらいなら滅びるべきだった。彼らは若い戦友たちに名誉と義務に立ち戻るよう呼びかけるべきだ。兵士諸君、諸君は食糧が規則的に配分されないことに不満があるのか? もし諸君が、第4及び第22軽半旅団、第18及び第32戦列半旅団のようにパンも水もないまま砂漠の真ん中で馬とラクダに頼っている時、諸君はどうするつもりか? 彼らは勝利が我等にパンを与えるといった。そして諸君は――諸君は軍旗を離れた! イタリア方面の兵士諸君、新たな将軍が諸君を指揮する。彼は諸君の最も輝かしい栄光の時にいつも第一線に立っていた。彼を信頼せよ、彼は諸君の戦列に勝利を取り戻すであろう。私は兵士全ての行動、特に第17軽半旅団と第63戦列半旅団に関する日々の報告を私に送るようにさせた。彼らはかつて私が抱いていた信頼を思い出すであろう』。

 これらの言葉は魔法のように悪行を止めた。軍は再編され、必需品は供給され、脱走兵は戻ってきた。

 ナポレオンはマセナをエルヴェティーから呼び戻し、彼にイタリア方面軍の指揮権を与えた。アペニンの全ての峠を熟知しているこの将軍は、他の誰よりもこの機動戦に向いていた。2月10日、彼はジェノヴァの司令部に到着した。

 当初議会に呼ばれたブリュヌ将軍は数週間後に西方軍を指揮するためロワールへ送られた。オージュロー将軍が彼の後をついでオランダの指揮を執った。軍に以下の布告が出された。

 『兵士諸君! フランス人民に平和を約した私は諸君に訴える。私は諸君の勇気と、諸君がオランダ、ライン河、イタリアを征服し、ウィーンの城下で講和した時と同じ存在であることを知っている。兵士諸君! 諸君が招集されるのはもはや国境を守るためではなく、諸君の敵が侵略しようとしている国を守るためである。諸君のうち戦役を経験した者の中に、兵士の最も重要な資質は忍耐深く困難に耐える力であることを知らないものはない。長年にわたる管理組織の欠陥は一日にして直るものではない。共和国第一執政として、この規律と勇気によって国家の支援者と見なされるにふさわしい兵士たちを全国民に知らしめるのは喜ばしいことだ。兵士諸君! ふさわしい季節になれば私は諸君の中に居ることになろう。そして欧州は諸君が勇敢な民族に所属していることを思い出すはずだ』。

 これが軍の状況だった。第一執政はすぐにライン方面軍とエルヴェティー方面軍をライン方面軍の名称の下に一つにまとめることを命じた。彼はブリュメール18日に於いてナポレオンに自分の全てを捧げる姿勢を見せたモロー将軍にその指揮権を与えた(註2)。フランス兵はあらゆるものが欠乏していた。彼らの苦悩はかなりのものだった。冬の間は全てこの軍の徴兵、衣服の補充、未払い金の支払いに充てられた。オランダ方面軍からの分遣隊がメンツに振り向けられ、ライン方面軍はすぐに共和国がかつて持った軍の中で最も素晴らしいものの一つになった。兵力は15万人に達し、全て古参兵で構成されていた。

 [ロシア皇帝]パーヴェル1世はオーストリアとイギリスの政策に不満だった。彼の軍の精華のうちスヴォーロフ麾下のものはイタリアで、コルサコフ麾下はスイスで、ヘルマン麾下はオランダで潰えた。中立国船の航行に関するイギリスの昔からのものと新しい要求は、彼らに対する彼の好意を次第に減らすことになった。中立国船、特にバルト海諸国の商業は妨害された。戦艦に護衛された商船団は侮辱され、臨検を受けることになった。一方、ブリュメール18日以降のフランス政府の主義の変化は、彼のフランス革命に対する憎しみを減少もしくは保留させた。彼は第一執政がイタリアとエジプトで見せ、さらに連日示し続けた断固とした態度を尊敬した。こうした状況が彼の行動を決断させ、連合軍を見捨てはしなかったとしても、少なくとも彼の軍を戦場から引き上げさせ、ヴィスワ河を再渡河するよう命じさせた。

