1797年―ライン戦線



・フランス軍攻勢

 ライン方面ではオーストリア軍に1796年11月10日から包囲されていたケールが1月10日(9日の説もある)に降伏。続いて11月27日から包囲されていたフンニンゲンも2月5日(1日の説もある)にオーストリア軍の手に落ちた。イタリア方面の危機に対応するためカール大公と3万人の兵が2月上旬にラインから転出し、この地域にはラトゥール率いるわずか8万人(9万3000人の説もある)のオーストリア軍のみが残された。一方のフランス軍もライン軍が9500人、サンブル=エ=ミューズ軍がベルナドットの1万2000人をボナパルト将軍への援軍として送り出したが、ライン方面ではフランス軍側が兵力で圧倒するようになった。

 フランス側はモロー麾下の6万人(5万7000人の説もある)が南方に、ブールノンヴィルに代わって2月に指揮官として着任したオッシュ麾下の7万人(7万8000人の説もある)が北方に展開していたが、彼らはイタリアでの戦役が終わる頃まで攻撃開始を遅らせた。オッシュは4月17日にその兵力をヴェルネックの4万人の部隊に向けて動かした。フランス軍左翼のシャンピオネはデュッセルドルフの橋頭堡から南東へ進み、ヴェルネックはオーストリア軍をアルテンキルヒェン付近に下げてわずかな部隊をノイヴィートに残した。オッシュの主力は18日早朝にノイヴィートで渡河。ノイヴィート(ヘッデスドルフ)の戦いはフランス軍3万8000人、オーストリア軍2万1000人(うち実際に戦闘したのは7000人)が参加し、損害はフランス2000人、オーストリア5000人(4000人の説も)だった。ヴェルネックが南東へ向かって退却している間、オッシュはルフェーブルの部隊のみをフランクフルトへ向かわせ、主力は北方へ動いてシャンピオネとの合流を試みた。ヴェルネックは後衛部隊が追撃を受けたものの、ほとんどフランス軍に邪魔されることなくラーン川へ退却。23日にはフランクフルトまで後退したが、その時点でレオーベン和約の情報が伝わり、両軍指揮官は休戦を結んだ。

 一方、モローは4月19−20日の夜にヴァンダンムとダヴーの前衛師団をボートで渡河させ、20日午後早くにはディールスハイム付近にいるオーストリア軍守備隊4000人を破った。フランス軍には船橋を通じて充分な増援部隊が送り込まれ、翌21日朝にスタライ率いるオーストリア軍1万7000人(2万4000人の説もある)がディールスハイムとハナウに攻撃してきた際に、フランス軍は充分に持ちこたえることができた。さらにルクルブ師団と騎兵の到着で戦局は変化。モローはリッツェンハイムとフライシュテットの間にあるオーストリア軍主力に対して即座に反撃し、夕方には彼らを混乱と退却に追い込んだ。フランス軍は4万8500人が参加し、損害は双方3000人(オーストリアは2900人の説もある)だった。同日のうちにフランス軍はケール要塞も奪った。モローのやる気のない追撃と、マンハイムからフランス軍の側面を攻撃しようとするオーストリア軍の動きは、レオーベンの和約が伝わったためにいずれも停止された。


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