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長崎フルベッキ研究会(facebookページ)レポート
『G.F.フルベッキ先生の長崎時代』
2016年9月8日 
写真は、Verbeck of Japan; a citizen of no country; a life story of foundation work inaugurated by Guido Fridolin Verbeck
 
 
2016年9月22日
カバー写真「大徳寺跡から新地と出島を望む」は長崎時代のフルベッキが半分以上過ごした大徳寺から明治7年頃上野彦馬が写したといわれるものです。正面上は出島、下は新地、右下キャプションの右は薩摩藩豪商浜崎太平次のヤマキ(山田屋)長崎店です。
 
2016年9月22日
「ギドー・フルベッキ師研究会」(通称「長崎フルベッキ研究会」)は、2010年10月森田正氏発起で長崎市馬町のペンション・バーデンハイムで始まり、現在(社)長崎親善協会内にてほぼ毎週水曜日午後1時から2時間開かれています。
 森田発起人の遺稿が今年3月「近代国家「明治」の養父 G.F.フルベッキ博士の長崎時代」として、長崎外国語大学から刊行されました。
 
 
2016年9月22日
米国オランダ改革派教会宣教師フルベッキGuido Herman Friedolin Verbeck1859年11月8日長崎上陸、ウォルシュ米国領事John G. Walsh紹介で崇福寺広徳院に住む。同院にはこの年5月に聖公会宣教師リギンズ John Liggins、6月には同ウィリアムズChanning M. Williamsが住んでいた。
 
 
フルベッキ市中借家
 長崎市長崎学研究所紀要『長崎学』創刊号2017年3月31日の同研究所主幹赤瀬浩氏の論文「長崎代官支配「小島牢」の成立と展開」を参考に、また同氏に直接指導を仰ぎ、現地調査を踏まえて、市中借家を再々考した結果、高野平郷(現高平町)で在ることが判明した。
 
 「小島牢」論文によると奉行支配の天領長崎の牢屋とは別に代官支配地には自前の牢が必要で、それが小島郷に天保九年1838に完成した「小島牢」で、浦上四番崩れの信徒たちも収監されていたとのことである。長崎代官所轄地で拘束された被疑者を取り調べる臨時的な施設であったとのことから、『日本のフルベッキ』 W.E. グリフィス 村瀬寿代訳編 洋学堂書店に、フルベッキ談として書かれている拷問がおこなわれていたのである。
 
 同書から抜粋すると、「牢獄は筆舌に尽くしがたいほど不潔でした。拷問が常に用いられておりました。私が長崎に滞在していた頃、ある晩、悲愴な叫び声を聞きました。その叫び声を思い出すといまだに憤慨に耐えません。その声は何かと思い、マスケット銃を手にこっそり家を出て、遠くの方を見渡しました。数人の番人が囚人たちをむちで打っていて、その囚人たちが声の主だったのです。当時まだ若かった私は、マスケット銃でその残忍な役人たちを撃とうと、ねらいを定めました。しかし、すんでのところで自分を抑えたのです。」
 
 同様の話が、篠田鉱造著『明治百話』に出ている。
当会森田氏も実話を歴史資料として引用することには無理があり、同著の解説小西四郎氏の「解明する上で、それらの話が重要な手がかりを与えてくれる。」ほどの手がかりに過ぎないと指摘しているが、下記引用文は「Verbeck of Japan」の内容を補完できるると考えて、再々考の一助とする。
 
『明治百話(上)』篠田鉱造 岩波文庫の「外人の見た明治話」の外人は他の 挿話からもフルベッキ自身と考えられるので、「その泣き苦しむ声」を抜粋する。
「殊にその時分の牢屋はひどいものでした、拷問の恐ろしいのが絶えずあります。長崎に居りました時夜中の十二時頃に目を醒ますと、人の怖ろしい泣声が耳に入りました。起きて庭の方へ出て見ますとそれは隣の牢屋で一人の罪人が拷問に会わされていたのでした。その泣き苦しむ声は実に悲しいものです。私は心が痛みまして寝ようとしても寝られません。私の庭は高く、仮牢屋はその下にあり、支那人の家がその隣にあります。燈明がチラチラ見えます。私は寝る時に枕の下におきますピストルを持って眺めました。残念で堪りません。一発打ちたいと思います。打ったら気が晴れるだろうと思います。そこへ人の足音が後の方に聞こえまして、急に私の肩へ手をかけます。ハッと驚いてピストルを向けて振かえり今一呼吸で一発というところで、よく見ましたら私の家内でありました。危険なところでした。」 
 
また『日本のフルベッキ』には、借家の位置を推測するものとして、「十二月五日に丘の麓の新しい家に引っ越した。同僚の二人の宣教師(リギンズとウィリアムズ)は丘の上(中腹)に住んでいる。」「私たちの家は両方とも外国人が住む地域から一マイルほど離れた、町の反対側にあります。それで、じゃまされずに静かに暮らせます。ヨーロッパやアメリカを思い起こさせる唯一のものはここから見える船だけです。」とフルベッキ談を載せている。
 
 1861年11月この市中借家から更に引っ越すことになるが、1862年1月10日付P.ベルツ師宛書簡では、前年九月に湿気が高い住まいのため妻が神経痛になり、米国聖公会宣教医シュミット博士から転居を勧められ、十一月十五日中腹の最初の住まい(広徳院)のすぐ近く(広福庵)に引越したが、生徒らが手伝ったその転宅の距離は短かったと書かれている。
 
 以上の事から外国人居留地(1859−1899)に適当な家がなく、居留地から一マイル(1.6q)ほど離れて日本人と自由に交際することも妨げられず、密集した人口(当時の長崎人口七万人)の中にある適当な大きさの家(家賃16ドル)を借りて引っ越し、十二月二十九日妻マリアを迎えた二階建ての借家はどこにあったのかを推測する。
 
 居留地から一マイルとは、1859年5月湊会所(税関)が活水学院オランダ坂に設置され大浦東山手居留地。同年9月常盤崎から大浦の海岸埋立工事に着手し、翌年第1次外国人居留地工事が完成。1859年12月の居留地は活水の下梅香崎地区(現市民病院辺り)からと考えると、丘の上の崇福寺広徳院は道なり1.5q弱、風頭山麓の移転先は崇福寺から北方の興福地周辺か南の清水寺の先の高野平郷(現高平町)が一マイルあたる。
 
マスケット銃(ピストル)を持って家を抜け出し遠く(近く?)を見下ろすと小島牢(標高約20メートル)のむち打ちの拷問だと分かり、マスケット銃で役人を撃とうとした距離は数メートルから二・三十b だろう。小島牢からこの半径に該当する東小島郷高島秋帆邸下側は正覚寺の高台で港は見えず、対面の高野平郷の標高25メートル以上が鳴川をはさんで在る。
 
 つまり居留地からの距離が一マイルで、風頭山系の麓で港が見え、小島牢を見下ろしピストルで撃てる範囲で、かつ湿気の高いのは鳴川に近く、崇福寺からも三・四百メートルほどの近い所となると高野平郷しか考えられない。
 
写真(1)1859.Nov.7, Nov.8 -koutokuin広徳院 - (2)1859.Dec.5 - near Koshima prison 高平(東小島)界隈-(3)1861.Nov.15 - koufukuan 広福庵--(4)1863.Apr.27- dejima 出島-1863.May13, 1863.May16 - shanghai 上海 - Oct.4 , Oct.13 dejima 出島- (5)1864.Feb.27- koufukuan 広福庵- (6)1864.Jul.28 - daitokuji大徳寺-1869.Mar.23
 
 
2016年9月25日 ·
1860年1月長女誕生も2週間で亡くなる。死ぬ前の安息日にバプテスマ(洗礼・浸礼)を授け「エンマ・ジャポニカ」と名付けました。「早く世を去りて、早く救いにいれられた。」(1860.2.17letter高谷編訳p25)
..we were rejoiced by a dear little daughter,the first Christian infant born in Japan since its reopening to the world. “Verbeck of Japan” Griffis, William Elliot p89 
 稲佐悟真寺国際墓地のオランダ人墓地に眠るEMMA JAPONICA VERBECKの墓は門を入って直ぐ右にある。    (参考「長崎に眠る西洋人」木下孝)
 
 
2016年10月9日 
日本語教師を直ぐに雇うことが出来、しかも教育あるオランダ語も少し分かる人物です。(1860.1.14書簡集p24)
この人物が誰であるか、当会森田氏は「山形弁のオランダ語を話す日本語教師」として本間郡兵衛を挙げているが書簡では確認できていない。(「G.F.フルベッキ博士の長崎時代」(以下長崎書簡集)森田正著)
 古賀十二郎著「徳川時代における英語研究」のリギンズやウィリアムズ等に漢文書籍を提供していたと言われる酒屋町漢方医笠戸順節説が、来日して間もないフルベッキの最初の日本語教師としては有力である。しかしおよそ一年後には南北戦争勃発による経費節減のため、1861年3月にはこの教師を解雇している。(1861.3.16letter高谷編訳p39)その後は英学生を教師としていたが、やはり不便で半年後再契約をしている。( 1961.9.12 書簡集)
 本間郡兵衛はこれ以降の日本語教師であると思うが、彼については改めて考えてみる。
(写真は長崎学の始祖で、なかにし礼「長崎ぶらぶら節」で有名な古賀十二郎碑)
 
 
2016年10月10日 
「現在、四名の生徒が私のところで英語を学んでいます。二人は政府の通訳で他の二人は普通の生徒です。春には 八名の生徒がいました.」(1860.10.16 書簡集p33)
「四人の英学生(その一人は通訳でした)は、三期間、着実に出席していました。最初は約二倍でしたが、一クラスにすることができなかったので四人以外はおことわりしました。うち二人が役所で階級が二つくらい上がったので新しく入学を志願する者が殺到しましたが、これを辞退しました。」(1860.12.31までの年報 書簡集p41)
8名はともかく4名は誰であろうか。奉行所通訳と言うことになると唐通事の何礼之と平井義十郎である。宮田安著「唐通事家系論攷」に、「何礼之(礼之助)は安政四年1857十二月小通事末席、万延元年1860九月21歳小通事助過人となり、平井希昌(義十郎)は万延元年1860九月22歳小通事末席より小通事助過人となる。」とあり、昇進が確認できる。
 
 
2016年10月10日 ·
次に年報の一人の通訳について検証すると、この時点で奉行所通訳で英語通詞は、堀一郎(父達之助は1853年ペリー来航時幕府通詞で我が国最初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を編纂出版、次弟孝之は薩摩藩英国留学生一行通訳)である。「慶応元年明細分限帳」に「英語小通詞末席 人数弐人  慶応元丑年一代限り新規英語小通詞  英語小通詞受用高壱貫五百目  柴田大助
万延元年庚申阿蘭陀稽古通詞当分手代り勤め一代限り英語稽古通詞新規御抱入文久元酉年英語小通詞末席被仰付當丑年迄六年相勤、英語小通詞末席 受用高一貫五百目 堀一郎 丑二十六歳」とあり、時期が合うのは堀一郎しかいない。
 写真は大音寺の阿蘭陀通詞堀家の墓である。残念ながら堀一郎の墓は神戸に有りここにはない。父達之助夫妻や次弟で10歳の頃から五代友厚と親交があり薩摩藩英国留学生の一人となった堀孝之の墓(前田正名による戒名揮毫)がある。
 
 
2016年10月10日 
残り一人に大山巌があがることがあるが、履歴など長崎遊学の裏付けがなく、次なる候補者は福井藩瓜生寅と佐賀藩本野周蔵(盛亨)の二人だが、いずれも三期間出席が合致しない。
 中島一仁著「幕末プロテスタント受洗者の研究(三)」に詳述されているように、佐賀藩家老で久保田邑主村田若狭守政矩(フルベッキから最初の受洗者)の侍医江口梅亭(保定)が有力である。写真は村田家菩提寺で、「江口保定君墓碑銘」の石塔もある大雲寺。
 
 
2016年10月12日
大山巌とフルベッキの接触については、佐波亘著「植村正久と其の時代」1966に、「フルベッキ博士と日本魂」  紫苑 湯谷磋一郎
 一日薩摩青年四名まさに洋行せんとし、忠告を受けんがために(フルベッキ)氏の門をたたきしが、今の大山大将(巌、後の元帥)もその一人なりしとぞ。この時氏は徐に数多の事情を語りし末、尚付言すべく「とにかくどんな面白いことや、おかしいことや、慰むことがあっても、決して決して日本魂を失ってはいけません」(略)
 明治三年普仏戦争視察洋行の時だとすると薩摩藩青年残り三名は誰か。視察団の一員土佐藩林有造の「林翁渡仏日記」に薩摩藩 有馬治兵衛と湯地治右衛門とあるが残り一名は不明ながらも、長岡藩士白峰駿馬も同乗していたことが関係あるかも知れない。
2016年10月15日 ·
 1961.12.31年報の「一ヶ年を通じ七名の英学生がおりまして、その内三名は政府の通訳(何・平井・堀)で、残りのものは、英学研究の目的で他の藩主から派遣されたり、または自発的にやって来た役人又は学生達です。上達した学生には漢文と英文の聖書を与え(略)その中の一人だけが、宗教に関心をもっているらしく、いつも聖書を研究しております。(略)他の藩から別々にやって来た二人の役人が聖書を受け取って、二人ともその藩主に、これを献上したいと申しております。」に該当するのが江口梅亭である。
 
 写真前列中央が江口を長崎に派遣した邑主村田若狭政矩、後列左から二番目が江口梅亭である。この写真に関する解説は村田公の近侍であった永松七郎助の史料集にある。後日永松亨著「永松七郎助史料集」については村田公受洗で取り上げる。
 
 
2016年10月22日
本間郡兵衛その1.
( 1961.9.12 書簡集)「 わたしには常雇の日本語の教師がいないので、不便を感じていましたが、 もっとも教師なしという訳ではなく、私の生徒の一人を用いて教師としていました。」四名の英学生は唐通事二名英語通詞一名残りを江口梅亭としたが、後述書簡「安政5年12月23日(1859.1.26) 御兄様 北曜拝」から、同6年2月長崎海軍伝習所閉鎖後の本間郡兵衛の線も捨てきれない。
 「本間新四郎家文書収録文書目録」(雄松堂書店)の序で、御子孫本間恒輔氏は「安政3年1856に(嘉永元年1849に続き)再度長崎に行き、翌四年には幕府の長崎海軍伝習所で蘭人首席教官カッテンダイケによる航海術指導の通訳を務め、(略)その後長崎奉行の済美館で、宣教師フルベッキから英語と海外事情を学んだ。」と述べている。
 済美館とは長崎奉行の洋学所が慶応元年1865新町に校舎を新築移転し改称したものである。フルベッキが最も信頼に足る日本人は本間郡兵衛であると当会森田氏は「G.F.フルベッキ先生と日本語教師・本間郡兵衛さん」(新書簡集)で指摘しているが、その根拠は、1862年生麦事件以降の攘夷活動からフルベッキ一家が出島(1863.4.27)・上海(1863.5.16)へ一時避難した折、「(キリスト教書籍頒布の)残部配布を私の日本語教師の手にゆだねました。」(1863.5.22書簡集)に合致する本間郡兵衛自筆の「フルヘク先生御留守宅書道具・金銭出入控」のコピーが本間家から森田氏所属の長崎古町教会へ送られてきたからである。本間郡兵衛は1863年には既にフルベッキの日本語教師であり、それ以前からの英学生であることが分かる。
 更には1861年報に「生徒達のことを申しますと、日本では青年だけが向学心を持っているばかりでなく、30歳以上のものも30歳以下の者と同様に持っています。新しい言語を学びたいと言ってきた40歳ばかりの日本人が、日本の産業や進歩について述べていました。」英学生のほとんどが20歳前後のなか、本間郡兵衛は文政5年1822生まれの40歳である。
 本間新四郎家文書(「酒田市史史料編四・七」や「近世の廻漕史料東北編」).の書簡からは、今博多町の漢方医古木順庵借家に住んでいたことも明解で、慶応元年1865薩摩藩へ移るまで約9年間長崎で過ごしたことになる。(但し1862年は文久遣欧使節団で約1年間長崎不在)蘭・英学のみならず葛飾北斎最晩年の弟子でもある本間北曜、薩摩藩開成所英学訓導師(講師)、出資者筆頭に10代浜崎太平次名のある「薩州商社」を石河確太郎と設立提案するなど多彩な才能は書き尽くせない。惜しむらくは明治維新直前故郷で毒殺された、享年47歳) 
 最後に篠田鉱造著「明治百話(上)」を添えておきたい。「外人の見た明治話 − 宗教の話をすると(略)当時私のところへは、佐賀熊本鹿児島の人が一番沢山参りましたが、出羽の本間郡兵衛さんが最もよく来られ、私は本間さんを先生として日本の言葉を研究しました。その人は東北の人なので仮名づかいが、ただは、たえになり、まえはまいになるので困りましたが、よく判る人でした。米国の国体から政治から風俗から、一番早く覚えましたが、私が宗教の話をするとすぐ手を首に当てて、これだから御免、ということが何度もありました。本間さんばかりではなく誰でも宗教の話をすると色を易えて首をまげたです。実に日本の切支丹の禁止は恐ろしいものでした。」 
 写真は文久2年1962遣欧使節団随員の本間郡兵衛はスポンサーとなった外国方用達伊勢屋八兵衛(長崎)の手代重兵衛として参加。 出典:外務省ホームページ
 