 ロシア軍の撤収はオーストリアを落胆させなかった。オーストリアはあらゆる資源を投入し、2つの大きな軍を作り上げた。イタリア方面にある1つは14万人から成り、メラス元帥が指揮し攻勢に出てジェノヴァ、ニース、トゥーロンを奪う方針だった。彼らは後者の城下でマホンに集められたイギリス軍1万8000人とナポリ軍2万人と合流することになっていた。ブルボン家が自らの党派が存在すると想像していた共和国南部地域の暴動を促すため、メラスの司令部にはウィローがいた。

 クライ元帥麾下のドイツにいる他方の軍は戦力12万人で、[神聖ローマ]帝国兵とイギリスが資金を提供している兵を含んでいた。後者の軍はドイツを守るため守勢にとどまる方針だった。直前の戦役の経験からオーストリアはスイスでの戦争にはあらゆる困難が伴うと確信していた。クライ元帥は司令部をドナウシンゲンに置き、彼の主要な補給拠点はシュトックアッハ、エンゲン、メスキルヒ、ビベラッハにあった。彼の軍は4つの軍団で構成されていた。

 スタライ中将[Feldmarschal-leutenant]麾下の右翼はマイン河にあった。ロイス公麾下の左翼はティロルにいた。残る2つはドナウ沿いに展開しており、キーンマイヤー中将麾下にある前衛部隊の1つはケールの対岸に、ギューライ少将麾下のもう1つはブリスガウにいた。フェルディナント公麾下の3番目の部隊はバーゼル周辺の町々にいた。ヴォードモン公麾下の4番目の部隊はシャフハウゼンの対岸にいた。

 この状況下ではライン方面軍は精力的に攻勢に出ることが必要だった。その兵力は敵の倍近くに達し、一方でイタリアのオーストリア軍はアペニンとジェノヴァの高地を守っていた4万人のフランス軍の倍以上あった。3万5000人の予備軍がソーヌ川沿いに集められており、必要ならドイツ方面軍を支援し、スイスを通ってポー河へ進出しイタリアにいるオーストリア軍の背後を攻撃する準備を整えていた。

 ウィーンの政府は、真夏には彼らの軍がプロヴァンス地方の中心部まで進出すると想定した。テュイルリーの政府は、その時より前にライン方面軍がイン川まで進むと期待していた。

 第一執政はモロー将軍に対し、既にジェノヴァに到達していたオーストリア軍のイタリアでの進軍を阻むために攻勢に出てドイツに入るよう命じた。ライン方面軍全軍をスイスに集め、シャフハウゼンでライン河を渡る。軍の左翼から右翼への移動はライン河によって隠され、敵が何も気づかないうちに準備ができる。河を渡るためシャフハウゼンですぐに4つの橋をかければ、フランス軍全軍は24時間以内に渡河でき、シュトックアッハに到達し、敵の左翼を崩壊させ、ライン右岸とシュヴァルツヴァルトの隘路間に位置するオーストリア軍全軍の背後を取れる。戦役開始から6日か7日の間に軍はウルム前面に到着するだろう。オーストリア軍のうち脱出できるものはボヘミアへ退却すると思われる。かくして戦役の最初の移動によってオーストリア軍をウルム、フィリップスブルク、インゴルシュタットから切り離し、ヴィルテンベルク[ヴュルテンベルク]とシュヴァーベン及びバイエルン全土を我等の支配下に置くことができる。この作戦は、戦争に於ける機会の多寡と、フランスの将軍の大胆さと素早い移動によって程度の差はあるが、決定的な事態を生み出す。しかしモロー将軍はこのような移動を実行するどころか、理解する能力すらなかった。彼は別の計画を陸軍大臣に提出するためドゥソール将軍をパリに送った。1796年及び1797年の習慣に従い、彼はラインをメンツ、ストラスブール、及びバーゼルで渡ることを提案した。不満を抱いた第一執政は当初、自ら軍の先頭に立つため赴くことも考えた。彼は、オーストリア軍がニースに到達する以前にウィーンの城下にたどり着けるに違いないと計算した。しかし共和国内の動揺が彼を首都から離れるのを妨げ、彼は長期に渡って[戦場から]遠距離にとどまった。モローの計画は修正され、彼は中庸を選ぶことを認められた。それによると左翼はブリザッハで、中央はバーゼルで、右翼はシャフハウゼン上流で河を渡ることになっていた。何はさておき、彼は唯一の作戦線のみを持つことになった。しかしこの最後の計画ですら実行する時には彼には大胆すぎると思われ、そして彼はいくらかの変更を加えた。

