1795年―ライン戦線



・プロイセン休戦

 ライン戦線では4月5日のバーゼル条約でプロイセンが対仏大同盟から手を引いたため、オーストリア軍の17万人だけが戦場に残った。ライン下流はクレアファイト、上流はヴルムゼルがそれぞれ指揮していた。一方のフランス軍は14万5000人。ライン下流のサンブル=エ=ミューズ軍は引き続きジュールダンが指揮を取っていたが、上流ではライン軍とモーゼル軍が合体。4月に新たな指揮官として北方軍からピシュグリュが着任した。

 この年、前半は双方とも本格的な攻勢は行わず。フランス軍は引き続きライン西岸の要塞攻撃を行っていた。前年8月9日から包囲されていたルクセンブルクの守備隊1万2500人(6000人の説もある)は6月7日にアトリ将軍麾下の3300人に降伏。守備隊の損害は1200人だった。一方、マインツ付近の連合軍は頑強な抵抗を継続。クレベールは辞任してサンブル=エ=ミューズ軍に戻った。

・マンハイム戦役

 フランス軍の攻勢が始まったのは9月だった。ジュールダンの左翼部隊(クレベール麾下)は9月5日夜に、連合軍戦線の北端でライン河を渡り始めた。彼らはデュッセルドルフを占領し8日からライン東岸を南下し始めた。彼らの進路にあるオーストリア軍は15日にノイヴィートから退却し、その対岸にいたフランス軍3個師団がオーストリア軍の後を追ってラインを渡った。9月20日にはジュールダンは6万人の兵でラーン河の北岸ナッサウとヴェッツラーの間に布陣し、21日にかけてこれを渡った。一方、ピシュグリュ麾下のフランス軍3万人は20日、マインツ西方から南下してバイエルン軍(プファルツ軍の説もある)の守備隊9200人が守るマンハイム(ライン東岸部分)を占領。オーストリア軍はこの地域を完全に無視していたため、フランス軍の行動に対して対応ができなかった。ニュースを知ったクレアファイトは後方の脅威に対応するためさらに南下し、23日にはマイン河を南へ渡った。

 しかし、マンハイムを落とした後のピシュグリュの動きは鈍かった。彼はようやく9月23日になってハイデルベルク(ハントシュースハイム)へ向けてアンベールとデュフォール師団を前進させたが、24日にはオーストリア軍のクォスダノヴィッチがデュフォールに反撃。アンベール師団の前衛だったダヴー旅団は前進を続けていたが、味方の敗北でマンハイムへの退却を強いられた。この戦闘にはフランス軍1万2000人、クォスダノヴィッチのオーストリア軍8000人が参加し、フランス軍が1500人、オーストリア軍が200人の損害を受けた。

 一方のジュールダンはマインツ包囲のためにクレベール麾下の2個師団を派遣。ライン西岸に残ったフランス軍4個師団と協力してマインツへ圧力をかけたが、そのためにジュールダン自身がマイン河北岸に展開していた部隊は弱体化した。クレアファイトはヴルムゼルから2万5000人の増援を受けマイン河へと前進。10月10−11日の夜、彼はフランクフルトから攻撃をしかけ、ジュールダンの左翼を迂回するようにしてフランス軍をライン河へ押し戻した。14日にフランス軍はラーン河北岸へ退却。16日(17日の説もある)からはデュッセルドルフ、ボン、ノイヴィートでライン河を渡って後退したが、ノイヴィートの橋が味方のミスで破壊される事故があり、クレベールは橋が直るまで丸一日ライン東岸で待機するはめになった。

 クレアファイトがマイン河に兵を集めている間に、ヴルムゼルはマンハイム近辺にいるピシュグリュに圧力をかけた。10月18日にはマンハイムでフランス軍1万2000人に攻撃をしかけ、これを破った。オーストリア軍の戦力は1万7000人で、損害はフランス軍2000人、オーストリア700人だった。さらに28日の夜からマインツを通じてライン西岸に部隊を送り込んだクレアファイトの2万7000人がフランス軍を攻撃。マインツ西方に戦線を張っていたフランス軍4個師団3万人(3万3000人の説もある)を破った。特に最右翼にいたクールト師団は壊走し、フランス軍は南方のプフリム河まで退却を強いられた。損害はフランス軍4800人、オーストリア軍1600人だった。

 クレアファイトはこのフランス軍を追撃。11月10日には3万3000人の兵(7万5000人の説もある)でプフリム(フェデルスハイム)にいるピシュグリュ麾下の3万7000人(3万5000人の説もある)を攻撃。これをマンハイム南方へと追いやった。損害はフランス軍1400人、オーストリア軍600人だった。ピシュグリュは16日にはクワイヒ川へ退却。10月19日からオーストリア軍2万2000人に包囲されていたマンハイムのフランス軍守備隊6000人(9000人、1万人の説もある)は11月22日(21日の説もある)に降伏した。

 ライン軍の苦戦を救援するため、ジュールダンはライン西岸で北方からオーストリア軍に圧力をかけた。11月13日にはマインツ西方にいるマルソー師団を支援するためベルナドット師団が送られ、27日には他の師団も加えて4万人が前進を始めた。だが、マンハイムが陥落したためジュールダンは前進を諦めてナーエ河北岸へ退却。12月19日にはクレアファイトから冬季の休戦が提案された。疲労した両軍は年明け1月1日から休戦に入った。


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