2016年10月23日
本間郡兵衛その2.
[「本間新四郎家文書」(酒田市史)よりフルベッキ関連抜粋]
 
安政5年12月23日 (1859年1月26日) 御兄様 北曜拝
(略)私義最早御用済二相成候得共、昨年ヨリエンケレス学相始候得共、爾今精学不仕、依之留崎仕候儀ニ御座候、(略)此度川北ニ而佐藤與之助(政養)と申仁帰国仕候、若御会二茂相成候ハバ私数年世話ニ相成候間宜敷御礼御一声被成下度奉存候、猶又私之事同人ヨリ御聞取被成下度候(略)
この年閉鎖される長崎海軍伝習所の通訳の仕事がなくなり、英語を学習し始めたことが解る。また初代鉄道助となる同伝習生佐藤與之助(政養)が帰郷するので自分のことは彼から聞いて欲しい。
 
[フルベッキ関連の本間郡兵衛宛書簡]下記よりフルベッキと本間郡兵衛がいかに近しかったかが分かる。
 
閏八月二十四日(文久二年1862) (長崎)本間郡兵衛様 (大坂)石河確太郎拝
長崎出立帰阪につき滞崎中の礼状で、ヘルベックメーストルへ呉々宜敷被仰上被成下候様伏御願奉申上候・・・(この時期郡兵衛は文久遣欧使節団随行中だか゛)
 
五月二十八日 本間盟長 侍史    石河確太郎拝
一、フルベック先生益御安康可被為入、爾来打絶御伺も不奉申上乍憚貴君ヨリ可然仰上被成下度奉願上候
 
九月十四日認 北曜大君 尊下    朝迂
一.先境御咄フルヘク先生之家内製作サボン至極能出来候趣懇意之向二而風と咄仕候処其家二おいて誠渇望多年之品何卒其傳を得度旨頻二相頼レ、何卒格別之以思召私御助之為、右伝書御送付被下度偏奉願上候
 
丑(1865)二月二十八日 本間郡兵衛様  清水東谷(写真家)
 (略)且御地フルヘック先生より之御手紙横浜ホール御方へ持参仕候処、薄本一冊御注文被下難有奉存候、将又当節横浜表ハ五年以前与者格外之相違二而只今者大繁盛ニ相成候間いづれ一働キ可仕与奉存候、(略)
 
丑二月二十七日 薩州鹿児島 本間郡兵衛様 尊下 長崎 福井威一郎
(略)大徳寺先生御一統御揃御清康之事御座候御安意可被成候、不相替御深切ニ語学所江御出行御教示之事御座候(略)
 
十一月二十日 本間郡兵衛様  五十川策之助
(略)フルへツキへ被遣候御進物相伺候後御便も無御座無御遠慮可被仰下、英和対訳袖珍辞書(堀達之助)江戸表ニも品切二相成、春二相成候ハバ出来候よし(略)
十二月二十一日  本間郡兵衛様  平野屋策之助
(略)フルへツキへ御送り物之儀、(略)
 
Mr Honma
My dear Friend Honma! I thank you for the present you sent me this morning.
Yours Truly     Verbeek
 
(表書)長崎編笠(今博多)町古木老館ニ而 本間郡兵衛様  佐藤與之助(政養)
(裏書)摂州神戸生田宿勝麟太郎様屋敷より発文久子(1864)二月十三日
(略)君御滞瓊中御勉学定而御上達与御羨敷奉存候、(略)此度先生(勝?舟)御用向二付御目付能勢金之助(能勢大隈守頼之翌年長崎奉行)殿御同行其御地へ御出張、依之塾内十四人斗御供其内悴與一郎も加り居候間若御逢も御座候ハバ(略)猶古木・杏庵両君へも御序宜敷御鳳声奉願上候(略)
写真 勝?舟 出典:Wikimedia Commons 「長崎図」 国立国会図書館蔵
 
元治元年勝?舟は福済寺、フルベッキは大徳寺、本間郡兵衛は今博多町古木順庵借家住まい。
 
 
2016年10月30日 
「ギドー・F・フルベッキ伝」M.N. ワイコフ著(1909年?)辻直人訳(明治学院歴史資料館資料集 第06集)の「明治維新直前の数年の間に、フルベッキ博士は薩摩、長州、土佐やその他多くの藩士の訪問を受け入れました。彼らはかわるがわる長崎を経由してひっきりなしに旅行をし、1868 年に遂に起きた出来事(明治維新)について互いに意見を交し合うのでした。彼ら訪問者の多くは以前に外国人と接触したことのない者たちですが、 中でも小松[帯刀]、 西郷兄弟[隆盛、従通]、副島[種臣]などの者たちは激しい議論の横行する時代において、際立った存在と述べていいと思います。」M.N. ワイコフは1872年アメリカ合衆国から日本に派遣されたアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師である。
 
写真の先輩グリフィスの「Verbeck of Japan」(1900年)にベテラン宣教師が言うにはとの同一文がある。ベテラン宣教師が誰なのかは定かではないが、S.R.ブラウンやJ.C.ヘボンが古参である。
 また「新潮45」2016年9月号で井上篤夫著「フルベッキ先生」正伝には、西郷隆盛が聖書に傾倒していたことに言及している。
 
ベテラン宣教師とは、1872年アメリカ合衆国から日本に派遣されたアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師M.N. ワイコフであることが分かりました。またW.E.グリフィスが引用した英文と訳文に齟齬があることを海外からご指摘くださいましたので訂正しました。
 
 
2016年10月31日 
崇福寺広福庵跡 二棟長屋の中程に当時を偲ぶソテツがある。
 
1月18日男児Charles Henry William Verbeckが生まれました。丈夫で健康です。(略)よいストーブもあるし、気候もやや温暖ですし、米国監督教会のよい医師E.H.シュミットのお世話になっています。(1861.2.6 書簡集p35) 11月に医師のすすめで前より健康な地域に移転しました。(1861年報)(E.H.シュミットについては、園田健二著「幕末の長崎におけるシュミヅトの医療活動」を参照)
標高50メートルの崇福寺広福庵である。「9月に私の妻が神経痛で苦しみはじめ、10月にはさらにひどくなり米国聖公会宣教部シュミット博士から、痛みの原因が私どもの住まいの湿気が高く、特に唯一そのためにはそこしかなかった寝室の湿度が高い事にあることを説明され、もっと健康に良へ転居しなさいと言われるほどになり、私はすぐにほどよい場所に良い住まいを見つけました。最初の住まいのすぐ近くでおよそ200ほど上がったところにあり、やや奥まっていますが、土地の人達も訪問しやすい家です。11月15日に必要なところだけ修理をやってもらい、私どもは新しい場所へ転居しました。そして現在急なしかし美しい丘の中腹に住んでいます。ここは乾燥した敷地に立っており、街路からは離れているため、街路によく起こりがちな不快だったり不健全だったりする影響から十分離れていて良い家です。」(1862.1.10 新書簡集)
 
2016年11月5日 ·
長崎英語伝習所変遷とフルベッキその1.
来日4年半経ってフルベッキ先生が公的機関で教え始める。
 
アメリカ領事ジョンGウォルシュ宛委嘱状、
「語学所英語教授委嘱 貴国士官フェルビーキ儀都合次第江戸町語学所へ出張之上英語教授相願度候間其趣同人江可被申達候委細は掛りより可申談候謹言
元治元年六月十六日 (1864.7.19)                服部長門守花押
しよんじうをるす足下 」『長崎幕末史料大成 1 (各国往復文書編 第1) 』森永種夫 校訂の「亜米利加官吏往復留 第2」
 
「元治元年1864七月二日 昨日より英学所へ教授亜人フルベッキ詰切」何礼之の「公私日録」
 
 英語伝習所開所にあたっては、前年1857に奉行より英語学習希望者を募り志願者は二十九日までに名前を提出するように、手付(役人)部下全員へ洩らさず伝えることとの次のお達しがあった。
英語学習希望者募集           手附江
英語稽古之もの新規増人申付候筈二有之候二十九日迄に向々より名前取揃差出可申候右之趣不洩様支配之もの江申渡候  巳(1857)八月 『長崎幕末史料大成 3 (開国対策編 1) 』手頭留 1-15(弘化2年-慶応2年)
 
 
2016年11月7日 
「私がこの前手紙を差し上げてから、ここにおこった最も記念すべき事柄は10月26日、日本における最初のプロテスタント協会の献堂式でした。英国教会です。居留地のすぐ後ろの高台に達った清楚な会堂です。毎安息日の朝礼拝に参ります。少数の信徒たちが集まっています。監督協会の宣教師ウィリアムズ氏が指揮しています。」 (1862.11.29 書簡集)
C.M.ウィリアムズ宣教師館(左)・英国聖公会会堂(右)跡
フルベッキに先立つ5ヶ月前来崎のアメリカ監督教会(聖公会)宣教師C.M.ウィリアムズ(立教の創立者)によって1862年9月、東山手11番地に建設された英国教会堂。実際に資金提供・運営したのは、英国教会のチャーチ・ソサエティ英国聖公会 宣教協会だったので、1866年3月ウィリアムズが日本を去ると、アメリカ監督教会に代わり英国聖公会となる。
また彼は長崎を去る直前2月、肥後熊本藩士荘村助右衛門(後述)に洗礼を授けた。(日本で二番目の受洗者)
 
 
2016年11月11日 
 長崎警護主藩の佐賀藩主鍋島直正公は、弘化・文久約20年間に長崎を訪ねること40回、自らも西洋文明の数々を見聞し多くの藩士を遊学させ、他藩に先駆け近代化を成し幕末の雄藩とした。(フルベッキに会うこと三回慶応元年五月二十二日米領事フレンチが招待同席、同八月フルベッキ、フレンチ佐賀来遊、明治元年十一月二十日フルベッキを佐賀神野別荘へ招待)
『鍋島直正公傳 第五編』中野禮四郎著 侯爵鍋島家編纂所発行に、
「長崎は我國外交の正門にして、当今西洋の思潮は、その機械と共に混々ここより流入したりしかば、我国将来の変化の此地より生ずべきを看破せられし公は、船艦武器を輸入すると共に、蘭学の素養あるものを(長崎海軍)伝習生として、その軍用使役の術を学ばしめられしが、爾来会所貿易は私貿易と変じ、多年の蘭学亦英学に移りたりしかば今や五六の星霜を経るの間に、新知識の人物輩出するに至れり。而して是等新人物の中にありて、石丸虎五郎は善く英語を操りしが、其他馬渡八郎、本野周蔵等の語學者出でたりしを以て,我藩は幕府の通辯に依らずして直接に英米人と対話するを得,為に私貿易の利には常に優先権を獲得したり。(以下略)」(p486、鍋島直正公 国立国会図書館蔵)
 
 
2016年11月13日 
佐賀藩士長崎遊学とフルベッキその1
佐賀藩士の英学伝習の初めには石丸虎五郎、秀島藤之助、馬渡八郎、中牟田倉之助、小出千之助などが挙げられるが、いずれも長崎海軍伝習生である。伝習所閉鎖となる頃には石丸と秀島は英語を習い始める。万延元年1860遣米使節団の小出千之助はポーハタン号で、秀島藤之助は咸臨丸で渡米、「鍋島直正公傳 第五編」に「(小出千之助)世界の知識は英語によりて誘はるべし、弱小の蘭学のみにては時機に後れざるべからざるを痛感して帰りたり。(略)本年(文久元年1861)二月十一日御年寄丹羽久左衛門より、秀島藤之助、中牟田倉之助、石丸虎五郎の三人を喚び出し.英學稽古を命じたりしを以て.三人は長崎に赴き、通詞三島末太郎に就いて之を學びたりしが、(以下略)」とある。
 
 渡米組の小出千之助は文久三年1863に英語学習のため出崎を命じられ、その後大隈と共に致遠館の拡張を企て、明治元年1868にその学頭となり同年九月落馬事故に遭い死去した。「幕末佐賀藩の対外関係の研究」アンドリア・コビング著 鍋島報效会発行
フルベッキが上阪し、小松帯刀や副島種臣、何礼之等と会うのに同行して帰崎後の事故だった。
 
 もう一人の直正公近侍秀島藤之助は、元治元年1864九月藩購入の蒸気艦(甲子丸)検査のため長崎へ派遣されたが、驟雨大雷に発狂し同宿の精錬方の田中儀右衛門(二代目)を斬殺、爾後廃疾者となり十余年にして没す。「鍋島直正公傳 第五編」
 
2016年11月13日 
佐賀藩士長崎遊学とフルベッキその2
 
年譜「日本電信の祖 石丸安世(虎五郎)」多久島澄子著 慧文社 安政二年1855二十五歳五月長崎海軍伝習生となる (小出千之助、馬渡八郎)
安政六年1859二十六歳四月秀島藤之助と共に三島末太郎(小川町)に就き英語稽古 
万延元年1860二十七歳八月本野周蔵(盛亨)に蘭学から英学へ転換をすすめる
文久二年1862二十九歳三月フルベッキとパーカーに数学を学ぶ
慶応元年1865三十二歳五月二十二日長崎で直正公の通訳をする  八月フルベッキと米領事フレンチを佐賀へ案内する 十月十七日馬渡八郎と広島藩士野村文夫とグラバーの斡旋で密かにイギリスへ出発、慶応四年1868年夏頃帰国
 
年譜「子爵中牟田倉之助傳」 中村孝也著 中牟田武信発行 1919
安政三年1856二十才 春藩命により長崎に赴き海軍伝習所に入る。
安政六年1859二十三歳七月二十三日長崎伝習所卒業帰藩す
文久元年1861二十五歳二月十一日秀島藤之助と共に長崎に赴き英学を修めることを命ぜられ、二十四日長崎着  四月電流丸、七月観光丸で対馬行、十月江戸
文久二年1862二十六歳二月十一日長崎に着す。四月二十九日千歳丸にて高杉晋作・五代才助等と長崎を発し五月六日上海に着く。七月五日上海を発し十五日長崎に着き、帰郷静養
元治元年1864二十八歳六月下旬藩命を奉じ長崎に赴く
 
(文久二年)此滞在中を利用して、子爵の修めたるは英語と数学なりき。石丸(虎五郎)を最良の友とし英語は三島末太郎に就き、数学は米人フルベッキ、英人パーカーに就きたり。子爵が石丸・本野と相携えて崇福寺に抵り、フルベッキに会ひて数学の教導を請へるは二月二十九日の夜なりき。フルベッキ欣然之を諾し十七日には一日、土曜日には午後に来たれといふ。(略)翌五日フルベッキに金一両の陶器を贈る。(略)かくて三月七日初めてフルベッキに就いて学習を開始し、爾来、或いはフルベッキに赴き、或るいはパーカーに赴き、敢て怠ることなし。 (略)(ガランマ英文法に)当惑の余り数学のフルベッキを叩いて英書の教授を請いたることあり。
 