 モローの司令部はバーゼルにあった。彼の軍は4つの歩兵軍団、重騎兵予備、そして2つの分遣師団で構成されていた。

 左翼はサント=シュザンヌ中将麾下にスーアン師団とルグラン師団。中央はサン=シール中将麾下にバラギュエイ=ディリエール師団とネイ師団。予備は指揮官[モロー]麾下にデルマ師団、ルクレール師団、及びリシュパンス師団。右翼はルクルブ中将麾下にヴァンダンム師団、モンリシャール師団、及びロルジュ師団。

 ドープール将軍が重騎兵予備を、エブレ将軍は砲兵を指揮した。

 スイスにいる分遣隊はコロー将軍とモンスイ将軍が指揮した。

 4月25日、左翼を指揮するサント=シュザンヌはストラスブールでラインを渡った。同日、サン=シールは中央を率いてブリザッハで渡河。予備軍団の指揮官であるモロー将軍は27日、バーゼルで渡った。サント=シュザンヌ軍団はオフェンベルク前面に布陣する1万2000人から1万5000人の敵部隊を撃ち破った。サン=シールは敵の抵抗を受けずにフライブルクへ入城し、それから彼は、バーゼルで渡河した予備軍団が既に到着していたサン=ブレーズへと前進した。リシュパンスはサン=ブレーズにとどまり、他の2個師団はライン右岸に沿って遡り、アルプの河口へと進んだ。26日と27日、3個師団はヴタッハで合流を果たした。28日、彼らはノイキルヒに布陣。サン=シールはヴタッハのサン=ブレーズからシュテューリンゲンへ前進した。

 その間、モローはサント=シュザンヌを呼び戻す必要性を感じた。後者は27日にケールで渡河し、ライン左岸をアルト=ブリザッハへ移動して再び渡河し、サン=シール軍団の第二線の位置に布陣した。彼はフライブルクへ行軍し、ヴァル=ダンフェを越え、ノイシュタットに陣を敷いた。

 以上がフランス軍の予備、中央、及び右翼の動きだった。その間、ルクルブ麾下の右翼は5月1日にシュタイン近くでラインを渡り、ほとんど障碍に会うことなくホーエントヴェール要塞へと進軍し、要塞は降伏した。そこは80門の大砲で武装していた。かくして戦役開始から5日にしてルクルブは作戦開始の準備を整えた。5月2日、軍は現在地にとどまった。彼らはドナウ側へと傾斜したホーエントヴェール要塞からノイシュタットへの15リーグの戦線を占拠していた。

 かくしてクライ元帥には彼の兵を集める時間があった。5月2日、彼は小さな町エンゲンの前面を4万5000人で占拠し、その左翼には6リーグ離れたシュトックアッハにヴォードモン公と1万2000人の軍団を置いて彼のエンゲンの陣地とコンスタンス湖をつなぎ、補給拠点を守り、かつメスキルヒへの退却路を確保した。3日夜明け、ルクルブは彼の3個師団とともにシュトックアッハへ前進した。モローは予備の3個師団とともにエンゲンへ向かった。戦場から遠く離れすぎていたサン=シールとサント=シュザンヌは、間に合うことができなかった。ルクルブ軍団は3個縦隊で行軍した。右翼のヴァンダンムはシュトックアッハを迂回する。中央のモンリシャールは予定された時間に市内へ入る。左翼のロルジュは1個旅団でシュトックアッハとエンゲンの連絡を遮断し、もう1つの旅団は予備による攻撃を支援する。ヴォードモン公は壊走し、3000人の捕虜と5門の大砲、いくつかの軍旗をルクルブの手に残し、大慌てでメスキルヒへ退却した。この間、予備の3個師団はエンゲンへ向かう道路の一つに於けるアーク川への接近路上でクライ元帥の前衛部隊と交戦した。戦いはすぐにヴェッターディンゲンとムールハウゼンでも激しくなった。しかしモローはすぐに戦線を左翼へと延伸させた。彼はリシュパンスにホーエンホーフェンの小さな高台を攻撃するよう命じたが、この攻撃は終日成功することなく実行された。ロルジュ師団の1個旅団と重騎兵予備を伴った予備の3個師団は4万人の戦力であり、敵がエンゲン前面に所有していた数よりもいくらか少なかった。戦局はオーストリア側に傾いていたが、その時クライはヴォードモン公の敗北とルクルブの大成功、そしてサン=シールがホーエンホーフェンに到着したことを知らされた。彼は退却した。サン=シールは朝方シュトゥーリンゲンを出立し、ヴタッハ右岸を遡り、ツォルハウスの隘路で足を止めていた。夜の時点で彼の前衛となっていたルーセル将軍麾下の旅団はホーエンホーフェンの線まで占拠していた。双方の損害は6000人から7000人ほどだった。さらにオーストリア軍は捕虜4000人と、いくつかの大砲、その大半はシュトックアッハでルクルブに奪われたものを失った。

