1794年―ライン戦線



・指揮官交代

 ライン河方面では連合軍の指揮官がこの年に交代。プロイセン軍とザクセン軍6万人はメレンドルフが、オーストリア軍3万5000人はザクセン=テッシェン公が率いることになった。だが、既にポーランド分割をめぐる動きに関心が移っていたプロイセンの部隊は積極さに欠けており、メレンドルフは5月まで部隊を動かそうとしなかった。一方のフランス軍ではピシュグリュが北方軍指揮官に転出。オッシュはやがて政府に危険視され、3月に逮捕された。オッシュの後を引き継いだのはジュールダンだった。

 フランス側がサンブル河を巡る戦闘のためジュールダンの部隊4万2000人(1万5000人の説もある)を北方へ動かしたのに乗じ、メレンドルフはライン河を渡った。プロイセン軍は5月23日にカイザーズラウテルンを奪取。この地域に残ったフランス軍をブリースキャステルとクウェイシュ川へ後退させたが、彼はその成功を利用するような動きは見せなかった。6月には連合軍の動きは止まった。メレンドルフはフリュールスで敗北した連合軍部隊を救援するのを拒否し、イギリス政府の資金援助停止を引き起こした。

・連合軍守勢に

 やがて6月にはヴァンデ鎮圧を終えた部隊がライン方面に来援しフランス軍の数が増加。6月末になるとミショー将軍がザール河とライン河の間で指揮するフランス軍は11万5000人に達した。プロイセン、ザクセン、オーストリアの連合軍は7万人で、カイザースラウテルンからシュパイアーを結ぶ場所に防衛線を敷いていた。7月2日、ミショーは全戦線に渡って攻撃をしかけた。フランス軍最右翼のドゼーがある程度の成果をあげたが、その部隊もプロイセン騎兵によってライン河への前進を止められ、ブリュッヒャーとバーデン公による反撃によって1000人の損害を出した。

 公安委員カルノーの命令によりライン軍は7月13日に攻撃を再開。グーヴィオン=サン=シールがカイザースラウテルン近辺に位置する連合軍右翼を攻撃した。このシェンツェルの戦いに参加したのはフランス軍9000人とプロイセン軍6000人で、損害はフランス軍180人、プロイセン軍900人だった。フランス軍右翼のドゼーは砲撃のみにとどめたが、フランス軍中央ではタポニエがヴォージュ山脈でホーエンローエのプロイセン軍を押し込み、トリップシュタットと東方の山岳部にある拠点を確保した。カイザースラウテルンから増援を引き抜くこともできず、近くにいたオーストリア軍からの支援も得られなかったホーエンローエは夜の間に全軍を後退させた。この日の戦い全体で連合軍は3000人を失ったが、うち8割はプロイセン軍だったという。フランス軍は17日にカイザースラウテルンを奪回した。西方にいたカルクロイトの部隊はライン河沿いの連合軍から孤立した状態になった。連合軍はライン河西岸に僅かな橋頭堡のみを残してマンハイムへ退却。16日にメレンドルフはホーエンローエとカルクロイトに対しヴォルムスへ後退するよう命じた。

 同様にカルノーの増援を得たモロー(Moreaux)のモーゼル軍2万4000人(4万8000人の説もある)は連合軍の最前線となったトリールを攻撃。守備隊のプロイセン兵5000人は8月9日に街を放棄した。アルデンヌからルブリュンの部隊1万1000人に増援されたモローは反撃を受けなかったが、ミショーはヴォージュで9月17日にホーエンローエの奇襲を受けランズトゥールとシュパイアーに後退した。10月7日、サンブル=エ=ミューズ軍のライン河への進軍に合わせてモーゼル軍とライン軍も前進を開始。23日にはモーゼル軍左翼がコブレンツにたどり着き、マルソー師団と接触した。25日にはライン軍主力がマインツ近辺に到着した。

 フランス軍の前進はライン河に到着した時点で止まった。彼らの前には3つの要塞が立ちふさがっていた。モーゼル軍のモローはルクセンブルクを包囲。ライン軍のミショーは10月10日からマンハイムのライン西岸部分を包囲して12月25日に落とした。マインツ周辺ではライン軍とモーゼル軍部隊が入り乱れて連合軍と対峙した。12月1日からクレベールがこの地域にいる部隊の指揮を取った。


――1794年に戻る――

――ホーム戻る――