写真は長崎海軍伝習所の閉鎖後は佐賀藩に委託され三重津海軍所で運用された観光丸(復元船)、中牟田倉之助の写真(華族画報社「華族画報」)と西南戦争錦絵「東西英雄競」(国立国会図書館蔵)
 
 
2016年11月19日 
佐賀藩士長崎遊学とフルベッキその3
 
(1862.7.10)「G.F.フルベッキ博士の長崎時代」に「わたしの小さな二つのバイブル・クラスは、励まされながら続いています。」、「日本のフルベッキ」には「二人からなる、わたしの小さなバイブル・クラスはうまい具合に進んでいます。」の原文はMy little Bible class of two goes on encouragingly;とあるので、後者訳が適切だが、バイブル・クラスについては更に、
(1862.8.26書簡集p63)「わたしは日本において三人の着実な聖書の読者について記録します。一人はわたしの家におり、その日本人と関連ある二人はここから八〇マイルばかり離れた肥前の国の首府(佐賀)にいる方々です。」 「二週間前、この三人組の一人が、政府の用務を帯びて当地に来ていくつかの不明の点の説明を求めるため、わたしに会いに来ました。」「この一人は英学修業のため藩主から派遣されて来たので、暫く長崎に住んでいます。昨日の朝、わたしの所に来て、正規の日課とは別にかれのために英訳の聖書を読んで下さらぬかと申したのです。これは彼自身ばかりでなく肥前にいる二人の希望でもあると言うのです。」 
 
 フルベッキ書簡で日本人名が出てくるのは1866年5月20日洗礼の(村田)若狭・綾部(幸煕)と同年6月10日付留学生横井左平太・太平の紹介であり、それ以前は必要なかったのか不都合かあったのか、関連資料などから検証するしかない。
(「1862年の年報」1863.1.24書簡集p66) 「昨年バイブルクラスを設けたことです。四名の聖書研究者がありました。一週間に二,三回、一定の時間に来ており、今もつづいて来ています。その一人は独りでやって来ましたが、これが私の最初の生徒でした。もう一人の生徒はこの春以来出席しておりましたが、ハシカのため隣の藩の彼の家に余儀なく帰り、その後秋になって、他の二人の人を伴って帰って来ました。これらの三人のものは、この港に英学研究の施設があるので藩主から派遣されてきたのです。一週間に二度わたしの所に来て、「ヨハネによる福音書」を読んでおりましたが、なかなかよくできるようになりました。」
 
 その一人とは仏僧のことか後日破邪論争で取りあげてみたい。もう一人の生徒とは佐賀藩久保田領主村田若狭家臣本野盛亨(周蔵)のことと考えられるが、明治になって読売新聞創業者の一人(他は岐阜大垣藩士子安峻と肥前長崎出身柴田昌吉)で、二代目社長となる。また秋に藩主派遣(sent here by their Prince鍋島直大)の英学生は綾部幸煕(三左衛門)と嶋内伍吉郎である。「幕末期プロテスタント受洗者の研究 − 佐賀藩士綾部幸煕の事例にみる−」中島一仁は、もう一人の生徒は本野盛亨(周蔵)で、秋の他の二人は綾部幸煕(三左衛門)と不明としている。ただ本野亨著「苦学時代の本野盛亨翁」では、文久三年の履歴になり、一年の齟齬が生じる。(もう一人)江口梅亭−(他の二人)本野盛亨・綾部幸煕も考えられ、この三通の書簡のバイブル・クラスは再検証の余地がある。
 
 佐賀藩本野周蔵(盛亨)は本野亨著「苦学時代の本野盛亨翁」の略伝に 安政四年1857緒方洪庵の適塾入門して3年後「万延元年1860(25歳)帰国の上同藩本野権太夫の養嫡子となり同年長崎に到り英人フレッチェル、米人フルベッキ等に就き英書を習い」とあるが、大阪適塾から一時帰郷した折り八月か九月下旬にかけて長崎を訪ね石丸・中牟田等の藩命遊学者達と会い英学を志すものの、実際は翌文久元年1861二月に再訪し、彼らの外国人教師とは違いまずは阿蘭陀通詞三島末太郎に就いて習う。そして翌年春フルベッキの生徒になる。
 
 
2016年11月20日
 佐賀藩英学生の多くがフルベッキ以前に師事した通詞三島末太郎は、編集発行人長崎歴史文化協会越中哲也「慶応元年明細分限帳」に、「阿蘭陀通詞小通詞助勤方 受用高弐貫七百目 三嶋末太郎  丑三十五歳 享保十巳年先祖より八代當丑年迄百四十一年相勤末太郎儀天保十三年丑年稽古通詞嘉永六丑年小通詞末席文久元酉年小通詞兼勤方同三亥小通詞助勤方被仰付當丑年迄二十五年相勤」、
 また長崎県立図書館編集・発行「オランダ通詞会所記録安政二年萬記帳」には、「小通詞末席」「天保二年1831生三嶋家八代目天保十二年1841稽古通詞嘉永六年1853小通詞末席文久元年1861小通詞並勤方文久三年1861小通詞助勤方」とある。
 
 森永種夫校訂「長崎幕末史料大成1・2 亜米利加官吏往復」等には、次のように記されている。
(本文略)
長崎奉行尊下       合衆国コンシュル ジョンジウヲルス
右文意和解仕候以上              (訳)三島末太郎
 千八百五十九年七月十九日から千八百六十七年二月一日までの四十数通の三島末太郎の翻訳文がある。
 
「長崎県人物伝」に「明治維新後大阪造幣寮に出仕し盡粋する処多し、大阪にて没す」とあり、また長崎歴史文化博物館には「三島末太郎海軍御用に付兵庫軍務官に出頭の命令」の史料がある。
 
 幕府は1858年七月にオランダ商館員デ・フォーゲル及び海軍伝習所の第二次教官団のウィヘルス、イギリス人ラクラン・フレッチャーらの教師によって長崎英語伝習所を設立した。 三島末太郎の英語学習は、1858年9月11日から10月30日迄(日曜を除)、長崎奉行の依頼により長崎ロシア交易場(立山奉行所)の2階の和室(岩原屋敷内英語伝習所)で8名の阿蘭陀通詞と共に米艦ボーハタン号(万延元年1860遣米使節団船、咸臨丸同航)のヘンリー・ウッド牧師からだった。(「1858年長崎におけるヘンリー・ウッドの英語教育」 石原千里)
 同牧師は、1859年上海でフルベッキに日本語習得も冬期居住も都合の良い長崎行きを勧め、長崎の役人や外人居住者にあてた紹介状を数通書いてくれた。(1860.1.14書簡集p20)
2016年11月26日
「フルベッキ書簡集」p43「1860年報」 歴史に関する書と宗教教義に関する書二冊を都に近い大阪から来た二人の武士(原文men)に与えました。
p60「1861年報」 漢文テキスト付のルカ伝をわたしの生徒に渡しました。彼は立派な学者であると推挙する友人と一緒に写し直したいというのです。(略)九月になって、わたしは失望指揮した。その生徒が故郷の大阪に帰って手紙をよこしたのです。聖書は違法なので翻訳は中止しました。後日お会いして申し上げます。
p69「1862年報」ある一人の医師が聖書を返却してきた。
 
 当時の大阪出身の長崎遊学者を調べてみると、緒方洪庵の次男緒方惟準(1843-1909)が16才の時来崎しポンペとボードウィンに西洋医学を5年間(1858-1863)習い、更には1864年再訪している。
 
 「緒方惟準翁小伝」ドーデー女史 編によると最晩年プロテスタント天満教会の牧師により受洗している。緒方翁の求道の志はすでに長き以前に始まって居ったことが解ると記しているが、これ以上の追究の資料を目にしていない。
 
 『緒方惟準伝』 中山沃著 思文閣出版 2012.3 などを大阪府立図書館に確認したところ、「「ポンぺ、ボードイン、マンスフェルトに師事し、医学はもちろん、オランダ語にも精通してきた惟準(洪哉)は幕府から選ばれて、松本_太郎(順の息子)ともに、オランダに留学することになる。」(p.56)とありますが、フルベッキに関する記述を見つけることはできませんでした。」などの回答でした。
 
 写真は「小島養生所と長崎市街地(2)」F.ベアト 1865年頃「万延元年(1860)5月、小島郷佐古に病院を建て、民衆の治療に当たらせた。これが小島養生所である。」長崎大学附属図書館所蔵
 
 
 
2016年11月27日 
荘村助右衛門(省三)1820−1904.4.20
(1864.9.17書簡集p95)「藩主の乗っている汽船が一週間ほど湾内に停泊していました。わたしは肥後藩の汽船ということも藩主がここにいたことも知らなかったのですが、その船が出帆二日前に、ちょうど今から三年前に私の所から漢訳の新約聖書を借りていった肥後の人がわたしに会いに来て、藩主の高官が是非私に面会したいと言ったのです。その役人が来て言うには、藩主ために一艘の汽船を購入する助言をしてほしいと(以下略)」
 
 肥後国熊本藩第11代藩主細川慶順、肥後藩が初めて購入した蒸気船「万里丸」(木製内輪式120馬力原名「コスモポライト」長さ222尺・荷積高600トン・三檣バーク・煙出し一本・一時七里行き、1859年フランス製、元治元年1864九月長崎でグラバーより十二万五千ドルで購入、備筒四挺)
 
(1861.9.12書簡集p55)以前数回私を訪ねたことのある紳士が別れを告げに来ました。彼は翌日100マイル以上も離れた自分の国(熊本藩か)に帰るので、この人は喜んで、聖書新約聖書1冊とハンダースばかりの小冊子を受け取りこれらの書物を故郷の友人に読ませると約束しました。
 
(1868.8.17書簡集p128) (肥後熊本藩米留学生横井左平太太平兄弟の委託金致遠について)このことを一切わたしに話した肥後藩の役人は横井もよく知っている人で庄(荘)村という人です。彼はクリスチャンで、そのクリスチャンネームはコルネリウスといい、以前この港にいた監督協会派のウィリアムズ監督が三年前、ひそかにバプテスマを授けたのです。
 
 上記書簡と下記史料から、文久元年1961頃からフルベッキと接触していたのは、肥後熊本藩探索者(池部啓太・横井小楠門下生)の荘村助右衛門(省三)であると推考する。
 
(肥後藩国事史料巻六)
 六月十一日在長崎荘村助右衛門英国公使パークスの行動に関する フルベッキの談話 を奉行道家角左衛門に報告す
慶応二年1866正月探索書扣
(略)昨夜フルベッキより内話極密承取候段右二奉録上候
去る七日大軍艦薩州へ出船之期日アトミラール、ミニストルの両人より布累別幾(以下フルベッキ)へ書状を遣申越猿候趣者同人ハ日本へ年久敷罷在多分二日本士人江も相交り候事故当時之形勢二付承居候次第も可有之諸事承度との旨趣申越候由 フルベッキより返答致候趣者存寄之次第有之永々と事情相認直二英国女王殿下へ呈書相含候得共今暫時形勢観察之上と存差控居申候素時情見見聞之次第有之候間此方へ罷越し承候様返答二及候由同八日ミニストル、アトミラ−ル并領事館承候間フルベッキ演舌之大概左之通(略)
六月十一日                        
                       荘村助右衛門
道家角左衛門様
 
(肥後藩国事史料巻二)
文久元年1861 七月二十四日本藩池部啓太荘村助右衛門兼坂熊四郎及び小野敬蔵等に蘭人につきて砲術研究の為長崎出張を命ず
 
三原藩砲術家 板原嘉久次郎より池部啓太への来状に、
(新型大砲の性能詳細について)右之通「アメリカ」人「エルベック」より承処記也
 
「新熊本市史 通史編第5巻 近代 I 」
1855海軍伝習所 勝海舟の「海軍歴史」による熊本藩五人の伝習生は池部啓太・小佐井才八・奥山静寂・荘林吉太郎・荘村助右衛門である・・・
文久元年1861五月頃以降に、「別段練習」という名称での海軍練習(オランダ人一等士官コルネーリスセンによる)が長崎で行われている。・・・肥後藩からも池部啓太・荘村助右衛門・兼坂熊四郎・小野敬蔵らが七月伝習を命ぜられ実現した。
 
(参考文献)「ジョセフ=ヒコ」近藤晴嘉著 吉川弘文館
元治元年1864ジョセフ=ヒコ(アメリカ彦蔵・濱田彦藏)発行の「海外新聞」の定期購読者二名のうちの一人
慶応2年1866二月 聖公会C.M.ウィリアムズより長崎で受洗(日本で2番目) 
明治四年1871後藤新平15歳は太政官少史荘村省三の書生人となる。
 
写真「大黒町および出島と長崎港口」の右下隅が大黒町(長崎駅前)で、熊本藩蔵屋敷があった。
 
 
2016年12月1日 
僧侶(Buddhist priest)とフルベッキ その1
 フルベッキのバイブルクラスの最初の生徒を推察する時、 前回荘村助右衛門を取りあげた根拠は書簡集p55の長崎から100マイル離れた所・熊本出身者であったが、該当するもう一人に山鹿出身の僧侶が考えられる。また「1861年の年報」の「聖書や宗教上の小冊子を友人にやりたいからと言ってきた仏教の僧侶に与えました。」(書簡集p60)と関連するかも知れない。独りでやって来た生徒は1862年には、「創世記」をほとんど読み終わり、「ヨハネによる福音書」をかなりよく読んでいる。
 
 当会森田氏は「G.F.フルベッキ博士の長崎時代」p32の「日本の開国・その2 長崎のフルベッキ宣教師 6)フルベッキ師と仏教界の破邪、闘邪の動き」で「維新政治宗教史研究 徳重浅吉著・歴史図書発行」と「明治期キリスト教の研究 杉井六郎著・同朋舎出版発行」をもとにフルベッキと仏僧の関係について詳述している。 該当しそうな浄土真宗仏僧が二人、肥後国山鹿出身の原口針水(熊本光照寺)とその弟子良厳(福井唯宝寺)である。(破邪・闘邪とは他宗を邪教として打破すること)
 
 西本願寺の記録によれば一八六二年には老僧・原口針水などが長崎で探索していたが、改めて「破邪顕正御用掛」が発令され、フルベッキ師に長年師事した僧良厳の得た探索の内容が「崎陽茶話」と題して読まれるようになり反響が広がる。
 
この件については、今回初めて森田正・葛西宏直両氏により翻訳されたニューヨークJ.M.フェリス先生宛のフルベッキ書簡(1868.7.18)に詳述されているので抜粋する。
「親愛なる兄弟  この手紙に別の表紙をつけて、キリスト信仰に反論する面白い日本の小冊子(崎陽茶話)を貴下宛にお送り致します。」「私が以前、あなたに差し上げた手紙で、私の聖書研究会の中に2人、あるいは3人、あるいは4人の僧侶が居ると申し上げたことがあります。人数は時によって変わるのですが、それらの首領に歳のいった男で、こちらでは日本的な哲学思想の先生として尊敬されている者(原口針水)がいます。」「首領は、時たま二週間ほども居なくなったり、現れたりします。それ以外は旅に出たり京都の近くに住んだりしています。彼は若い弟子(良厳他)に、私に特別に気をつけるようにと言っています。」「 彼らが私の所へ恐れずにやって来て、他者の前でも禁じられた宗教について質問し、あたかも、そのように質問する許可証でも貰っているかのように見えたことです。そして彼らの質問は、震えている投獄人のそれとはあまりにも相違しており、しばしば、異なる宗派の番号や名前、異教国のいろいろの機関の多数の宣教師達に言及し、旧約聖書や新約聖書について徹底的に勉強しており、これらに関する難しいが基本的とは言えない箇所に言及(以下略)
「この小冊子に示されている氏名、数等々のような事柄を知っている僧侶は、日本国内では私の教室で大量のメモを取ったこの僧侶(良厳)の他にはいません。」「 彼らは中国語版の聖書とキリスト教書籍及び小冊子を箱一杯、事実数百冊購入し、これらすべてを、彼らが言うには、彼らの学生に教えるためであるというのです。」「この小冊子を全てキリスト教的原知識と対比してみると、真理がなんと大胆にかつ邪悪に曲解されているかが分かると思います。」「プロテスタントについて作者は、会ったことがあるのは私のみであるため、私に関することだけしか述べておらず、彼は私がローマカトリックの非常に多くの神父や改宗者たちよりも国家に対してはもっと危険で有害であると考えていることをいみじくも述べています。私が日本の社会で、彼らには全く手の届かない上級の階層、支配階級から手を付け始めたため、彼らは見下され始めたという事実があります。」
 