メスキルヒの戦い

 4日の間にクライ元帥はメスキルヒでヴォードモン公及びフェルディナント公の師団と合流した。彼は補給物資を撤収し、ドナウへと移動する準備をするよう命じた。彼はジグマリンゲンの橋でドナウを渡ることを望んでいた。この日、フランス軍は何の移動も行わなかった。ただルクルブ将軍はシュトックアッハからメスキルヒへと行軍し、エンゲンで交戦しなかったサン=シールはリプティンゲンへ進軍した。予備の3個師団はルクルブを支援するため第二線を進んだ。ルクルブはメスキルヒへ3個縦隊で進軍した。右翼のヴァンダンムはクロスターヴァルトへ向かった。中央のモンリシャールは重騎兵予備に支援されており、左翼のロルジュはノイハウゼンへ進んだ。かくして彼は正面2リーグの広さをカバーしていた。

 ルクルブ将軍は敵の散兵と接触することで敵が近いことを発見した。3個師団はすぐオーストリア全軍と交戦に入り、大いなる危険に晒された時、午後になって予備の3個師団が支援にやって来た。戦闘はとても激しくなり、両軍はその陣地を持ちこたえていた。サン=シールは勝利を決定づけることができたに違いないが、彼は夜になるまでリプティンゲンに到着せず、そこから戦場まではさらに数リーグ離れていた。夜の間にクライは退却した。彼の兵の半数はジグマリンゲンでドナウを渡った――ドナウ右岸に沿って進んでいたサン=シールが6日、河を展望する高地にたどり着いた時、残り半数は右岸にいた。もしモローが彼に味方して敵を追撃していたなら、オーストリア軍の一部は壊滅していたであろう。しかしモローは時間の重要さを知らなかった。彼はいつも戦闘の翌日を致命的な優柔不断状態で過ごしていた。

ビベラッハの戦い

 メスキルヒの戦いから数日後、ルクルブはヴルツァッハへ移動し、側面部隊をティロル山地の麓へ送り出した。サン=シールはブッヒャウへ、モローは予備とともに第二線を行軍した。サント=シュザンヌはドナウ左岸に沿った移動を続け、軍と河で隔てられたままガイセンゲンまで進んだ。クライは妨害されることなく退却を行った。7日、彼はリートリンゲンにおり、[フランス]軍右翼のティロルに対する不規則な動きと、またドナウ左岸のサント=シュザンヌに関する情報を得て、リートリンゲンの橋で河を渡り、ビベラッハの背後方面へと行軍し、ブッヒャウ街道上に1万人の前衛部隊を置き、彼の全軍をリース川の背後に布陣した――左翼はオクセンハウゼンに、右翼はメッテンベルクの線にあった。5月9日、サン=シールはブッヒャウを出立し、主力とリースによって隔てられているこの前衛部隊を攻撃し、彼らを川へ追い立て、1500人の捕虜を得ていくつかの大砲を奪った。彼は敵を右岸まで追った。戦闘の間に予備の2個師団がやって来た。クライはイラー川に沿って行軍した。ルクルブは彼をメミンゲンで攻撃し、1200人の捕虜といくつかの大砲を奪い、彼をウルムの宿営地へと避難させた。

