1795年―植民地戦争



・西インド諸島

 この年の初頭、オランダがフランスに降伏した段階で西インド諸島にあるオランダ植民地はイギリス軍の攻撃目標となった。さらに7月のバーゼル条約でスペインがイスパニオラ島東半分をフランスに割譲した。

 前年、フランスから送り込まれた3000人の増援は1月に仏領グアドループのフランス軍と合流した。奴隷解放と反乱に対する武器支援を材料に、グアドループの指揮官ユーズは西インド諸島各地でイギリスに対する反乱を煽った。3月以降、フランスの支援する反乱はイギリス軍を英領セント=ヴィンセント、英領グレナダから追い出すのに成功。イギリスが占領していた仏領サン=リュシアでも地元民が反乱を起こし、6月19日にイギリス軍を追い出した。だが、同じくイギリス占領下の仏領マルティニークに送り込まれた小規模なフランス軍はイギリス軍に敗北。ダルーシーのイギリス軍は12月にはマルティニークからフランス軍を追い払った。同時に英領ジャマイカで起きた反乱も終了し、反乱に参加した者の大半はノヴァスコシアへ流された。

 東半分も仏領となったイスパニオラ島の状況はいよいよ混乱していた。イギリス軍はポルトー=プランスを確保し続けた。フランス軍は5月12日に本国からロシュンボー将軍率いる1200人を上陸させて北西部の支配を固めたが、どちらの軍勢もすぐに病気のため使い物にならなくなっていった。一方、地元民勢力は着実に力をつけていた。

・ケープ植民地

 オランダ領ケープ植民地もこの年からイギリス軍の重要な目標となった。エルフィンストーン提督率いるイギリス海軍は800人の陸軍兵を載せてケープ植民地に8月に到着。オランダの総督が降伏を拒否したのを受けてクレイグ将軍の陸軍と水兵1000人は8月7日に上陸し、ケープタウン近くにいたオランダ軍とホッテントット民兵の混合部隊を追い払った。9月3日に行われたオランダ軍の反撃は失敗に終わり、さらにインドからイギリス軍の増援が到着したため9月14日には植民地全体が降伏した。


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