 更に次の書簡(1868.8.17高谷道男編訳「フルベッキ書簡集」p131)では、「キリスト教猛反対の論文「破邪物」のコピーをこの前に送っておきましたが、そのうちに受け取られることと思います。これは私の教えを受けた仏教の僧侶の一人(良厳)が書いたものです。」「私から去って行きましたが、再び友人として会いたくないし、いわんや信者としては交際しません。多くの点で気持ちの良い性質の持ち主だから、このようにして彼を失うのは残念と思います。」と当惑と失望を覚えながらも、日本の多くの分野に積極的なキリスト信者を世話する面倒をみることは価値あることであると希望をもって伝えています。
写真は「維新政治宗教史研究」徳重浅吉著 目黒書店 1935
 
 
2016年12月2日 
僧侶(Buddhist priest)とフルベッキ その2
 前回末尾の“希望”についての例が、同書簡の「前述のうめ合わせとして最近も一人の仏僧の例をお知らせします。この僧は主なる神に従う目的をもって仏僧としての職と資格と利得とを放棄しました。そのために迫害の手が回っているのを感じたので、昨日私に暇をとってしばらく孤島の友人と暮らすことになりました。」の人物、肥後熊本藩一向宗僧侶清水宮内(一道)である。
 
 (新書間集p36)「7)仏僧・清水宮内の受洗と受難」では、「幕末明治耶蘇教史研究 小澤三郎著 日本基督教団出版局」から引用しながら、清水がフルベッキの日本語教師であったこと(慶応元年離崎の本間郡兵衛の後任か)、フルベッキより聖書をもらい、キリスト教を伝えられ、明治元年1868夏にフルベッキから受洗したことなどをあげている。明治二年春フルベッキ上京後、清水は逮捕され五(三?)年余の獄中生活を送るが、英国聖公会最初の宣教師ジョージ・エンソル(George Ensor 1842ー 1911)やフルベッキの新政府への抗議や尽力により釈放され、1883年当時東京麹町教会の一員であった。 
 
 “ In the summer of 1868 he baptized a young Buddhist priest, Shimidzu. This man was cast into prison for his faith soon after Mr.Verbeck was called away from Nagasaki in 1869, and endured much suffering in various prisons during five years. He was finally released and is now a member of the Koji-machi Church in Tokiyo. ”
.Proceeding of th General Conference of the Protestant Missionaries of Japan 1883
 
 
2016年12月3日 
(1863.2.21 新書簡集p142)
(今月4日)私共に愛すべきもう一人の子供をお恵み下さいましたが、私共はこの子を、先になくなった私共の長女の名にちなんで、エンマ ジャポニカと呼ぶことにしようと考えております。主が彼女を恵み、生命を永らえることを得させてくださいますように! 私共の小さな男の子の方は、今、2歳を少し過ぎたところですが、背が伸び、しっかりしてきました。彼は英語を話すのと同じように日本語も話します。尤も、日本語の方がちょっと巧いかも、といったところです。(当時崇福寺広福庵在住、家賃月18ドル)
写真は、「フルベッキ群像写真」 (Wikimedia Commons)部分 エンマ6歳弱、フルベッキ38歳(年令は、「古写真こぼれ話」高橋信一著 渡辺出版 の撮影日を参考)
 
 
2016年12月4日 
出島
生麦事件(1862年9月14日)後の事故処理交渉のもつれや攘夷運動が高まる中、薩英戦争(1863年8月15日)前の不穏な情勢に、出島・上海へと避難します。
 
 (1863.4.28 書簡集)「日本長崎出島ケンペルKaempfer邸 上記の通り、わたしたち家族一同は歴史的な場所に移動しています。それは日本歴史の学者ケンペル博士の邸です。しかしこれは正直な老ケンペルの住んでいた歴史的な家でも部屋でもありません。でも私の窓から博士の名と博士と同じほど有名なツンベルグThunbergの名とが庭園の小さい岩に取り付けられているのが見えます。わたしたちの現在の住居はかつてケンペルの家のあった場所のすぐ近くに立っていることを示す訳です。」
 
 出島には1863年4月27日から5月13日までと上海帰りの同年10月13日から翌年 2月27日崇福寺広福庵へ戻るまでの計5ヶ月間過ごします。現在ミニチュア出島のある所にあった商館長別荘には前年まで医学伝習所(養生所・精得館)教授オランダ軍医ポンペが滞在(長崎1857-1862)していた。フルベッキはその一戸建てを家賃40ドル(市中借家16ドルの2.5倍)で借りることにし、日本語教師や以前の生徒達ともほぼ毎日会っていた。
 
 写真は出島「長崎諸御役場絵図」国立国会図書館蔵、青色四角形が商館長別荘、赤円形辺が1926年シーボルトが両商館医顕彰のため建立した「ケンペル・ツンベルグ碑」のあった所。
 
2016年12月8日
フルベッキ最初の英学生四人(10月10日付けページ)で名前だけ挙げていた瓜生寅について、 若越郷土研究山下英一著「瓜生寅の英学」の自筆履歴抜書から滞崎計3年余りを抜粋するが、瓜生自歴には年月の齟齬がある。
 
萬延元年庚申1860(18歳)五月京ヲ発シ長崎ニ向フ七月長崎着  
文久元年辛酉1861米人ウィルリヤス及びフルベッキ両氏に就き英学を攻む 同年五月魯艦対州を覬ふや小杉右藤次に随ひ(対馬)黒瀬浦に赴く 
同二年1862風帆船君澤形を江戸に廻航す 同年(?)九月幕府初めて学校を長崎江戸町に開く擇して教授となる 
同三年1863(?)二月私塾(培社 前島密と1864.9)を開く藝薩二筑の藩侯より生徒数名を托せらる 同年十月帰省十一月弟雷吉を携へ出郷十二月二十四日長崎着 (参考:何礼之「公私日録三」元治元年十月二十一日瓜生雷吉引取)
元治元年1864十二月二十日左近衛権少将兼越前守松平茂昭公豊前小倉に召して原籍に復し士席に列せらる 
慶応元年1865八月帰省十月再び長崎に出つ
同二年二月英公使に従ひ英軍艦にて横浜に入る幕吏の疑ふ所となる三月長崎に帰る同年四月帰国の命あり
 
 
2016年12月8日
本邦近代印刷術とフルベッキ
「先週「長崎船舶名簿と案内」(日本初の英字新聞“The Nagasaki Shipping List and Advertiser” は長崎大学附属図書館ウェブページから閲覧可能 http://gallery.lb.nagasaki-u.ac.jp/nsla/ )の第一号が発行されました。週二回刊行の由です。興味ある問題があるかと思って、一部送ります。英人ハンサード氏がかなり上手に編集していると思います。ハンサード氏の印刷所以外に、長崎には、二種類の外国人の印刷所があります。一つは出島で主としてシーボルト博士の手になり、他は長崎奉行の屋敷で、日本人の手で行われており、ほとんど用をなしません。」(1861.6.28書簡集p53)
 
 1863年5月16日から10月4日まで滞在の上海からの書簡で、「ところで長老派宣教師団の印刷を受け持っているガンブル氏は、今何種類かの日本語の活字を造りつつあり、私は同氏からの要請でこれらの手伝いをしていますが、私は十分な支援をすることができると確信しています。将来この活字は我々にとって絶大な価値を発揮することになります。」(新書間集1863.5.22上海 p145)
 
 また「日本のフルベッキ」W.E.グリフィス著村瀬寿代編訳に、「フルベッキ氏にとっては日本の書物を出版する技術を学ぶという、大きな利点を得る結果となった。ある意味において、彼はガンブル氏(William Gamble)とともに日本に初めて印刷機を紹介した人物であったと言えるであろう。」
 
 これらの書簡から、我が国の近代印刷術にフルベッキが関係していることが読み取れるが、本邦近代活版印刷術の祖と言えば、長崎の蘭通詞出身本木昌造翁である。同翁とガンブル、フルベッキとの関係については、別稿で取りあげる。
 
同 5月22日付書簡の最後に、「(上海へ)移動する直前に中国版のキリスト教書籍の箱を受け取りました。これらの書籍には熱心な需要があるのです。私の長崎滞在の終わりの2日間に200冊以上を頒布し、残りの頒布を私の先生に依頼しました。」とある。この頃のフルベッキの日本語の先生が本間郡兵衛であることを裏付ける酒田本間家の史料が保存されていることを知り、そのコピーを手にした当会森田氏は「G.F.フルベッキ先生と日本語教師・本間郡兵衛さん」で、聊か興奮気味に何時の日か同題の詳述リポートを書きたいと述べていた。
 
 
2016年12月9日 
高杉晋作とフルベッキ
 フルベッキの上海行きの前年、文久二年1862正月高杉晋作は江戸から長崎へ向かい、四月二十九日上海へ出発する迄の間に、崇福寺在住宣教師ウィリアムズとフルベッキを訪ね、アメリカ南北戦争や中国の太平天国の乱などについて対談して、フルベッキの日本語学習にキリスト教布教のためと警戒している。
 
 「長崎崇福寺と申す寺内に米利堅耶蘇教師二人来居日本語を学ぶ。予一日之を訪ふ。曰くムリヤムス、一名曰くムリヘッキ、七年(?三年)前より日本に来たると言ふ。能く日本語を解す。言語頗る通ず。その話に言ふ。 米利堅合衆国南北と分れ、未だ勝敗決せず。吾等は南方に属すと云。支那もまた然り。此節テイヒン(太平)の賊紛起す。只今は支那も米利堅も外国との戦更に罷む。然るに只内乱起耳と。(略) 談闌るに随ひ、彼れ頻りに耶蘇聖教のことを語る。予聞くを欲せず。因りて去る。予彼二人日本語を学ばんと欲する、何とも怪し、其心中推し謀るに耶蘇教を日本へ推し広めんことを欲するならん。要路の人実に務防有り度きことなり。」「遊清語録 長崎淹留雑録」
 
 なお「内情探索録」では、外国貿易探索のため幕府が派遣した千歳丸に同乗した二人について言及している。水夫に偽装して乗船した薩摩藩士五代友厚からは蒸気船購入や上海交易のメリットを聞き、徐々に意気投合している。また佐賀藩士中牟田倉之助は航海術を心得て且つ少々英語も出来上海航路について調査しているが、佐賀薩摩とも海上交易に着手しつつあると述べている。高杉晋作は上海ではこの二人とよく行動を共にしている。
 
 
2016年12月10日
フルベッキが長崎時代後半を過ごす所は、正に長崎随一の名勝の地「大徳寺」である。(参照「大徳寺跡から新地と出島を望む」カバー写真)
 
(1864.8.22新書簡集p156)「過去3−4週間は私どもにとってかなり忙しい週でした。と言いますのは、この時期に私どもは住まいを新しい場所へ移転し、当地にある幕府系学校(語学所)の校長と教師の責任を引き受けることとなったのです。私どもの住まいについては、学校としても、また戦時体制や間借りの人のあるいざという場合にも、港や外国人居留地に、実際できるだけ近いところが望ましいと考えられます。私は7月半ば頃住まいの下見を始め、上記の条件を満たす物件を一つ見つけました。そして7月28日に引っ越しました。私どもの今度の家も、ある寺院(西小島大徳寺)の離れで、現地の街の側面に在り、外国人居留地にも近いのです。それ以外の面では、私どものこれまでの住まいと非常によく似ており、言い換えれば、街を囲んだ丘の縁の端に在り、下の街路からは約100フィートほど上がったところにあって、現地の人たちとの行き来も容易なところです。家賃は、以前の住まい(鍛冶屋町崇福寺広福庵)と大体同額で、月17ドルです。住めるようにするためには実にたくさんのことをやらねばなりませんが、前の家の修理材が使えますので費用は大分節約できます。」
 
長崎奉行への住居移転申請の史料、
『長崎幕末史料大成 1 (各国往復文書編 第1) 』森永種夫 校訂 長崎文献社 1969
亜米利加官吏往復留 第2 元治元年六月二十五日(1864.7.28)
居住免許状下付願
長崎運上所監督
貴君
一鎮台閣下より免許相成候拙者大徳寺江転宅致し侯免許状何方江有之侯哉拙者江告知可被下候
一拙者今日転宅致し度右免許状之ため相待居申候
亜人 ウェルベッキ
六月二十五日                         訳  蔡  慎吾 
一覧 穎川 熊三郎
 
長崎史談会編「長崎名勝図絵」に「青龍山大徳寺慈眼院は正覺寺の西十善寺邑にあり真言宗にして江戸護持院の末寺なり境内千三百七拾餘坪あり(略)寺地もとより靜?(郭)の佳境にして庭内に泉水築山あり後産り庭に至り諸樹高く秀で潔く最も櫻樹多し神木とす弥生の頃に至りて来り遊ぶ者絶えず左は唐館に接してこれに臨めば漢土に入るが如く右には新地出島の奇勝あり瓊江は絵に環りて宛も泉水のごとく向ふに群山高く聳えて屏を立てるがごとく晨夕の供景一に非ず邑人羇客一たび此に至れば彷徨して還る事を忘れしむ実に鎭冶第一の壮観諸刹中の絶勝なり」
 
写真(上)「大徳寺の送別会(1)」長崎大学附属図書館蔵は大徳寺での精得館(養生所)医学生の集合写真  写真(下)「長崎名勝図絵」長崎史談会編 長崎県立図書館蔵で天満神社左の建物群が大徳寺庫裏でフルベッキ居住。
 
 
2016年12月11日
11月26日投稿記事の再考
我が国缶詰製造のパイオニア松田雅典の遺品にあった「英学生入門點名簿」(長崎歴史文化博物館蔵)の末頁に、慶應元乙丑年以前として「大坂 緒方四郎」があったのを見落としていた。フルベッキの1961年報に出てくる大阪出身の生徒を緒方惟準ではと推察していたが、惟準の次弟四郎(惟孝)の方が有力と考え調べ直してみると、
「適塾36 適塾記念会発行」の村田忠一著「幕末長崎のプロテスタント宣教師と宣教医−緒方四郎の英学教師をさぐる」に、文久元年1861四月に長崎遊学して一年余り滞在、フルベッキや適塾生であった佐賀藩本野周蔵(盛亨)らとの関わりが深いことが論述されている。
 
 緒方洪庵1810−1863、緒方惟準(洪庵の次男)1843−1909、緒方惟孝(同三男)1844−1905
 写真は開拓使立函館学校ロシア語科の御用掛緒方惟孝が教材用に著した「魯語箋」明治六年刊
「古写真研究こぼれ話」高橋信一著 渡辺出版によると、前回掲載写真「大徳寺の送別会(1)」の中央で扇子を開いている人物が、精得館(養生所)医学生大阪出身緒方惟準とのことである。
 
2016年12月14日 
上海から帰ると、フルベッキが1860年に教えていた二人の生徒(何礼之と平井義十郎)が二度昇進していた。彼らは、外国人が豚を好むとの考えから、感謝の印に二匹の幼い黒豚をフルベッキへプレゼントした。
 
長崎奉行(服部長門守)は青年達の上達に喜び、幕府に対して外国語や西洋科学の学校を設立しフルベッキを校長に就けるよう提案した。 “Verbeck of Japan” Griffis, William Elliot p123 1863年10月帰崎から4ヶ月余り出島に住む。その南区域には牛・豚小屋があった。(旧出島神学校辺り)
二度の昇進とは、万延元年1860九月小通事助過人→文久元年1861十一月小通事助→文久三年1864七月長崎奉行所支配定役格(英語稽古所学頭)
 