ウルム周辺での機動と小競り合い

 5月10日から12日にかけ、フランス軍は以下の陣を占めていた。ルクルブ麾下の右翼は司令部をメミンゲンに、予備と中央はイラー川に沿ってドナウまでの地域に、ドナウ左岸のサント=シュザンヌ将軍はウルムまで1日の地点にいた。オーストリア軍は防御陣地を構築したウルムの宿営地で、ティロルにいるド=ロイス公の軍団2万人を除いて完全に合流した。ウルムは稜堡を持った要塞だった。市を展望できるザンクト=ミヒャエル山は、注意深く建築され多くの砲列を配備した野戦陣地で守られていた。右岸では強力な塹壕陣地が2つの橋を守っていた。飼料、食糧、軍需品の巨大な補給拠点がここに集められていた。オーストリアの将軍は同時にシュヴァーベンとバイエルンを守り、ボヘミアとオーストリアを保護しながらドナウ両岸で機動することができた。彼は連日、徴集兵と食糧を受け取り、よく知られた彼の戦力の劣勢さとこれまでに受けた敗北にもかかわらずこの中央の位置を維持しようと決断しているように見えた。

 彼を動かすため、モローは右翼を正面にして前進することを決めた。ルクルブはメミンゲンを出発しレッヒ川に近づいた。司令部はグントを越えて移動した。中央のサン=シールはドナウに沿って梯団を組みながら続いた。サント=シュザンヌは左岸をウルムへ接近した。ルグラン師団はそこから2リーグ離れたドナウ沿いのエアバッハに陣を敷いた。スーアン師団は、ブラウ川沿いの同じ距離に布陣した。かくして2個師団は2リーグの戦線を守ることになった。サント=シュザンヌはドナウにかかる橋を1つも確保していなかった。彼は自身の1個軍団でクライの全軍と対峙していた。クライはメールフェルト将軍をレッヒ川の背後に送るだけで満足しており、引き続きウルムからレッヒ河口までのドナウ左岸全てを彼の戦力で占拠し、前衛部隊をアウグスブルク街道まで前進させ、そこでフランス軍左翼の側面部隊と小競り合いをした。

 16日夜明け、フェルディナント大公がルグラン将軍に対して、もう1つの縦隊がスーアン将軍に対して押し出した。フランス軍の前哨線はすぐ後退を強いられ、連絡線は断たれ、これらの師団から成る軍団は2リーグ追い返された。退却に伴い、彼らを隔てる距離も広がっていった。

 サント=シュザンヌの師団は侵入を許した。彼はルグランに、スーアン師団に近づくためドナウの陣地を捨てるよう命じた。この集結する動きは、その面から見れば有利なものだったが、彼を軍から遠ざけるという恐ろしい不都合も伴っていた。しかし砲声を聞いたサン=シールが後衛部隊とともに戻り、ウルムからエアバッハへ至る道路を攻撃できるようドナウ右岸に砲列を敷き、大公を混乱させた。彼は全軍が河を渡り彼を孤立させようとしているのだと想像して、ウルムへと退却した。サント=シュザンヌ軍団の死傷者はかなりの数にのぼった。しかし、彼が見捨てられていた間違った布陣から予想されたものよりは少なかった。兵の大胆さと将軍の才がこの軍団を完全な壊滅から救った。

 この事件に驚いたモローはレッヒへの行軍命令を撤回し、サン=シールとオープールにサント=シュザンヌを支援するためエアバッハでドナウを渡るよう命じ、彼自身はイラーへと行軍してルクルブを呼び返した。サント=シュザンヌはブラウを渡り、かくして彼の軍を攻勢する11個師団のうち5つが左岸に、6つがドナウ右岸に布陣した。河の両岸に宿営し、14リーグの戦線を占めるこの布陣で彼は数日過ごした。

 左岸でクライを攻撃するのか? それとも右岸へと再渡河するのか? 彼は後者を選んだ。ルクルブはランズベルクへ戻り、5月27日にそこへ到着し、28日にはアウグスブルクでレッヒを渡った。サン=シールはグンツトへ移動した。サント=シュザンヌはドナウ右岸へ渡り、イラー側の両岸に布陣した。フランス軍は左翼をドナウに、右翼をレッヒに拠る戦線を占め、その長さは20リーグあった。5月24日、クライ元帥は前衛部隊を右岸へ渡らせ、同時にサント=シュザンヌの両師団を攻撃した。交戦は激しく、終日続いた。双方の損害はかなりのものだったが、夕方にはオーストリア軍はドナウを再渡河した。

