1796年―西部フランス・アイルランド遠征



・アイルランドへ

 ヴァンデでは1796年前半まで反乱軍の抵抗が続いた。総裁政府は残ったリーダーを狩り出すのに必要な支援をオッシュに与えた。ストフレは2月23日に捕まって25日に処刑。シャレットも3月23日には捕まり29日に処刑された。4月中にはブルターニュに残っていた6000人の反乱部隊をオッシュが一掃。7月13日にはオッシュが戦闘終了をパリに伝えた。オッシュの率いる大洋沿岸軍(元の西方軍やブレスト沿岸軍などが合体したもの)は9月に解散。部隊の多くは他の戦線へ向かった。

 ヴァンデ鎮圧をほぼ終えたオッシュはアイルランド遠征の準備を始めた。アイルランドのナショナリスト、ウォルフェ・トーンによる要望とオッシュ自身の熱心さが戦争大臣カルノーを動かし、秋の間に1万5000人(1万3000人の説もある)の兵と強力な艦隊とがブレストに集結した。イギリス政府は11月中旬には危険性に気づきイギリス海岸の防備を固めたが、艦隊封鎖に当たっている多くの船は遠征軍が出発した12月15日には冬季の休養に入っていた。

 だが、遠征軍指揮官のオッシュとフランス艦隊指揮官のド=ガールは目の前に見える3隻のフリゲート艦のみが封鎖に当たっている唯一の兵力であるとは気付かなかった。12月16日、オッシュは敵艦隊との接触を避けるため南方へ方向を転じるよう命じたが、嵐の接近でド=ガールはすぐにコース変更の合図を出した。この合図は多くの船に伝わらず、さらに夜間にイギリスのフリゲート艦がフランス艦隊に突入して混乱をもたらしたため、翌朝にはフランス艦隊は大きく3つに分裂してしまった。オッシュとド=ガールの乗った船は行方不明。フランス艦隊のブレスト出港は20日にイギリス政府に伝わり、海峡艦隊のフッドは21日にそれを知ったが、その時にはすでにオッシュの乗船を除いたフランス艦隊の大半はアイルランド南西部の海岸に集結しつつあった。艦隊は22日からバントリー湾への上陸を試みるが激しい風などに妨げられて上陸は失敗。25日にはブーヴェ提督は上陸中断を決意し、フランス艦隊は退却を始めた。オッシュの船は31日にようやくバントリー湾に到着したが、もはや何もできなかった。


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