 
2016年12月18日
幕府語学所フルベッキ先生
当会森田氏は「フルベッキ師、幕府・洋学所の教師となる」で、奉行所との事務処理に尽力したアメリカ領事ジョン・G・ウォルシュの国籍喪失者フルベッキに対する格別の配慮によるものであり、師は上級クラスを受け持ち、初級クラスは何禮之助が担当した。また報酬1200ドルは、武士の知行2000石以上の高額であり、「自給の宣教師」と言われるようになったと述べている。
 
語学所英語教授委嘱
貴国士官フェルビーキ儀都合次第江戸町語学所へ出張之上英語教授相願度候間其趣同人江可被申達候委細は掛りより可申談候謹言
    元治元年六月十六日 (1864.7.19)    服部長門守花押
『長崎幕末史料大成 1 (各国往復文書編 第1) 』森永種夫 校訂 長崎文献社 1969亜米利加官吏往復留 第2
 
(1864.8.22新書間集p156)
その後、私は米国領事と一緒に長崎奉行に面会し、ある申し合わせに立ち至り、これに従って、私は今月2日からこの学校で1日2時間毎朝9時から11時まで、土曜と日曜を除く週5日教え始めました。条件として、私は年間1200ドル相当の報酬額を全額自由にドル交換できるよう要求しました。これに対して長崎奉行は江戸に聞かなければ承認できないとのことでしたが、まもなくその回答があることを期待しています。
 
長崎県立長崎図書館郷土史料叢書四『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿』V 長崎県立図書館郷土史課編集・発行の「西洋人の名前アルファベット表記一覧」によると、フルベッキの名前は、 [Guido F. Verbeck]チーエフウェルベッキ、チーヱフプホルピック、ホルベッキ、[Guido Verbeck]プホルピック、フルヘツキ、フルベック、フルベック、フヱルベーキ (写真は大徳寺の木碑)
 
明治元年(宇十二月二十六日)佐賀藩伊東次兵衛日記に、フルベッキを教師として雇い入れ隔日出勤、給金1ヶ年につき洋銀4500トルラルを奉行所2400トルラル佐賀藩2100トルラルと約定しています。トルラル=ドル
なお大学南校教頭のフルベッキの月給は600円、岩倉具視と同額、大久保利通は500円だったそうです。
 
2016年12月23日 
 フルベッキ高弟と言えば、長崎唐通事出身の何礼之(礼之助)(1840-1923)と平井希昌(義十郎)(1839-1896)である。何礼之(礼之助)については、大久保利謙「幕末維新の洋学」の「幕末英学史上における何礼之」と許海華「幕末明治期における長崎唐通事の史的研究」の「明治期における何礼之の洋学推進」の論考がある。
 
 何礼之(礼之助)は岩倉使節団に一等書記官として随行、その後翻訳事務に携わり、元老院議官・勅撰貴族院議員となるが、その「履歴」に「文久四年 自邸に私塾を開き、以て後進を教養す」とある。その前年十二月七日池田長発正使の「横浜鎖港談判使節団」に加わるため巻退蔵(前島密)、岡田誠意、大和屋彦七と筑前藩大鵬丸(コロンビア号)にて江戸へ出崎したが、途中汽罐漏水で間に合わず、翌年二月十四日着崎。前島密自叙伝「鴻爪痕」に、帰崎の長旅でも何先生は毎夜熱心に英語を教授せられ、「長崎に帰るや、家塾を開き余を塾長と為し、長崎奉行に紹介し、英学校の学生とし、或は米人ウエベッキ氏に授業を依頼するなど、学事上懇篤なる援助を与えられたるなり」とある。フルベッキは官立語学所・済美館と何塾を掛け持ちしていたが、何塾での教授についての詳細は分からない。
 
 前島密も、遊学生に対して少費の塾・培社を何先生の許諾を得て瓜生寅と共に開設したが、慶応元年1865正月初旬には、薩摩藩の開成所の英語教師となって長崎を去る。 (写真は前島密、何礼之助の写真は10月10日投稿参照)
 
 東京大学史料編纂所の「長崎唐通事何礼之関係史料」は、 文書史料・古写真・その他附属資料の全450点を昨年1月にご子孫より寄贈され、8月から公開されている。特に幕末文久・元治・慶応年間の長崎の事々を知る一級史料である。
 
 そのひとつ、「公私日録 一冊目」文久三年1863十月二十一日には、現在の住居は狭くて稽古人集会等も出来ずに苦労しているので、借家の世話を奉行に願い出た。「私義従来借家住居罷在ル処當年末我家入用之極を以家主ヨリ近々明渡呉候様申出差揃当惑仕候殊二是迄住居罷在候家ハ手狭二テ稽古人集会等モ出来兼差支難渋仕居候間可相叶儀二候ハバ当分之間家屋鋪壱ヶ所拝借御許容被成度奉願候此段奉願候以上 亥十月 此方 平井」(次回へ)
 
 
2016年12月25日 
何塾はどこにあったのか
大井手町使屋敷である。出府(12月7日)前の慌ただしい引っ越しが、「公私日録」に記されている。
「公私日録二冊目 文久三年1863」「十二月三日 大井手町役宅ニ即日引移不苦候段普請掛調役ヨリ申来候二付直二家財相運フ尤人足六人両上町西中町ヨリ来候吾公役之一日二テ運ヒ兼候二付野老大井手町へ一泊致ス」
 
そしてここに、元治元年春「何塾」が開かれ、前述「前島密自叙伝」の何先生への評判のように、全国から錚々たる面々が集まってきた。一年後には生徒が塾生百余名塾外生百余名ほどに増えたため服部長門守常純左衛門佐の支援を受け、屋敷内に増築した。
「公私日録三冊目 慶応元年1865」「閏五月十六日 拙家私塾立家地堅メ本学者ヨリ来祈祷 拙家入門生徒相増候ニ付服部侯ヘ願立浦手ヘ私塾取建請普料金九拾九両拾ヶ年賦二拝借会所ヨリ御出方」
 
「福翁自伝」によると、これより10年前、福沢諭吉は安政元年185421歳で 長崎遊学し光永寺と高島流砲術家山本宅に一年間寄宿し蘭学・砲術を学んだ。その山本宅はこの一部にあったことが、「長崎諸御役場絵図・大井手町使長屋」に記されており、また「福澤先生使用之井」が現存している。
 
 
2016年12月27日
当会発起人森田正著「近代国家「明治」の養父 G.F.フルベッキ博士の長崎時代」にある「何禮之助と平井義十郎の二人は、フルベッキ師のその後の日本での活躍の土台を築くことになります。奉行所の特別な許可を得て何禮之助は、長崎で英語の私塾を開きますが、フルベッキ師はその講師となります。自宅での英語教授の人員制限をする中で何禮之助の私塾には外出して講義すると言う肩入れ振りは異常でした。後に明治政府行政機関の各部門で重用される何と平井の二人との強い絆を感じます。」の何塾の生徒に、高峰譲吉がいる。
 
「何礼之事歴」履歴書の元治二年1865服部鎭尹ノ援助二依り邸内ノ空地二塾舎新築入塾生踵ヺ接シテ至リ(略)加州人ハ高峰譲吉、芝木昌之進他二十余名(以下略) 「松方正義関係文書 第十二巻」大久保達正[ほか]編 大東文化大学東洋研究所 1991-02
NPO法人高峰譲吉博士研究会の石田三雄理事長の寄稿エッセイ「外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本その1/その2」にリンクを貼らせていただいたので、是非参照されたい。理事長は現在フルベッキの6代目の子孫でノース・テキサス大学の教授Guido Fridolin Verbeck Wと交流され、フルベッキの子孫一族についても詳述されている。写真は同理事長のご尽力によりVerbeck Wにご許可をいただいたものである。http://www.npo-takamine.org/index.html
 
 
2016年12月30日 
フルベッキが紹介した最初の米国留学生は、肥後熊本藩横井小楠の甥横井左平太・太平兄弟である。横井兄弟は慶応元年1865神戸海軍操練所閉鎖により、長崎に来て何塾と済美館に入学するも授業に飽き足らず、フルベッキに肥後生への特別補講をお願いし承諾を得るが、この件については、八月二十二日付小楠宛左平太の手紙に、何礼之助など幕吏の消極性について触れ、また海外留学の希望を伝えている。「横井小楠下巻遺稿編」
 
何礼之助は、慶応三年1867幕命により柴田大介、柳谷謙太郎、松田周次と京都・江戸へ向かい、七月開成所教授となるが、同年十一月私塾(瓊江塾)を開き、さらに翌年小松帯刀に随行し大坂へ行くと、十一月同塾を開く。 何塾の生徒については、横井兄弟や高峰譲吉の他、松方正義関係文書第十二巻「何礼之事歴」に前田正名が、「先生が奮然率先して天下の洋学生を訓育し人材を養成するに極力尽瘁依って明治中興の偉業に貢献せられたる事績は洵に顕著なるものにして其功績や決して忘却すべからず」と印して、続く薫陶を受けた諸氏31名の芳名録がある。その内21名は長崎歴史文化博物館蔵の大正六年五月「何礼之贈呈写真」にも記されている。
 
何礼之助の「公私日録」には、フルベッキが下記に登場している。
○元治元年1864七月二日 昨日より教授亜人フルベッキ詰切
○同二年正月八日 語学所に教師フルベッキ稽古始めに礼服祝杯出候
○慶応元年1865六月二十九日(新町元長州屋敷跡引越にて惣出仕)御奉行服部侯御組頭三人(略)此方平井義十郎教授方惣出勤麻上下着用御賄赤飯煮〆等下さるフルベッキ軍艦船将壱人士官弐人御役人并外国人より御馳走下さる
○同十月十一日正喜撰茶フルベッキへ進物大徳寺住所へ持遣す
○慶応二年1866九月二十二日大徳寺フルベッキ部屋見物旁明石格庵同道にて罷越す(略)同所にて茶菓西洋酒出候教師内儀も挨拶へ出候
 
個々の何塾生については、フルベッキとの関連で今後登場することもある。また何礼之については寄贈史料をもとに、今年東京大学近世史研究会から、東京大学近世史研究会論集「論集きんせい38号」の中に、吉岡誠也「幕末開国と長崎通詞制度の課題−長崎唐通事何礼之助制度改革案を中心に−」が発行されている。地元長崎学での管見の限りではあるが、何礼之助や平井義十郎の調査研究は、古賀十二郎著「徳川時代に於ける長崎の英語研究」「長崎洋学史」や宮田安著「唐通事家系論攷」以外知らず、後学に期待したい。 up
 
 
1971年元旦
 10月12日投稿記事「大山巌とフルベッキ」の出典、佐波亘著「植村正久と其の時代」の「フルベッキ博士と日本魂」(紫苑湯谷磋一郎)の章には、「実に(フルベッキ)氏は日本の或る事については、日本人其れ自身よりも、尚多くの知識を有するなり」として、「すめ神のくだしたまひし日本だまみがけやみがけ光てるまで」と詠んだ歌がフルベッキ作だと信じていた著者がフルベッキに尋ねたところ、新政府歌道御用掛となった薩摩藩士歌人八田知紀作であることが分かったとある。
 フルベッキと八田知紀の交流は、明治二年二代目長崎県令となる薩摩藩出身の「野村盛秀日記」に伺い知ることができる。「慶応二年1866三月二十日(前略)帰りにフルベッキに参り遠航一條相話し八田先生諭托之一條相頼先生の送り物神代系図一巻差送候処大に相喜び候同人よりも先生に一冊差出度との事」「五月二十五日八田大人より亜人フルベッキへの詠歌林泉三へ同断届け物相頼」
同日記には、慶応二年1866「三月九日今朝フルベッキへ仁禮、江夏、林泉三同列その他談判に行く」「三月二十八日ガラバ船にて帰り候に英岡士並びにラウダ夫れよりフルベッキへ市来大人一同差越し」、慶応三年1867「十二月十九日昨日亜飛脚船コスタレーカ兵庫より入津の由付英岡士館並びにフルベッキへ差越し事情を聞く」など10回以上訪ねては諸事相談していることが推測できる。
 
 
(1865.6.5「フルベッキ書簡集」高谷道男編訳新教出版社)「長州事件が再発して、艦隊が下関に向かう用意をしています。それで八艘の日本の船と帝国のあらゆる地方から人を集めて、この(長崎)港に集結しています。そういうわけで、何かと私から聞きたいので、来訪者が絶えません。」
 
 大徳寺のフルベッキを訪ねるのは英学生だけではない、世界の情勢やアドバイスを求めて各藩の高官も多数訪ねている。今回は土佐藩士佐々木三四郎(高行)と岩崎弥太郎を取りあげる。
「勤王秘史佐佐木老侯昔日談」に曰く、「外国人といえば米国人の『フルベッキ』とは終始往来して、学説を聴いたり、翻訳を依頼したり外国の事情を聞いたりして開発するところがすこぶる多い。彼より新旧約全書などを送られたこともある。肥前藩の本野盛亨が此処に洋書を研究しておった。」と。また「高橋是清自伝」中公文庫によると、明治五年佐々木高行令嬢静衛がフルベッキ邸に通い、次女エマ(九才か)より英語を習っていたことが分かる。
 
三菱創業者岩崎弥太郎は安政六年四ヶ月間長崎滞在の後、32才の時慶応三年1867四月、再訪して明治二年初めまで約一年九ヶ月間主に長崎に滞在する。この間土佐商会(開成館長崎出張所)主任・長崎留守居役として活躍するが、「岩崎弥太郎日記」にフルベッキとの面会を数えると、20数回大徳寺を訪ねている。
新知識の泉源と言われたフルベッキへ内外情勢を相談しては、慶応三年九月二十七日付(1867.10.24)「訪フルベッキ談話久之、昨日の新聞に仏与普戦争相始まる様承るら付、フルベッキに相尋る処、未其事跡には立のり候はぬ由、午後囘寓」、また土佐の英語教師招聘の件については、十二月十八日付(1868.1.12)「佐々木(三四郎)氏手簡、得と談合筋有之に付、(略)米利堅教師フルベッキ御国許(土佐)へ雇入たき旨相談致す処、二十日前肥前諫早へ六ヶ月間約束致す由(致遠館前身の佐賀藩校蕃学稽古所の事)」、明治二年正月六日付(1869.2.16)「訪フルベッキ云近日東京より山口範蔵来、我東京にて諸生教導致様、東京より被命、不日将赴東京云々、余フルベッキ氏を浪花に招候様周旋の意有之処、遺憾の至也」と願い叶わず、三日後には弥太郎は大阪へ向けて、フルベッキは一ヶ月後に東京へ向けて長崎を離れることになる。
 
 白柳秀湖著『岩崎彌太郎伝』や大町桂月「伯爵後藤象二郎」には、フルベッキとの交流エピソードとして、土佐藩購入の蒸気船名が他藩と違って「夕顔」「若紫」「紅葉賀」などの源氏名付けたのは、西洋の船名が著名な人名や地名を付けることから、他藩船のよう難解な支那風の名称を優美な日本らしい名前にしたらとのフルベッキの提案を後藤象二郎が藩主山内容堂へ告げて受け入れた結果であったことやそれらの蒸気藩船が維新後岩崎の三菱に払い下げられたことが記述されている。
                
「培社」とは
「何塾」で名前を挙げた私塾「培社」について、「男爵安保清康自叙伝」慶応元年1865、私は同志と何礼之助(がのりゆき)門下を退き、瓜生三寅兄弟、巻退蔵(前島密)、橘恭平、高橋(芳川)顕正その他五六人の学友と寺院に寄宿し日夜寝食を忘れ、骨血を絞り肺肝を砕いて一心に苦学した。
「前島密自叙伝・年譜」(前島密伝記刊行会)に、元治元年1864九月三十才長崎に於いて、貧しい遊学生のために少費の合宿所を設け、瓜生寅を学長に依頼し、何先生の許可を得て培社と称する私塾を開き、貧生の為に英学を教授す。培社は禅宗某寺の空堂を借りた。
 
若越郷土研究山下英一著「瓜生寅の英学」の「自筆履歴抜書」(文久)三年1863二月、私塾(培社前島密と1864.9)を開く藝薩二筑の藩侯より生徒数名を托せらる。(二築は筑前筑後)「曽我祐準翁自叙伝」大空社「長崎では五島町の(柳川)藩邸に初めは居たが、後には瓜生三寅先生の西坂の仮塾なる某寺又は榎津町柴田昌吉先生の家塾或は町屋に間借もした。」
 