 何が起きたかを知らされたモロー将軍は、再び彼の決断を変更した。彼は移動をやめ、ドナウへ近づいた。ルクルブは再びレッヒを放棄した。しかし6月4日、部隊の一部を再編したクライ将軍はウルムの橋を渡り、リシュパンスが率いるサント=シュザンヌ軍団を攻撃した。サント=シュザンヌはイラーに配置していたメンツ兵を指揮するために去っていた。優勢な敵に囲まれたリシュパンスは終日後退した。彼の状況が極めて危機的になった時、モローによって軍からサン=シールが送り出された時にその後を継いだグルニエ将軍がネイ師団とともにイラー川のケルムンツ橋から押し出した。交戦は再開した。モローは全戦力をイラーに集めた。これはフランス軍と正面からぶつかるには弱体すぎるクライがまさに欲していたものだった。彼はフランス軍の進軍を妨げ、その一部と交戦することでそれを壊滅させることを望んでいた。

 数日間この陣地にとどまった後で、防御陣地にとどまって何の動きもしなかったクライの防衛的な姿勢に励まされたモローは、3回目となるがバイエルンを攻撃するという彼の計画を再開した。そしてレッヒ渡河の準備をするように見えた。

 ルクルブはまたもレッヒを渡り、6月10、11、12日に全軍はその川へ近づいた。かくしてビベラッハの戦いから1ヶ月後、軍はいまだに同じ場所にとどまっていた。前進と回れ右で時間は消費され、それによって軍は危機に陥り、そしてフランス軍が数で劣る戦いが引き起こされ、深刻な損害を蒙った。ルクルブの後衛部隊はアウグスブルクを撤収する際にシャプミュンヘンの戦いで2000人を失った。この躊躇は軍の何人かの将軍に多くの不満をもたらした。モローはサン=シールを解任し、グルニエに替えた。彼はエンゲンと、特にメスキルヒでの行軍が遅れたことと、他の師団が圧倒されて苦しんでいる時に彼らを支援する力を持っていたのに誤った行動をしたことを理由に前者を非難した。サン=シールの側も指揮官の行為を厳しく批判し、戦役の開始時点から行われた機動に対する不同意を声高に宣言した。ルクルブからの手紙は精力と、モローの遅滞、優柔不断、躊躇、命令と反対命令に対する不満に溢れていた。とうとう指揮官はドナウ左岸へ移動することを決断し、ウルムの地点でドナウ河沿いにたどり着いた後の6月19日と20日に河を渡った。

 右翼のルクルブはホッホシュテットの対岸へ、モローと予備はディリンゲンの対岸へ、グルニエと中央はグンツブルク対岸へ前進し、左翼のリシュパンスはウルム対岸のイラー川に監視のためととまった。19日夜明け、ルクルブはブリントハイムにあるドナウを渡る橋を補修し、彼の主力とともに渡河して1個師団をドナウヴェルト方面へ2リーグ河沿いに下ったシュヴォニンゲンへ前進させ、残り2個師団をドナウ河沿いに遡ったラウインゲンへ送り出した。彼がシュヴォニンゲンへ到着するや否や師団はドナルヴェルトに司令部を置くドゥヴォー将軍麾下の4000人の旅団から攻撃を受けた。戦闘は激しかったが旅団は敗れ、戦場とフランス軍の手中にその半数を残した。その少し後に敵はラウインゲンに布陣した師団を攻撃した。極めて活発な交戦の後で彼らはそこからも撃退された。モローは予備とともにディリンゲンの橋を渡った。グルニエはグンツブルクの橋を修繕しようとしたが、ギューライ将軍に妨害された。彼はディリンゲンの渡河点に頼ることを余儀なくされた。渡河がなされたことを知るや否や、クライは退却を決断した。ブレンツトに配置した騎兵部隊に守られながら彼はそれを実行したが、20、21、22、そして23日の間、フランス軍は不活発な状態にとどまった。とても貴重な時間が失われた。もしうまく使われていれば、敵にとって致命的だっただろう。オーストリアの将軍はこの失敗を自らのために役立てた。彼はネレスハイムとノルドリンゲンを通過し、23日夕方にヴェルニッツに到達した。リシュパンス将軍は兵とともにウルムを囲んだ。軍がオーストリア軍の追撃を再開したのは遅すぎ、彼らの後衛部隊に追いつくことに成功しただけだった。ドゥカーン師団はミュンヘンへ向かった。メールフェルト将軍との僅かな接触の後で、彼らはその首都に入城した。

