1794年―ピレネー戦線



・ル=ブーロン

 ピレネー東端ではリカルドが病気になった(彼は3月にマドリッドで死去した)ためデ=ラ=ユニオンがスペイン軍の指揮を取った。フランス軍の方では病気になったドップの代わりにデュゴミエが指揮官となった。彼はトゥーロンから帰ってきた部隊も含めた3万5000人の兵力を擁してペルピニャン南方のティユールから海岸までの線を確保し、3月27日から攻勢作戦を開始。右翼をオージュロー、中央をペリニョン、左翼をソール師団が進んだ。フランス軍はル=ブーロン周辺の山岳部に敷かれたスペイン軍防衛線にたどり着いたところで前進を止め、慎重に攻撃の準備を行った。

 デ=ラ=ユニオンは4月下旬にスペイン軍の指揮を引き受け、フランス軍の側面を攻撃するため部隊をセレへと移動させ始めた。だが、デ=ラ=ユニオンの行動はペリニョンのフランス軍部隊がモンテスキュー前面の無防備な高地に4月29−30日の夜に攻撃を仕掛けたことで妨害された。彼はフランス軍がル=ブーロンを見下ろす2つの要塞を落とすのを防ぐことができず、結局攻撃計画を諦めてピレネーへ後退した。だが5月1日朝、ペリニョンとオージュローのフランス軍がスペイン軍左翼を攻撃し退却中の部隊を散乱させた。ル=ブーロンの戦いにはフランス軍3万人、スペイン軍2万人が参加。損害はフランス軍がほぼゼロだったのに対し、スペイン軍は3500人にも達した。5月4日、スペイン軍はどうにかコリウルとサン=ローランの間に新たな防衛線を敷き、追撃してきたフランス軍の最初の攻撃を失敗に終わらせる。フランス軍はスペイン側防衛拠点の包囲にとりかかり、オージュローは国境を越えてムガ河まで進出した。この間、ダゴベルトは独立部隊を率いてスペイン軍左翼に対し内陸部で攻撃に出ていた。

 スペイン軍は南方に大きく突出したオージュロー師団に対し5月19日に反撃をした。デ=ラ=ユニオンは5個縦隊でオージュローを、2個縦隊でペリニョンを攻撃したが、フランス軍に打ち破られた。このサン=ロレンツォ=デ=ラ=ムガの戦いにはフランス軍1万5000人、スペイン軍5000人が参加した。さらにフランス軍はコリウルを1万4000人の部隊で囲み5月29日に(攻囲の期間は5月2日から26日という説もある)7000人の守備隊からこの港町を奪った。ダゴベルトの後任であるドップは6月18日にカンプロドンでスペイン軍の反撃を受けて退却。一方、スペイン軍のクエスタ麾下の部隊4000人がベルヴァーでフランス軍背後を突こうとした作戦も失敗に終わった。

・サン=マーシャル

 ピレネー西端では2月5日に、カロ麾下のスペイン軍2万人(1万3700人の説もある)が数で勝るフランス軍3万5000人に対しサン=キュロット=キャンプで攻撃をしかけるが、反撃にあって守勢に戻った。この戦いの損害はフランス軍200人強、スペイン軍300人強だった。

 その後しばらくこの地域は静かだったが、7月下旬には戦闘が再開。フランス軍の指揮官ミュラーは7月23日からバスタン峡谷にモンスイの部隊1万人を送り込み、24日からスペイン軍戦線の中央部に向けて攻撃を始めた。海岸部と内陸での陽動攻撃でスペイン軍をくぎ付けにしたうえで、フランス軍は27日には防衛軍をエリゾンドの向こうへ追いやり、ベラへ前進した。新しいスペイン軍指揮官のコロメラはビダソア河の南岸に部隊を後退させイルンとサン=マーシャルの間に前線を作った。だが、ミュラーはすでにモンスイをエリゾンドからイルンへと移動させており、31日にはフレジュヴィユ将軍がスペイン軍主力のいるサン=マーシャルへと前進した。8月1日に3方向から攻撃を受けたサン=マーシャルの守備隊は200門の大砲(300門の説もある)を残して素早くオヤザンへ退却。この戦いにはフランス軍1万2000人、スペイン軍2000人が参加し、フランス軍の損害が600人だったのに対しスペイン軍は大半が捕虜となった。フランス軍は国境を越えて前進し、8月4日には(2日の説もある)サン=セバスチャンを1700人の守備隊から奪った。さらに9日にはトロサを占領。コロメラ麾下のスペイン軍の半数はパンプローナへ下がり、残りはモンドラゴンへ行った。

 フランス軍の攻勢はしばらくやんだが、ミュラーの後任となったモンスイは増援によって6万5000人に増えた部隊を率い10月15日からナヴァラへの南下を始めた。攻撃作戦は当初は成功したが、やがて山の悪天候によってフランス軍の攻勢は弱まり、コロメラは冬の間中パンプローナにしがみついていることができた。

・スペイン領へ

 ピレネー東端ではデ=ラ=ユニオンが、デュゴミエのフランス軍3万5000人によって初夏以来(5月5日以来の説もある)包囲されているベレガルデ解放のため軍を動かした。8月13日、スペイン軍はオージュロー麾下のフランス軍右翼1万人(9000人の説もある)がいるサン=ローランに兵力を集中して攻撃した。1万5000人の部隊(2万人、2万2000人の説もある)による攻撃は正午には混乱したまま撃退された。損害はフランス軍800人に対しスペイン軍1400人だった。また、より海岸に近いところで5000人の部隊により行われた二次的攻撃も同じ状態に陥り、スペイン海軍によるバニョル付近への上陸作戦はフランス軍1個大隊によって跳ね返された。デ=ラ=ユニオンは同日午後には退却。デュゴミエはベレガルデ包囲網を固めるため部隊を街の近くへ集めた。9月17日、2度目の解放作戦を試みたスペイン軍がすぐ近くまでやって来たときにベレガルデの守備隊は降伏。デ=ラ=ユニオンは密かに休戦交渉を始めたが、何の成果も上がらなかった。

 11月17日朝、スペイン軍5万人に対しデュゴミエ将軍のフランス軍3万5000人が攻撃を始めた。フランス軍左翼での二次的攻撃は失敗したものの、オージュローの部隊はスペイン軍左翼をサン=ローランから退却させた。翌日の攻撃も海沿いでは成果が少なかったが、オージュローはスペイン軍左翼を壊走に追い込んだ。スペイン軍は装備の大半を失ってどうにかフィゲレス近くで再集結。だが、フランス軍指揮官のデュゴミエはこの日の朝、黒山の戦いで戦死した。指揮権を継いだペリニョンはフランス軍中央のベレガルデに対する反撃のリスクを負いながらも攻撃継続を決意。フランス軍右翼を強化したうえで20日に三度目の攻撃をしかけた。スペイン軍左翼は再び崩壊し、デ=ラ=ユニオンはフィゲレスから増援を率いてくる途中で戦死した。そしてスペイン軍右翼を攻撃したソール将軍はついにエストレラまで進んだ。1万人を失ったスペイン軍(アマリリャス将軍が指揮)はフィゲレスをフランスの包囲に任せてジロナへ退却。スペイン中心部へ通じる道が開かれた。一連の戦闘におけるフランス軍の損害はペリニョンの主張によると700人(17日からの累計で3000人の説もある)。スペイン軍の生き残りのうち9000人はフィゲレス近くのサン=フェルナンド要塞に残されたが、26日(28日の説もある)に降伏した。さらにローザスの港も11月21日から包囲された。


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