 安保・前島・瓜生・曽我四氏の記録から推測すると、西坂に近い寺は筑後町にある本
蓮寺(日蓮宗)・法泉寺(浄土宗)・聖無動寺(真言宗)・福済寺(黄檗宗))であるが、禅宗であることから黄檗宗福済禅寺であろう。
 
 この五ヶ月ほど前、福済寺には勝.舟や坂本龍馬も40日間ほど滞在したという。また明治12年にはグラント米国元大統領夫妻も訪れ歓迎会に出席している。
 
 
 
シーボルトとフルベッキ
フルベッキ来崎の3ヶ月程前1859年8月に、シーボルト63才が長男アレキサンダー13才を連れて二回目の来日、最初筑後町の日蓮宗本蓮寺一乗(条)院に居住し、翌年三月かつて住んでいた鳴滝に移り、1861年4月江戸へ向かった。
 
この時期のことが、W.E. グリフィス著「日本のフルベッキ」村瀬寿代訳編洋楽堂書店の「第六章政治の激変」に「(略)ウィリアムズ師が外国人居留地に移ることになったので、外国人居住地の外に住むのはフルベッキ一家と「半分日本人(Dr Siebold,who was half a Japanese himself )」のシーボルト博士だけであった。家賃は居留地の四分の一である。(略)」とある。
                  
 またこの資料編(人名)にある「シーボルト」で、村瀬氏は「フルベッキはシーボルトと長崎で接触はあったが、フルベッキのシーボルトに対する評価は低い。二人の接触を確認できるのはフランシス・ホールの1860年7月4日付の日誌(*)においてであり、ホールが長崎に旅行した際、フルベッキと共にシーボルトを訪れたとある。植物に興味を示していたホールに頼まれ、フルベッキは前もって訪問の約束をシーボルトの長男、アレキサンダーに依頼していたという。」と解説している。(*)「Japan Throug h American Eyes: The Journal of Francis Hall, 1859-1866」     
 
 シーボルトに対する評価の低さは、(1861.6.28書簡集)「シーボルト博士は−ペリー提督の先例からしてすべてのアメリカ人が知っているように空名の人物ですが(注1)− ホフマン博士(注2)のあのすぐれた日本語の知識と、シーボルト博士自身の「日本語摘要Epitome Linguae Japonicae」に関するホフマン博士の意見ために、H(ホフマン)博士を嫉んでいます。」から分かる。同書簡には、長崎にある二つの外国製印刷機のひとつは出島にあり、主にシーボルト博士が使用していることも書かれている。
 
(注1)在NY日本国総領事館日米交流150周年記念日本遠征関連逸話集「確執!シーボルトとペリー」http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/exepi7.htm)を参照すると、再来日を願うシーボルトがペリー来航に同行希望するも断られた経緯が分かる。
(注2)ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは、シーボルト事件で追放処分となったシーボル
トに1830年アントワープで出会い、シーボルトの『日本』の著作に協力、1855 年に
ライデン大学における初代日本語担当教授に就任。
 
 
 
私塾「柴田塾」など
前々回「培社」で「曽我祐準翁自叙伝」の柴田塾に言及したが、榎津町の塾には、「加州人、肥後人、久留米人、柳川人などが主で、数十人の塾生中、加州の関澤(孝三郎)、肥後の江口(英次郎)、久留米の柘植(善吾)などが懇意にした。」とある。                           
「慶応元年1865明細分限帳」にある「英語小通詞末席人数弐人慶応元丑年一代限り新規英語小通詞英語小通詞受用高壱貫五百目柴田大助」の頃である。文久3年1863十二月洋学所教授方を申し付けられ、半年後には外人教師フルベッキの同僚となるが、慶応三年1867四月には何礼之助や柳屋(谷)謙太郎(桑港領事)と共に外国方御用として江戸へ向かっている。柴田大介(昌吉)は酒屋町馬田家の六男(次男は広運館頭取で我が国缶詰製法の祖である松田雅典)に生まれ幕末の蘭方医柴田方庵の養子で、明治6年子安峻との共著「英和字彙」(通称,柴田辞書)を読売新聞の前身日就社(子安・柴田・本野盛亨創立)から刊行する。岩崎克巳著「柴田昌吉傳」一誠堂書店に詳しい。1869年3月31日東京大学(南校)設立のため、
上京の途横浜に着いた翌日フルベッキと会っているとのことだが、このことは同日付フルベッキ書簡には触れていない。
 
伯爵伊東巳代治は長崎酒屋町年寄伊東家に生まれる。「痴遊雑誌4」の「伊東巳代治伯自らを語る」によると、「私は八歳の頃(元治元年1864)から長崎の聖堂へ入った。聖堂では漢学を習った。それから英学をフルベッキといふ人に就いて暫くやった。わたしは蘭学はやって居らない。(1969年)フルベッキは東京に来たので、それからはアメリカの宣教師のスタウト(フルベッキの後任)に就いて英語を教わった。この人が私の第一の師父である。」
 
 長崎出身者でフルベッキに数学を習った和算家・数学者の渡邊眞(1832-1871)については、「明治維新以後の長崎」」長崎市小学校職員会刊の「第七章人物」に「(略)又慶応年間、長崎の済美館に教頭たりし米国人フルベッキを師とし、泰西の数学を修むるに方り已に東洋数学に於ける素養の充実せるあり為に其の進歩殊に著しく数月を出でずして、克く其の蘊奥を究め、フルベッキをして驚嘆せしめたりと云ふ。(略)」がある。明治二年上京しフルベッキが教頭の大学南校(東京大学の一前身)の数学の先生となる。
 
 明治ではあるが、「日本近代統計の祖」と言われる長崎出身の「杉亨二自叙伝」には、「国勢党派論を著す」の章で、七年か八年(政表課時代)にフルベッキと懇意になり、ブルンチェリー著「国勢党派論」のフルベッキ講釈を聴き、十年西南事変の頃となりためらいもあったが、同氏に協力してもらい「国勢党派論」を著した。中村弘毅太政官大書記官を介して大久保利通内務卿に贈呈し「良書なり」の言葉を得て出版したことが述べられている。
 
芳川顕正と伊藤博文
「伯爵芳川顕正小伝」芳川顕正伯遺業顕彰会1940によると、徳島藩の芳川(高橋)顕正は、幕末に三度来崎している。「文久二年1862二十二歳の時長崎遊学するもはしかに罹り数ヶ月で帰藩、元治元年1864再訪し医師中村某の知遇を得て、その塾頭となる。翌年瓜生三寅、何礼之助に師事し英学を修め、旁ら養生所に医学を修む。徳島からの長崎遊学生(長井長義や山田要吉)に洋学を講ず。一時帰藩後慶応三年1867二十七歳三度目の長崎に到り、小島養生所で医学・化学を修めるが、この養生所に於いて伊藤俊助(博文)に会い英語を教える。」
 
 一方「伊藤博文公年譜」春畝公追頌会1942の慶応三年1867二十七歳には、八月木戸孝充(桂小五郎)と共に1ヶ月ほど長崎滞在の後、上京して再び長崎を訪れ、「十月四日長崎に於いて「ガラヴァ」商会と汽船一隻借入の契約を結ぶ」「十一月三日(前略)薩藩士吉村荘蔵と仮称して大徳寺に寓居す」、伊藤は11月下旬に離崎するので、この間約二ヶ月間ほどのことだと推測できる。養生所はフルベッキ居住の大徳寺のすぐ上にあったが、「伯爵芳川顕正小伝」によると、そこを訪れた伊藤から英語の教授を頼まれ、翌日伊藤が寄寓する大徳寺を訪ねた。
 
 伊藤は文久三年1863井上聞多ら長州ファイブの一員としてロンドンに半年間ほど留学したから、会話は相当の巧者であったが読書力の素養に乏しかったので、芳川から習ったとのことだが、(大徳寺にか)同居してのことだと言う。芳川伯は伊藤の推挙により明治三年大蔵省に出仕、その後文部、司法、内務、逓信各大臣を歴任する。
 
 徳島藩の洋学長崎遊学者には、他に高良二(二代目大阪英語学校長、初代高橋是清、蘭医高良斉の次男)や山田要吉(帝国大学機械工学教授、慶応元年済美館、明治3年大学南校に入学)がいて、何塾名簿にも記載されている。
 
 
 
横井小楠と甥横井左平太(伊勢佐太郎)・大平(沼川三郎)兄弟と肥後藩留学生
 横井小楠45才は、嘉永六年1853十月下旬長崎を訪ねている。「幕吏川路聖謨露国使節(プチャーチン)応接の為長崎に来たるを以て(日本との国交,通商条約締結を求め、ロシアのプチャーチン使節団が年7月長崎に来航)藩の内使として同地に赴きしも川路等未だ来らざりしかば、「夷虜応接大意*」を草して川路に送致せんことを長崎港尹に託して帰る、途柳河に立寄り立花・十時両家老と会す。」小楠がフルベッキと交流した記録はないが、亡兄の子左平太・大平はフルベッキに多大な世話になっている。
 
 「横井小楠関係史料」を読むと、元治元年1864四月四日小楠を訪ねた龍馬を介して勝.舟へ甥達の神戸海軍操練所への入所を依頼をしている。「(前略)然ば坂本(龍馬)生迄奉願置候養子横井左平太、養弟同大平并同藩岩男内蔵允(俊貞)航海為修行差出し、誠に犬豚児之者共御難題に罷成侯義は弥奉恐入候得共、御門下に被仰付、御家来に被召仕被下度万々奉願候。(下略)」同年八月許可が下り観光丸で修業しているが、勝.舟は禁門の変で軍艦奉行を失職、翌年には神戸海軍操練所も閉鎖となる。
 
 左平太・太平兄弟や肥後藩士は、閉鎖以前に神戸から長崎へ移ったことが、次の書簡
から、分かる。小楠門下生長崎在住熊本肥後藩洋学生の岩男俊貞・野々口為志へ「十二月十四日の御状相達、忝々拝誦仕候。愈御安康珍重に奉存候。御許何先生引立宜敷諸藩生も
漸々多人数に相成、別て社中は格別精励の実相貫き候段重々大慶仕候。(後略)」何塾の何
礼之助の指導により肥後藩塾生の益々の精励を喜んでいる。しかし慶応元年1865八月二十二日付小楠への左平太の書簡には、済美館の授業に満足できず、藩の同意を得て、フルベッキへ肥後藩生への別途直伝習を願い出て承諾を得るが、何先生(何塾兼公立英学校済美館学頭)や役人の妬みなどから進まない処、フルベッキが自宅(大徳寺)で教えることに決着し昨朝から修業している。そして留学の希望決意を述べている。「私も段々考候に洋学に打立候ては迚も日本にて成就致候義は六ヶ敷く奉存候間私是非是非洋行不仕ては迚も実事は出来申間敷奉存候。」
 これ以前にも不平を伝えていたのであろうか、慶応元年1865六月十五日甥左平太・大
平への書簡「其許洋学館幕吏聚斂披々心外に候。然乍是等あ(た)りまへの事、驚可事にあらず、他に拘らず成可丈心力を尽くし修行致被可候。(後略)」フルベッキが海外に送り出した最初の留学生が横井左平太・大平兄弟である。慶応二年1866六月十日付ジョン・フェリス宛フルベッキの紹介状をもって英語や機械学・航海術を学ぶため渡米し、ニューブランズウィック(ニュージャージー州)のグラマースクールに入る。直接送出周旋したのはフルベッキも入国・奉行との交渉など世話になったアメリカ初代長崎領事ジョン・ウォルシュの弟ロバート・ウォルシュで、受入はJ.M.フェリスである。慶応二年1867四月二十七日二甥(左平太22才・太平17才)長崎を出帆して米国に向う。
 
 甥兄弟に対するフェリス博士の親切について小楠からの感謝の言葉と共に、同封の300ドルを彼らへ届けていただきたい旨の1868.11.4の手紙。この礼状が届くおよそ1ヶ
月ほど前小楠は京都で暗殺される(1869.2.15)。(写真手紙W.E.グリフィス「日本にお
けるラトガース卒業生」)
 
 高谷道男編訳「フルベッキ書簡集」(1867.3.31、9.7、10.19、1868.8.17、12.18などの書簡)には紹介だけでなく、彼らの送金などの世話までいろいろと綴っているが、森田正著「G.F.フルベッキ博士の長崎時代」には、初翻訳の1867.3.20、6.13両書簡に、横井兄弟の英語力が乏しく自活できずにフェリスはじめアメリカ人の経済的支援を受けるとは思いもしなかったことやフルベッキや熊本藩の支援も当初計画にはなかったことなどと共に容赦・感謝の言葉が書かれている。
 
 兄左平太は日本初の官費留学生として、アナポリス海軍兵学校に入り、1875年に帰朝、同年6月元老院権少書記官になったが、同年10月結核で死亡した弟大平は結核に罹り1869年帰国長崎で療養しながら、南校フルベッキの協力を得てL.L.ジェ−ンズを招聘、熊本洋学校設立に尽力するが、1871年開校5ヶ月前長崎で亡くなる。
 
 横井兄弟,日下部,薩摩藩第1次留学の畠山・吉田・松村,「富田・高木・小鹿」薩摩藩第2次留学仁礼景範・江夏蘇助・湯地定基・種子島敬輔・吉原重俊・木藤市助ここに述べた横井左平太・大平が渡米する前、野々口為志・江口栄(英)次郎・錦戸太郎(廣樹・陸奥宗光)・橋本綱常(橋本左内の弟)と写る写真が、萩原延壽著「陸奥宗光」上巻に載っている。陸奥宗光については海援隊士として別途後述したい。
 
 長崎歴史文化博物館蔵「英学生入門點名簿」の「慶応元年乙丑中秋以来」の肥后(後)に、野々口又三郎、岩男助之丞、横井左平太、同大平、入塾江口英次郎てある。同年八月新町長州藩屋敷跡の済美館が始まった時の名簿と考えられ野々口ら四人は前身の語学所から、江口はこの時入学したことが分かる。
 
 1868.2.26書簡集p119 「横井(左平太・大平)両君宛700ドルのお手紙を2週間前に受け取りました。本日貴下宛の紹介状を本人に渡しました。同君は横井両君と同藩のもので、友人でもあり、ニューブランズウィック(米国ニュージャージー州)で両君に会いたいとのことです。本人は学資もあるらしく、横井両君の在学している学校に入学できるようお世話願いたいと申しておりました。江口君はお会いになればわかるように、温厚で態度の上品な青年であり、ことに異教徒としては珍しく立派な人物です。同君はこの便船で行きますから、多分このお手紙をお届けすると同じ、パナマ汽船でニューヨークに到着するでしょう。(後略)」とあるが、花立三郎著「横井小楠の弟子たち」藤原書店によると、留学は実現せず、東京の小楠宅にいて新政府の軍務官試補として勤務していたことだけが明らかであるという。
 
(参考文献: 日本史籍協会編「横井小楠関係資料二」(財)東京大學出版会、高木不二著「幕末維新期の留学」慶應義塾大学出版会、杉井六郎「横井左平太と横井大平のアメリカ留学」同志社大学人文科学研究所1970-01-20 )
 
 
 
日下部太郎
You Tube "The Samurai at Rutgers: A brief history"
 
ラトガース大学留学生と言えば、弘化二年1845生の越前藩士日下部太郎(八木八十八)である。慶応元年1865二十一歳のとき洋学修行のため長崎遊学を命じられ、何塾で英学を(永井環著『新日本の先駆者日下部太郎』)、済美館で英語と数学を学んだ。慶応三年1867二月十三日アメリカに向けて長崎を出航した。
 
「日下部太郎の外国渡航許可状」
長崎第四号
                            松平越前守家来
限三箇年        生国 越前                日下部太郎
            年齢 二十三歳   面 長キ方
            身丈 五尺三寸五分 瘢痕無之
(日本政府許航他邦記)
            眼  常体
            鼻  同断
            口  大キナル方
 書面之者亜米利加国江英学修業して相越度旨、願二因り此証書を与え候間、途中何れの国に而も無故障通行せしめ危急之節者相当之保護有之候様、其国官吏江頼入候
慶応三丁卯年二月           日本外国事務局
(長崎歴史文化博物館蔵『日本人外国行御印章願渡綴込慶応3年1月ヨリ慶応三夘
年正月ヨリ長崎奉行所運上所掛』)
 
