1794年―イタリア戦線



(ナポレオンによる1792―95年のイタリア戦役に関する解説はこちら


・サオルジオ

 イタリア戦線ではオーストリアとナポリの軍勢がフランス軍をニースから追い出す準備を進めていた。1794年春、ピエモンテ軍を含めた連合軍4万5000人がニース北方の山岳に拠点を確保し、イギリス艦隊はジェノヴァへ通じる連絡線を締めつけた。フランス軍指揮官デュマビオン将軍はイタリア方面軍砲兵指揮官であるボナパルトの計画を受け入れて攻勢を実施することにした。その間、デュマ率いるアルプス方面軍はプティ=サン=ベルナール(4月24日)を落としてピエモンテ軍に圧力をかけた。

 激しい雪のため計画実施は何度も延期されたが、4月16日には2万2000人の兵が2つの部隊とボナパルトの指揮する予備部隊に分かれて前進を始めた(4月5日夜から前進を始めたとの説もある)。一方の部隊は海岸に沿ってピエモンテ海賊の拠点であるオネリアへ向かって東進。もう一方はピエモンテ軍主力が集まる西方のサオルジオ周辺に対する牽制攻撃に支援されながら山岳部をオルメアとタナーロ川の線に向かって攻撃した。山岳部への攻撃はマセナの2個旅団に率いられ、オルメアまで大きな抵抗もなく到達した。彼はそこで西方に向きを変え、サオルジオからの退却線を遮断。守備隊は第二陣2万1000人を率いて前進してきたデュマビオンの前で降伏した。24日に行われたこのサオルジオの戦いはフランス軍2万人、連合軍8000人が参加し、損害はフランス軍1500人、連合軍2800人という説もある。

 一方、海岸部を東進した部隊はオネリアを一掃しアルベンガ、ロアーノを占領した。さらにコル=ド=ラルジェンティエール、タンド、サン=ベルナールという重要な峠を確保したうえで5月上旬にフランス軍の攻勢は停止した。5月20日にはアルプス方面軍がモン=スニを奪回し、全サヴォワ地方を制圧した。さらに6月にはイタリア軍とアルプス軍が共同してコル=ド=ラルジェンティエール北方へ進撃する作戦も簡単に成功した。だが、反革命勢力の強い南フランスから軍隊を遠ざけたくない戦争大臣カルノーはこれ以上の攻勢を中止した。

・デゴ

 テルミドール反動後のボナパルトの逮捕(8月6日)などもあり、フランス軍の動きはしばらく止まっていた。ボナパルトが解放されて戦線へ戻ったのは2週間後。フランス軍の活動が停止している間に連合軍はヴァリス将軍のオーストリア軍とイギリス艦隊によるサヴォナへの攻撃を準備をしていた。フランス軍のデュマビオンは守勢に立つようにとの政府の命令を無視し、ジェノヴァとの連絡線を確保するためボナパルトの攻勢計画を採用した。

 フランス軍は9月19日(15日の説もある)からボルミダ河西支流沿いに素早く進み、サヴォナへ向かう連合軍の側面を脅かすと同時にオーストリア軍をその同盟部隊であるピエモンテ軍から切り離した。奇襲を受けたかたちになったオーストリア軍は退路を確保するためデゴ村の線まで下がり、9月21日の退却戦で42門の大砲を失った。デゴの戦闘でマセナのフランス軍1万8000人がオーストリア軍8000人と戦ったが、双方の損害については諸説ある。オーストリア軍は攻勢を諦め、その夜にアクイへと退却していった。危機が去った24日の段階でデュマビオンはボナパルトの計画を中断。ヴァドからオルメアを結ぶ防衛線へ後退して守勢に転じた。11月にシェレールがイタリア方面軍指揮官となった。


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