 ルクルブは再びドナウ右岸に渡り、ラインとノイブルクへ前進した。クライはドナウ右岸沿い、後者の町の前面に2500人の兵とともに布陣していた。彼をそこで攻撃しようと試みたモンリシャールは巧妙に撃退され、2リーグの後退を余儀なくされた。ルクルブはグランジャン師団とともに戦闘を再開した。もしそれがなければより大きくなっていたであろう弊害は、兵士たちの勇気と将軍の活動によって修正された。敵はその陣地にとどまったが、夜の間に彼らはレッヒを得る時間はないことと、残るフランス軍がまさに彼らを圧倒しようとしていることを感じた。彼らはドナウを再渡河し、インゴルシュタットに到着し、再び河を渡ってイーゼル川の背後にあるランズフートまで司令部を動かした。モロー将軍はアウグスブルクに入り、そこに司令部を置いた。彼はルクレール師団をフライシングに派出し、彼はオーストリア軍前衛部隊との極めて活発な戦闘の後にその地に入城した。

 同時にサント=シュザンヌはそこで合流した2個師団とともにメンツを出発し、フランケン地方に入ってドナウへ接近していた。

 その間、ド=ロイス公はまだフェルトキルヒ、フュッセンとティロルからのあらゆる出口を占拠していたが、ルクルブは2万人とともにレッヒを再渡河し、3つの縦隊で前進した。左翼はシャルニッツへ、中央はフュッセンへ、右翼はフェルトキルヒへ向かった。7月14日、モリトールが後者へ入城。敵は防御陣地を築いた宿営地を彼に明け渡した。ド=ロイス公はティロルを守っている隘路と防御陣地の背後へ退いた。

 7月15日、パールスドルフで休戦が結ばれた。インゴルシュタット、ウルム、フィリップスブルクの3要塞は封鎖状態にとどまるが、休戦が決められた期間は日々の食糧を供給される。ティロル全土はオーストリアの支配下にとどまり、休戦ラインはイーゼルを通ってティロル山地の麓まで引かれた。6月24日以降、クライは彼が情報を得たばかりのマレンゴで結ばれた休戦を遵守するよう申し出ていた。7月の残りの期間と、8月、9月、10月、そして11月の途中まで、両軍はそれぞれ現在地にとどまった。戦闘は11月まで再開されなかった。休戦協定は以下の通り。

