1795年―ピレネー戦線



・講和

 ピレネー東端では4000人のスペイン軍守備隊が守るローザスへのフランス軍の攻撃が前年から行われていた。フィゲレスを落とした後でペリニョン(ソールとの説もある)がこの街の包囲にかかったが、冬場で天候が厳しいため作戦は進まず、外郭防衛線は1月31日にやっと落ちた。南方のフルーヴィア川にいるスペイン軍からの援助がないことに不満を抱いた守備隊とグラヴィナ提督のスペイン艦隊は、フランス軍砲兵が突破点を作った直後の2月2−3日の夜に街を退却した。包囲に当たったフランス軍は1万3700人で、損害はフランス軍が僅か、スペイン軍は2000人だった。

 東部ピレネー軍の新たな指揮官はシェレールに決まったが、彼は5月31日まで着任しなかった。フランス軍は4月25日からフルーヴィア河に防衛線を築くスペイン軍への攻撃を始めた。シャレ将軍の部隊がスペイン軍左翼を攻撃するためカンプロドンへ迂回する一方、主力軍は2個部隊に分かれてフルーヴィアへと正面から前進。偵察に出ていたスペイン軍2個師団と接触してこれを押し戻したが、その夜に試みた渡河には失敗した。翌日午前中、フランス軍は攻撃を再開してスペイン軍を河の両岸から追い払ったが、スペイン軍騎兵とオファリル将軍の師団による反撃でフランス軍左翼のソールは停止させられた。さらにヴィーヴェスとラ=ロマーナ率いる予備部隊がフランス軍右翼のオージュローを食い止め、夕方にはフランス軍をローザスまで退却させた。フランス軍が5月下旬に実施した2度目の攻撃も失敗。ウルティア将軍のスペイン軍は増援を受けて3万5000人にまで増え、河沿いの強力な陣地を確保した。講和の噂もあり、その後は大きな動きはなかった。

 ピレネー西端にいたモンスイ麾下のフランス軍は病気とヴァンデへの部隊派出のため弱体化しており、6月下旬まで攻勢に出られなかった。6月28日から攻撃に出たフランス軍はカステルフランコが指揮するスペイン軍2個部隊をそれぞれビルバオとパンプローナの向こうへ追いやった。7月15日にフランス軍はヴィットリア占領。モンスイがパンプローナ包囲に取り掛かろうとしたときにバーゼル条約(7月22日調印)のニュースが伝わり、戦闘は終わった。東部ピレネー軍、西部ピレネー軍はいずれも役目を終え、その兵力は他の戦線へ回された。


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