 同年七月グラマースクールに入学、また「Verbeck of Japan」の著者グリフィスにラテン語の個人レッスンを受ける。
 
 「日下部については処置しておりますから、良い結果となると思います。同君の向学心が、皆の注目を引いたことを知って満足です。日本人の知人の中に人間的に申して優れた人を多数知っているけれども、日下部ほど明敏なものは十人か十二人ぐらいしかいません。」(フルベッキ書簡集高谷道男編訳1868.5.4)
 
 優秀な成績で、留学費用の問題もフルベッキらの尽力により、明治二年1869五月新政府の官費留学生となるが、肺結核に罹る。
 
「日下部の病気のことを承り心痛の至りです。回復して研究が続けられるように切望しております。米未来で教育を受けている青年たちが将来自分の国に善い広い感化を及ぼすことを期待しています。」( 書簡集1870.5.21)
 
 ラトガース大学首席であったが、1970年4月13日異境の地で亡くなる。享年26歳、大学は特例で卒業を認め、ファイ・ベータ・カッパ(“love of wisdom−the guide of  life”「学問への愛―人生の導き手―」)賞を与えゴールド・キーを贈った。
 
 写真「Google Map」ラトガース大学の北西約50qがニューヨーク、「グリフィスと日下部太郎の像」は「DISCOVER FUKUI」より転載。
参考文献:高木不二著「幕末維新期の留学」慶應義塾大学出版会
 
"The Rutgers graduates in Japan: an address delivered in Kirkpatrick Chapel, Rutgers College, June 16, 1885" by Griffis, William Elliot, 1843-1928 Taro Kusakabe (his true name)was a native of Fukui, Echizen of the samurai class, and,as his name implies,was the first born of his parents. He was an admirable mathematician and an excellent scholar.Entering Rutgers College in 1867, he would, had he lived, have graduated with honors in the class of 1870.Attempting in his ardor to do many years’ work in a short time. his health gave way. He died Apri1 13,1870,of consumption. The writer,wbo had taught him Latin, met his father in Fukui and presented to him the PhiBeta Kappa gold key sent by the chapter in Rutgers College.His books were add-ed to the library of the School of English and Science in Fukui,now the High School, containing over six hundred pupils. up
 
本木昌造とガンブルそしてフルベッキ
 日本の近代活版印刷術の祖といわれる本木昌造(1824年7月5日- 1875年9月3日)は、長崎製鉄所の御用掛を兼務しながら、長崎にあった二台の印刷機、一台は出島でシーボルトが使い、もう一台を安政二年1855当初西役所内にあった「活字版摺立所」で印刷を開始したが、フルベッキ書簡によると、ほとんど用をなしていないとあり、粗悪な出来栄えであったようだ。
 
 本会森田正著「G.F.フルベッキ博士の長崎時代」のアメリカのペルツ牧師宛のフルベッキ書簡(1863年5月22日上海にて)には、「(前略)ところで、こちらでは、私として為すべきことが非常に沢山あります。まず私は、日本で広く使用されている漢字を学ばねばなりません。ここではそれを非常に好都合に行うことができるのです。私の、日本人についての勉強は停止したままの状態にあります。一刻も早く自分の本拠に戻りたいと望んでいますが、私がここで過ごすとしても十分な程の仕事の材料は抱えて来ています。長老派宣教師団の印刷を受持っているウィリアム・ガンブル氏(1830-1886)は、今何種類かの日本語の活字を造りつつあり、私は同氏からの要請でこれの手伝いをしていますが、私は十分な支援をすることができると確信しています。将来この活字は我々にとって絶大な価値を発揮する事になります。」と書いている。
 
 長老派宣教師団の上海の印刷所「美華書館(院)」では、日本在住の宣教師からの印刷物例えばヘボン式ローマ字の考案者ジェームス・カーティス・ヘボンJ.C.Hepburnの『和英語林集成』1867年やフルベッキの協力のもと高橋新吉、前田献吉・正名兄弟により編纂された英和辞書通称『薩摩辞書』1869年などが印刷されている。
 
 活字版製造に苦労していた昌造は、ガンブルが任期を終え帰米の途に就くにあたって、長崎に招聘し活字製造法を伝授してくれるようフルベッキに周旋を依頼して、1969年「活版伝習所」を興善町の唐通事会所跡(現在市立図書館)に設立し、六月ガンブルを迎え、その指導のもと「電胎法」と呼ばれる活字製造法を修得した。三月に長崎を去ったフルベッキの置き土産であった言える。グリフィスは「Verbeck of Japan」で、「In a sense, he was, with Mr.Gamble, the founder of the printing press of Japan,」と記している。ガンブル滞在は数週間とも数ヶ月とも言われているが。翌年7月21日付の次8月20日付フルベッキ書簡では、「帰国の途中にある上海の長老ミッションの以前の印刷主任であったガンブル氏に託し一寸した物を贈ります。」とあるので、この間に日本を去ったと考えられる。昌造は1969年長崎製鉄所頭取を辞職し、済美館跡に無料の新町私塾を設け、翌年には「新町活版所」を創立した。
 
 1969年小菅修船所は、グラバ−商会から明治政府の所有となり、長崎製鉄所時代昌造の配下であった平野富二(1846-1893)が、24歳で初代所長となったが、翌々年昌造に請われて新町活版所に入社し、活字製造と印刷事業を経営することになり、1872年東京に進出し長崎新塾出張活版製造所を開設する。以前柴田塾で取りあげた子安峻との共著「英和字彙」(通称,柴田辞書)は、読売新聞の前身日就社(子安・柴田・本野盛亨創立)に納めた活字で
1873年に印刷刊行されたものである。 平野富二は1876年石川島修船所跡を借用して石川島平野造船所を設立、今日の重工大手三社のひとつ石川島播磨工業・IHIの創業者である。
 
 三菱重工業岩崎弥太郎(1858-59,1867-69)、川崎重工業川崎正蔵(1853-63)、IHI平野富二(1847-1871)三人の創業者が、幕末同時期に長崎の地に遊学したり生まれ育ったりしたことを長崎人は誇りにすべきであるが、機会があればこの三傑については比較考察してみたい。
 
写真は本木昌造翁像、活版伝習所跡、新町活版所跡
参考文献:「本木昌造伝」鳥屋政一朗文堂
「ウィリアム・ガンブルと日本の活版術」川田久長学燈第48巻
「平野富二伝考察と補遺」古谷昌二 朗文堂
 
 
二人の海援隊士とフルベッキ 
 白峰峻馬(鵜殿豊之進) 長岡藩士 (1847.6.17−1909.4.1)
長崎歴史文化博物館蔵「英学生入門點名簿」(済美館?)慶応元年1865乙丑中秋以来 薩摩 入塾 白峯駿馬、何塾名簿にも薩摩藩とある。亀山社中・海援隊士であったが、明治元年海援隊解散後、何礼之『公私日録  慶応4年〈1868〉6月』に 「七月廿二日出八月六日大坂着」や「八月二十五日10.10 薩藩白峰駿馬来」の記録から、何礼之助が小松帯刀に随行して大坂に移った夏、かつての何塾生だった白峰が訪ねて来たことが分かる。
(『幕末明治海外渡航者総覧』手塚晃編 柏書房1992.3留学期間1867 - 1870, 1870 - 1874)
 
 明治元年十一月に菅野のと一緒に渡米したとのことだが、明治三年一時帰国して後、再渡米についての「公文録」があるので、下記に記す。
「元小松玄蕃頭家来白峰駿馬儀従来海軍熱心にて兼ねて相応練達罷在候末去る卯年より米国へ差越修業居学費は玄蕃頭より差送り来候処追々営業相進尚留学為致候得は此度成業の見込有之趣先日同学の者共よりも申越候然る処玄蕃頭よりも引続学費を贈候儀不相叶候に付他学生同様朝廷より御構被成下度旨願出候就いては肥後藩沼川三郎所労にて帰朝いたし候に付右之代に宛学費御差送相成候様致度此段相伺申候也 三年二月二十八日
外務省上申 外務辨官宛」
「八月十日催促手紙 大蔵省 旅装支度料願
 前留学中の負債嘆願 次回帰国まで二千五百両拝借被仰付度懇請 8.24
自力で欧亜へ罷り越し 今年五月帰朝華頂宮博経洋行同行願」
 
 この白峰再渡米の時については、フルベッキのJ.M.フェリス師宛書簡からも分かる。 「華頂宮殿下、柳本、白根(白峰)、高藤(高戸)、藤倉の諸氏からあなたに宛紹介状を依頼されました。以上の青年たちの生活に深い関心を持ち、あなたの高名を尊敬し、米国合衆国に留学する日本人に対する厚志を寄せられるあなたを承知せる帝国政府の高官たちも、あなたの深甚なるご高配の下にこれら日本人学生の今後の身分の保証をする旨、申し出で右お願い致しているのです。」(フルベッキ書簡集1870.9.21)(注1)
 
 林有造『林翁渡仏日記』は、普仏戦争視察行の日記であるが、明治三年八月二十八日(1870.9.22)大山彌介、品川彌二郎、有地品之允、池田彌一、松村文蔵、中濱萬次郎らは横浜を出港する。その船に書簡の花鳥宮、栃本直次郎(柳本直太郎、福井藩)、白峰駿馬(東長岡藩)、高戸賞志(賞士、福山藩)、藤森圭一郎(宮御内)らが宮随従として同乗していたことや、九月二十三日(10.16)サンフランシスコ港に入り、翌日砲台見物や宮の歓迎練兵を見て宿に帰り夜、「宮より別杯且今日遠所を労として酒を賜る。」などが記されている。
 
 白峰同様亀山社中・海援隊士であった菅野覚兵衛(千屋寅之助) (1842.11.21-1893.5.30) 高知県安芸郡芸西村和食生の妻起美は、坂本龍馬の妻お龍の妹である。明治元年に長崎で結婚後、長崎振遠隊で戊辰戦争に参加帰崎後、同年白峰に同行して渡米したという資料を探しているが、明治4年当時米国滞在していたことは、公文録や写真、永井久一郎の資料からも明らかである。何礼之助やフルベッキとの接触もあったかもしれないが、残念ながらそれを示す資料は無いようだ。
 
 菅野の再渡米について、「公文録」「辛未十二月二十四日 正院御中 兵部省 前田献吉ら六名は県費か自費留学で、学科熟達したら海軍から留学費用を用立てくださるよう依頼申出だが、尤菅野覺兵衛は今般帰朝致候へ共尚又速に被差遣修行致候様被仰付度此段申出仕候也」 (『幕末明治海外渡航者総覧』 留学期間1870 - 1874)
 
 ニューブランズウィツクを中心にした留学生の生活振りが、永井荷風の父永井久一郎(尾張藩)の「禾原先生遊学日記」(1871.8-1871.12.31)によってわかるので、抜粋引用する。 「8.22.横浜発 9.12サンフランシスコ着 9.28ニュ−ブランスウイキに至る第十字杉浦弘蔵(畠山義成、薩摩藩)菅野一覚(覺兵衛?) 両君を訪う白峯駿馬伊勢佐太郎(横井左平太、肥後藩)・・・至る蓋し杉浦君帰朝する故也・・・第二字白峯に従って医家に至る・・・  9.30・・・夜白峯及田尻(稲次郎、薩摩藩 )を問い留学地の巨細を問う」白峯兄を毎日のように訪ね、入学のことや個人レッスン、宿舎探しなど世話になっていることが書かれている。「11.17.屋外の雪僅かに白し病起散歩して書林に至りウィルソン萬国史を得帰路菅野一覚伊勢佐太郎を問う両兄帰朝せんとす握別す 12.20.長谷川雉郎(姫路藩)トロイに在りて死すと聞き忽退散し白峯兄の寓に至る第九字諸兄と同じくデボニーに至り長谷川兄が死体の至るを待つ蓋福井県日下部太郎先年病死此の地に葬る依りて其の側に葬らんが為也・・・長谷川兄海外に来たり強て勉学し病に依りて其の天命を終う嗚呼哀哉涙袖を沾す・・・」この日記に菅野一覺というのが覚兵衛のことと思われ、彼も一時帰国したことが分かる。
 
 そして白峰・菅野が帰国したことのは、『勝海舟日記』「明治七年十二月十二日 白峰駿馬、管林三、千屋□(寅)之助、米国帰府の旨にて来たる。海軍省のあらまし申し聞く。」
 
 『The Rutgers graduates in Japan』W.E.Griffis 1885 には、 「白峰駿馬 Shumma Shiraneは、1871年にグラマール・スクールに通いながら1870,1871年に教師アイサク・ハスブルック宅で過ごした後、1871年にラトガーズ大学に入学したが、1学期で辞めた。 彼は一時的に米国海軍省(造船術)と関係を持ち、神奈川県で有名な造船所を何年もの間運営したが、今は退職している。日本軍の折り畳み式ボートで特許を取得し、 1909年2月1日に天皇によって下賜された。」と紹介されている。(注2)
 
 写真は『男爵山川先生伝』花見朔巳 故男爵山川先生記念会 昭和14、「ラトガース大学同窓会 1766-1916」地域日本の日本人8名の中に 「Shumma Shiramine 1875」
 
 参考文献:佐藤寿良著「ある海援隊士の生涯ー菅野覚兵衛伝ー」、同「続・ある海援隊士の生涯ー白峰駿馬伝ー」、同「土佐史談245号 坂本龍馬の遺志を継いだ男・菅野覚兵衛(千屋寅之助)」、「海舟日記II」勝海舟全集19勝部真長他 勁草書房、皆川真理子著「海援隊士白峯駿馬のその後−忘れ去られた白峯造船所−」霊山歴史観紀要第9号
 
(注1) Mr.verbeck wrote to Dr.Ferris from Tokio,Sept.21,1870:
 “The bearers, his Highness Kacho-no-Miya.and Messrs.Yagimoto,Shirane, and Takato have requested me to furnish them with letters of introduction to you.  The officers of the high government,too,who feel a deep interest jn the welfare of these young men, and who know your good name and the interest you so obligingly take in their countrymen who came to the states  for an education, have joind in the same request, bejng assured that they have the best guarantee for the future good of their students while under  your prudent patronage.
(注2)Shumma Shirane,after spending some time in the family of Instructor lsaac Hasbrouck,in 1870 and 1871,  with preparatory studies in Grammar School, entered Rutgers College in 1871, but remained less than one term. He was temporarily connected with the United States Navy department,and was for some years a noted ship-builder at Kanagawa,Japan. Now retired. Decorated by the Emperor,February 1,1909,for having patented a folding boat for the Japanese army.
 
