1795年―西部フランス



・講和の動き

 1793年の惨敗後も一部の反乱分子が残ってゲリラ戦を繰り広げていたヴァンデだったが、2月18日(15日、17日の説もある)にナントで反乱軍リーダーの一人シャレットがフランス政府との講和を結んだ。続いて4月20日にはコルマルタンなどふくろう党のリーダーたちの一部が、5月2日にはもう一人のヴァンデのリーダーであるストフレが共和国と講和した。彼らは兵役を回避できたうえ、信仰の自由もある程度保証された。だが、1ヶ月後にはイギリス軍上陸の可能性が高まったため、彼らは再び反乱を起こした。

・キベロン遠征

 フランス王党派軍3000人と大砲80門を積んだウォーレン提督麾下のイギリス艦隊は6月半ばにポーツマスを出港。遠征軍の上陸を妨害すべくブレスト湾から出てきたヴィラール麾下のフランス艦隊に対し、イギリス海峡艦隊の指揮官フッド提督もまた出港した。6月22日にフッドはフランス艦隊を発見。フランス艦隊とウォーレン艦隊の間に入り込み、フランス艦隊とともにグロワ島まで移動した。翌23日午後、フランス艦隊がロリアンに逃げ込もうとしているのに気づいたフッドは攻撃をしかけた。夕方早くに戦闘は終わり、フランス軍は3隻の主力艦が降伏したが残りはロリアンにたどり着いた。

 ウォーレン艦隊は25日にブルターニュのキベロン湾に入った。2日後に王党派軍が上陸。守備についていた250人の民兵を追い払ってカドゥーダル率いる数千人のふくろう党と合流した。エミグレ軍の指揮官であるダーヴィリー伯爵は1万2000人の兵(未訓練の農民含む)を率い、30日にキベロン半島唯一の要塞であるペンティエーヴルを奪取した。だが、ダーヴィリーはさらに前進すべきだとの地元リーダーの意見を無視。上陸に対応した共和国軍のオッシュが半島の付け根を確保するのを許した。

 キベロン湾を守備するのはオッシュ率いるブレスト沿岸軍の役割だった。彼がカンクローの西方軍から増援を受けるため動きを止めた際に、ダーヴィリーは共和国軍の両側面を迂回すべく海を通って分遣隊を送り出した。南翼の部隊は7月11日に共和国軍の最左翼を奇襲。内陸へ前進し16日には3000人の兵が防御を固める場所へ攻撃をしかけたが、巧妙に隠されていた砲兵の攻撃を受けて壊走。ダーヴィリーも戦死した。北翼の部隊は間違った情報を得て合流点から遠ざかってしまい、サン=マロへの途上で共和国軍によって四散させられた。7月15日にはエミグレ軍の第二陣が上陸。しかし、エミグレの脱走兵が7月20−21日の夜に共和国軍によるペンティエーヴル要塞奪回を手助けしたときには、すでに王党派軍はリーダー間の対立で崩壊していた。

 オッシュはすぐに王党派軍を攻撃し、彼らを浜辺に追い詰めた。強風に遮られながらイギリス海軍のフリゲート艦は3500人の兵を救出したが、オッシュは6000人の反乱軍を捕らえ、4万人の兵士用の物資とうっかり湾内に入ってきたイギリスの補給船6隻も手に入れた。捕えられたエミグレのうち748人は処刑された。助けられた兵の大半は船を抜け出してフランスへ戻ったが、一部の頑固者とイギリス海兵隊は沖合いのデュー島を占拠し、そこでアルトワ伯麾下の第三次遠征軍と合流した。だが、フランス国内の王党派と連絡を取ることができなかった彼らは秋には撤退。カドゥーダルも海外へと脱走した。

 8月、体調を壊したカンクローに代わってオッシュが西方軍の指揮も兼ねることになった。10月にはスペインとの戦争が終わったピレネー方面の軍から増援がやって来た。


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