 第1条――皇帝陛下の軍隊と彼の同盟国であるドイツ、スイス、ティロル、及びグリゾン諸国は、同じ諸国内にあるフランス軍との間で休戦と交戦の停止を締結する。交戦の再開は互いにその開始より12日前に宣言する。第2条――フランス軍は以下の休戦ラインを含むあらゆる地域を占拠する。このラインはグリゾンのバルツァースからライン右岸に沿ってイン川水源まで伸び、それが流れる峡谷全体を含む。ついでフォーラルベルクの山地の背後を通ってレッヒ川水源まで、さらにレッヒ左岸に沿ってロイティまで伸びる。オーストリア軍はレッヒ右岸に通じるあらゆる渡河点を確保する。そのラインはロイティを含み、シェバッハの背後、ブライテンヴァンク近くまでセバッハが流れ出す湖の北岸に沿って伸び、レヒタール左岸に沿ってアンマー川の水源まで遡上する。そこからヴェルデンフェッツの国境線に沿ってロイザッハまで伸びる。その川の左岸からコッヘルゼーまで伸び、そこを渡ってヴァルヒェンゼーへ達し、その名のついた湖を横切り、ヤッハナイの北岸に沿ってイーゼルの合流点まで伸びる。そしてその川を渡り、マングアルトの背後、グミュント近くにあるテゲルンゼーのロイティまで続き、後者の左岸に沿ってファレイの背後に伸びる。そこからオプ=ラウス、ライフィング、エルクホフィン、フラフィング、エッキング、エーベルスベルク、マルキルヒェン、ホーエンリンデン、クライナッヒャー、ヴェティング、レティング、アイトベルク、イーゼン、ペンツィング、ツフテンバッハを通り、イーゼルに沿ってフルデンとゼンドルフまで伸び、そこでフィルツの水源へ向かい、それがドナウに注ぐところまで進み、それからフィルツの右岸をフィルスビブルクへ、そしてその川の背後をビナビブルクへ、そこからビナに沿ってドルナイヒへ伸びる。スルムスハウゼンで曲がり、コルバッハの水源へ向かってそれから左岸に沿ってフィルツと合流するところまで進む。そして、フィルツに向かって左に曲がり、それがドナウに注ぐところまで伸びる。同じ線はドナウ右岸をケールハイムまで走り、そこで河を渡り、アルトミュール右岸をパッペンハイムまで伸びる。そこでヴァイセンブルクからレードニッツへ伸び、その左岸に沿って川がマインに合流するまで進む。そして後者の河に沿ってその河口まで伸びる。マイン河右岸のマインとデュッセルドルフ間の休戦ラインはニッダを越えてメンツまでは延長されない。休戦期間中にフランス兵がこの方面で何らかの進展を成し遂げた場合、彼らは7月15日に占領していたのと同じ線を保持するかまたは再現する。第3条――帝国軍は上及び下エンガディーネ、即ちグリゾンのその地方とその川がインに流れ込むところ、そしてアディジェへ通じるサント=マリーの谷間を再占領する。フランス軍の休戦ラインはバルツァースからコモ湖へ、それからコイラ、トッサナ、シュプルーゲン、そしてキアヴェナへ伸び、ルツィエンシュタイグを含む。この線とエンガディーネの間にあるグリゾンの一部からは両軍は撤収する。その地の政府形態は現状のままとする。第4条――この休戦ラインに含まれる要塞のうち、たとえばウルム、インゴルシュタット、そしてフィリップスブルクのように帝国軍が占拠しているところは、この目的のために指揮官が任命した担当官が見たのとあらゆる面で同じ状態にとどめられる。守備隊は増やしてはならないし、河の往来や主要街道の通行を妨げてはならない。各要塞の支配地は要塞から2000トワーズの距離まで延長される。彼らは10日ごとに食糧を得られる。この食糧に関する限り、フランス軍に占領された地域に含められるとは見なされない。フランス軍の側は要塞に物資を運び込む車両を妨げない。第5条――帝国軍指揮官は各要塞の指揮官との間で、彼が監視する彼らの行動に関して連絡を取るための士官を送ることが承認される。第6条――休戦ラインが河を横切っていない限り、両軍の間を隔てる河に橋があってはならない。そして橋は休戦ライン内で、将来的に軍や商業の利益を図る準備がなされるような迷惑がなされない限りにおいて架けることができる。双方の指揮官はこの条項に関して相互理解を図る。第7条――航行可能な河が両軍を分けている場所は、どこでも彼らと住民による航行が自由に行える。休戦期間中、休戦ラインを含んでいる主要道路についても同じ規則が適用される。第8条――休戦ラインのフランス軍側にある帝国とオーストリア諸国の領土は名誉と信頼の保護下にある。個人の財産と既存の政府は尊重され、これらの国々の住民は、帝国軍に対する業務の提供や、政治的意見、戦争で積極的な役割を果たしたことなどによって支障を受けることはない。第9条――この協定はできる限り迅速に実行される。第10条――両軍の前哨線は互いに連絡を取らない。

 (註1)マセナ、ブリュヌ、ルクルブ、シャンピオネ将軍はナポレオンと個人的つながりがあったが、シェイエースには極めて敵意を持っていた。彼らは濃淡はあれジャコバン派のマネージュ[ソシエテ・デュ・マネージュ?]に関与していた。このあらゆるつながりを断ち切るために、指揮官たちを遅滞なく取り替えることが必要になった。軍が危険をもたらす要因になりうるとしたら、それは過激派の影響によるものしかありえず、圧倒的少数派であった穏健派からの影響ではありえなかった。

 (註2)モローは総裁政府の敵であり、それよりもさらにソシエテ・デュ・マネージュ[ジャコバン派のことか]の敵だった。ちょうど終わったばかりの戦役で彼が敗北のみを喫しており、チューリヒでスイスを、アルクマールで英国王の息子を降伏させることでオランダを救った将軍たちより低い評価しか受けていなかったにもかかわらず、彼はドイツ方面軍が作戦を行うであろう地域に通暁していたため、第一執政は彼に完全な信頼を置くことを決断し、彼を軍の長に据えた。

Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. I p159-189


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