 
松田雅典 天保三年1832 - 明治28年(1895)5月20日
『缶詰時報 明治缶詰人列伝2』の真杉高之著「ジュリーと奇縁の松田雅典」」によると、広運館司長の松田雅典にジュリーが缶詰のことを教え、また長崎郷土史家永島正一氏が長崎新聞への寄稿「缶詰事始め」で、「広運館でジュリーが牛肉の缶詰を昼食に用いているのに驚き、、、ジュリーから缶詰製法を伝授され明治二年に試作した。」と記述している。松田雅典の語学履歴の資料は見当たらないが、松田家から長崎市立博物館に寄贈された資料の伝記には、「旧幕府の末年、済美館の学務掛となる」と記されいるそうだ。また資料中の主に慶応年間の年別藩別長崎英学生二百数十名の名簿である「英学生入門點名簿」は長崎歴史文化博物館蔵であるが、故村瀬寿代さんは「柴田昌吉塾」の名簿と紹介しているが、明治の柴田塾はともかく幕末の柴田塾にしては塾生が多く、また柴田は慶応三年四月には何礼之助共々出府しているので、同月の記録があるのはどうだろうか。名簿の始まりが「慶応元年中秋以来」で、済美館開始と一致しまた末尾に「慶応元年以前」の生徒名も付加されていることから、済美館英学生名簿と考えるが、それでも日下部などの主要人物名がないことも確かであり、公式記録ではないようである。
 
山本松次郎(1845−1902)
高島秋帆の弟子洋式砲術家山本晴海の五子松次郎は、『長崎県人物伝』によると、大村藩医長与専斎やボードインに蘭学や医学を学んだ後、「慶応元年慶応元年新町済美館ペチジャン、フィゲー、平井希昌、志筑龍三郎、長崎県雇教師フルベッキ、デュリー等につき仏語を専修して得る所少なからず。慶応三年済美館教授助に任じ明治二年長崎府広運館仏語訓導となり大句読に進み(略)」
 
写真は皓台寺の山本松次郎の墓と松田雅典の墓、広運館スタッフ(明治二年頃)
松田雅典 天保三年1832 - 明治28年(1895)5月20日
 
紀州藩士陸奥宗光(1844.8.20-1897.8.24)   
『陸奥宗光伯』陸奥宗光伯七十周年記念会 昭和41年発行の年譜に、
弘化元年1844年7月7日誕生
安政5年1858 十五歳江戸に出づ 各所に寄宿・苦学
文久2年1862 十九歳京に上り坂本龍馬と知る
文久三年1863 二十歳坂本龍馬に従い土佐藩士を称し、神戸勝海舟の塾に入り、海軍所修行生となる
慶応元年1865 二十二歳坂本に従い鹿児島長崎に至る。この頃薩摩藩主を称す
慶応2年1866 二十三歳坂本に従い、長崎にて亀山社中に属し海運商事に従う
慶応3年1867 二十四歳4月坂本龍馬隊長の海援隊に入る
明治元年1868 二十五歳正月月11日外国事務局御用掛被仰付(陸奥陽之助)、3月17日徴士外国事務局権判事 (以下略)
「小伝」に「土藩は坂本龍馬を召喚して所謂海援隊なるものを組織し龍馬を以て其隊長に任ぜり伯も亦同隊に属し頗る同隊の為に斡旋する所ありしと云ふ坂本龍馬嘗て人に対して言ふ我隊中数十の壮士あれ然れども能く団体の外に独立して自ら其志を行ふを得るものは唯余と陸奥あるのみと当時伯は更に其姓名を変じて陸奥陽之助と称せり」とあるがゆえにか大浦お慶の所へ隊の資金借入に行かされていたという。またフルベッキ宅に住み込み夫人から英語を習ったともいわれているが、両説とも裏付けできる資料はない
陸奥の洋学については、何礼之助塾に「薩摩藩士・錦戸広樹」として登録・入塾し慶応年間英語を学んでいた記録があるだけである。
 
土佐藩士馬場辰猪(1850.6.21-1888.11.1)
『兆民文集』中江兆民 日高有倫堂に「馬場辰猪君」の章あり。「君維新前に江戸へ出でて英学を修め、余も亦維新前長崎に出でて仏学を修め、余長崎に留まること一周年余にして江戸に赴く。当時君は福澤先生の門に在り、芝新銭座の塾に寓し、余は村上(英俊)先生に従うて深川佐賀町の塾に入り、時々鍛冶橋なる土佐藩邸に往き、君と相見て相話せり(略) 」
 
自由民権運動家の馬場辰猪の弟で英文学者馬場孤蝶(勝弥)著「馬場辰猪自伝」によると、江戸福沢塾の後、明治元年1868四月さらに英語学習のため長崎の広運館に入学するが、福沢塾より教え方がなお一層不完全で学生を教える先生がほとんど居なかった。彼は英語の知識においてはずっと進んでいたので他の生徒に教えていたほどであった。フルベッキの援助を得て合衆国史と万国史を読了したが、長崎の生活に満足できず、翌二年岩崎弥太郎の上阪に従者名義で米国汽船に同乗して九ヶ月間の長崎滞在を終わる。
 
参考文献:『馬場辰猪』著者安永梧郎 著出版者東京堂 明治30年
 
 
長崎の洋学校のフランス人教師について
ベルナール・プティジャン(1829.6.14-1884.10.7)
1863年(文久三年)8月来崎、1865年1月から江戸町の語学所で50人の生徒にフランス語を教え始めた。大浦天主堂献堂式の1ヶ月後3月17日信徒発見、翌年日本司教に任ぜられるが、1867年から明治初めにかけて信徒の捕縛拷問流罪(浦上四番崩れ)が起こる。11月帰国、翌年夏帰崎するが第一回ヴァチカン公会議に招かれ伊・仏へ、普仏戦争のため1870年12月長崎着翌年4月横浜へ
 なお前述「居留場外国人人別調帳」にはプティジャン Bernard Petitjeanは、「1864元治元年正月 プチシン 南山手26番地仏フネレット借地住居、 プーチソン、プェティージャン、ヘティーシャン、ベティーシヤン、ペティーシャン、ホットジヤン、1883明治十六年十二月三十一浪ノ平山手乙壱番地カトリック法教主 ペティージャン」なとで記載されている。
参考文献:『長崎フランス物語』富田仁 (株)白水社 1987
 
レオン・デュリー (1822年5月12日フランス ランベスク生 - 1884.10.7)
1862年来日
1863(文久三)年7月長崎へ 大徳寺に仮領事館 初代(副)領事
1867(慶応三)年1月横浜出港一時帰国時パリ万博幕府特使に同行・世話通訳(箕作麟祥)
1868(明治元)年 長崎へ帰任
1870(明治三)年 普仏戦争のため領事館一時閉鎖・辞任、10月広運館フランス語教師に正式就任
1871(明治四)年 10月京都府へ
 
『長崎県史稿 学校一』
広運館
(略)洋学は則ち米利堅人ウエルへツキなる者あり其教師に任す三月済美館を広運館と改称す(略)明治二年三月英仏学教師ウエルへツキ徴に応し東行す蓋し東京開成学校に転任するなり是に於て更においてさらに米利堅人スタートを傭い以て英学教師とす而して仏学教師は暫時未だ適任の人を得ずしばらく欠員となる(略)明治三年十月二十八日仏人レオンデュリー氏を雇い仏学教師とし以て其欠員に充つ(略) 明治四年七月 仏学教師レオンデュリー氏任期将に満んとす乃ち再び十二ヶ月間を約し其後任を為さしむ(略)
 明治三年学生数国学生百人漢学生十七人英学生百十一人仏学生四拾八人魯学生二十一人算術生五拾二人(集合写真はレオン・ジュリーと45名の生徒、上野彦馬撮影局)
フルベッキ去った後広運館のフランス語外国人教師が一時欠員となるが、日本人教師平井義十郎や名村泰蔵、山本松次郎がいる。
 
長崎幕末史料大成1 仏朗西官吏往復
コンシュル寓居
番外 去ル二十日第三号六十三年第一月九日附之書面致披閲候コンシュル館地所被見立度と之義且又コンシュル館造立迄大徳寺被借受度旨被申越右は懸り之もの差遣し委細可為及談判候此段及答候謹言
文久二年十一月三十日         大久保豊後守
えるでゆうりぃ足下
 
 なお『幕末・明治期における外国人居留地名簿』長崎県立図書館郷土史料叢書の「居留場外国人人別調帳」にはレオン・デュリー Leon Duryがいろいろな呼称で記載されている。「1863文久三年正月 仏朗西人 仮岡士館宿寺(大徳寺) 副コンシュル エルテューリー、1865慶応元年閏五月改 仏朗西岡士館南山手七番地所 コンシュル エルデュリー、1870明治三年 南山手七番英ミッチエル借地 仏 ヱル、テュリー」など
 
webサイト『Nagasaki Foreign Settlements 1859-1941』では、「1862.11.21 来崎、(1863年フランス仮領事館 大徳寺)、1864年 大浦42C フランス領事館 その後南山手7番地」 フルベッキは仮領事館が大浦へ移った後、大徳寺へ引っ越した可能性が高い。
 
参考文献: 『お雇い外国人 第5 教育・宗教』 重久篤太郎著 鹿島研究所出版会 1968 レオン・ジュリー
 
 
 
中江兆民(1847.12.8-1901.12.13)と西園寺公望(1849.12.6-1940.11.24)のフランス語長崎遊学
「東洋のルソー」と言われた中江兆民(篤介)は『中江兆民全集 別巻』の「年譜」によると、
弘化四年1847十一月一日 土佐国高知城下に生まれる。
慶応元年1865九月細川(潤次郎)の推薦で英学修業のため長崎派遣を命ぜられる。十月長崎へ出発。長崎で平井義十郎に就き、フランス学を学ぶ。坂本龍馬を知る。
慶応二年1866この年江戸遊学の志を立て、後藤象二郎から二十五両の援助を受け外国船で江戸へ向かう。
 
『兆民先生』幸徳秋水 (伝次郎) 著 (博文館, 1902)に「慶應元年十九歳にして、高知藩留學生となり長崎に游び、平井義十郎先生に就て、始めて佛蘭西學を修めたり。」とあるので、唐通事平井義十郎のフランス語関連について抜粋するが、平井が仏語習得したのはいつ誰からかはフルベッキ他であろうが明確ではない。
 
長崎歴史文化博物館蔵『履歴書 平井希昌(義十郎)』には、
慶応元年九月 (二十七歳) 右者済美館詰切申渡候
慶応二年六月 (二十八歳) 右者仏蘭西公使へ差添へ小倉表御用差遣候間早々容易可致候
同年 十二月 金七百疋 右仏国新聞紙翻訳等之儀骨折取扱候二付被下之
同三年六月(二十九歳) 長崎奉行支配調役並格被仰付(略)且又通弁御用頭取可相勤候(略)
明治元年二月 (三十歳) 長崎表通弁役頭取被仰付候事
同年八月 広運館掛兼勤申付候
同年九月 外務局長被仰付候事
同二年九月 (三十一歳)外国管事務所掛兼裁判所弁務申付候事
同年同月 広運館頭取兼申付候事
同三年三月 (三十二歳)御用之儀候条至急上東京候様民部省ヨリ御達有之候二付早々用意可致候
 
中江兆民の {仏学塾関係資料}の「家塾開業願」には、
「高知県貫属士族中江篤助 明治七年八月
一教師履歴
慶応元年碕陽に赴き諸家に就き学ぶこと一年慶応二年江戸に遊び村上英俊に学び半年の後浪華に転遊し明治三年東京に移り箕作麟祥に受業し二年にして大学南校教員に列し明治四年十一月仏国に遊学し在留二年六月にして帰朝総て学ぶこと十年
但し東西転遊の間及び時変に遭遇し業を廃せし時間も十年の中に包容す
−学科  仏文学 以下略  「中江兆民全集17」中江篤介 岩波書店 1986」」とあるので、平井義十郎のみならずプチジャンや名村泰蔵などからも習ったことことが考えられる。
参考: (gooブログ)鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」
 
 西園寺公望は、1870明治三年四月長崎へ、北山望一郎名で広運館へ入学、レオン・デュリーから仏語を習ったと言うことは、デュリーは正式採用(明治三年十月二十八日)以前から広運館でフランス語を教えていたことが伺える。当初三ヶ年の予定(公文録 「西園寺公望長崎於テ三ヶ年間仏学修行願 明治三年六月」)が、「西園寺公望仏国留学ヲ命ス 明治三年十一月二十日」が出される前十一月十二日郵船で長崎を離れる。西園寺公二十二歳の七ヶ月間の長崎遊学であった。永昌寺下の志津木伸太郎(阿蘭陀通詞志筑家別家?)邸に下宿、長崎歴史文化博物館に乗馬姿の写真がある。
 
 『西園寺公望傳 別巻二』自伝草稿Iに「庚午の春、西京に帰り、畿内諸州を遊歴し、更に長崎に遊ぶ、予思へらく、外国に遊ぶ者、其国語を解せざれば、支梧多かる可しと、則ち広運館に入塾し、仏語を学ぶ、閏十月、万里小路、石野等より書を寄て云く、近日政府、大名□□生徒を海外に出すの議あり、速に東京に出て、事を図らば必ず足下の志を遂げ、且内閣、足下の洋航を欲する人ありと、余乃ち志を決し、十九日発する米国船にて上東せんとす、(中略:病に罹り翌月)余足十二日の郵船にて上東せんことを決す、往来印鑑を受く、野村宗七より楮幣百両を借る、旅費の為なり、十(十一)月十二日、(迎陽亭に)諸友と別飲し、長崎を発す、」 この頃広運館のフランス語教師には、名村泰蔵や助手格に山本松次郎・松岡良平がいるが、別稿で取りあげたい。 尚明治十四年1881西園寺公望は中江兆民らと東洋自由新聞を創立している。
 
参考文献:『西園寺公望傳 第一巻、別巻一・二』 立命館大学西園寺公望伝編纂委員会 1990.10/1996.11/1997.10
 
 
明治七年外務省職員一覧(写真)を見ると、寺島宗則外務卿以下百名近い職員(公使など除く)中、上級官吏としてフルベッキの教えを受けた長崎出身者が名を連ねている。
 
 平井希昌や柴田昌吉は既に取りあげたが、 フルベッキと一緒の写真が二枚ある岡田好樹 (1848−1926)の『嵜陽好樹堂譯官許佛和辭典 明治四年辛末正月新鐫』は仏英辞典を和訳したものであるが、名古屋大学附属図書館中井えり子著「『官許佛和辭典』と岡田好樹をめぐって」に詳しい。この辞書はフルベッキと関係の深い上海の美華書院で明治四年に印刷されている。また翌年には島田胤則、頴川泰清編『和英通語捷徑』もこの印刷所が使われた。
 高谷道男編訳『フルベッキ書簡』新教出版社の1872年6月22日付フェリス宛書簡には、岩倉使節団の「伊藤,大久保,及び寺島の諸卿とともに、わたしの生徒の何人かが随行しました。とくにその中の岡田にお会いください。主がこれらの人々を立派に導き賜わんことを。」とあり、この使節団のメンバーには、一等書記官として、長崎出身の何礼之や福地源一郎がいた。
 文久3 年(1863) 10 月5 日 何礼之の「公私日録」に英学所の直試受験者49名の中に島田種次郎(胤則)や穎川永太郎、上野景範らと共に岡田誠一としての名があり、その後済美館や広運館の英語教師となった。集合写真は明治二年フルベッキが長崎を離れる頃に、広運館のスタッフと一緒に撮ったものである。蛇足だが郷土史家渡辺庫輔『長崎町づくし』によると、岡田好樹宅は馬町の当会例会場のすぐ近くにあったようだ。
 
「追記」田中彰著『岩倉使節団の歴史的研究』(株)岩波書店の使節団107名と後発20名の団員に、岡田好樹の名前はない。実は、使節団が条約交渉の全権委任状を持参していなかったため、取りに帰った大久保・伊藤と共に、明治五年五月寺島外務卿に随行して渡米英したことが、『大日本外交文書 第五巻』の「特命全権公使等派遣の件」に「外務少記 岡田好樹 大辨務使寺島宗則英国在勤被仰付候二付随従被仰付候事」の記録がある。また「明治十二年二月十九日内務少書記官 於本局摺立相成候群書類御入用に付御引渡申度」には、「内務省図書局長権大書記官何礼之代理内務少書記官岡田好樹」があり、何礼之の下で働いていたことが分かる。
 
 岩倉使節団の四等書記官だった池田政懋(ェ治)を『大礼記念長崎県人物伝』長崎県教育会 1919から抜粋する。「維新前にあたり仏蘭西語を修めて其の学に精通し徴されて新政府に仕え文部省に出仕し、後外務省に転じて訳官たり、明治四年岩倉右府大久保木戸諸卿欧米に使節たるにあたり、福地源一郎何礼之などと共に随行を命ぜられ各国を歴遊し彼我の間に鞅掌し帰朝後清国天津に領事館の開設せらるるや選ばれて其の(副)領事に任じ功労多し後長崎税関長に転じたりしが在勤中病んで没す。」
 
石橋政方(1840-1916)は、代々長崎小島郷の蘭通詞の家に生まれる。安政五年に神奈川詰になる。大正五年『石橋政方叙勲許可書』から抜粋すると、長崎で家塾を開いて蘭語を教え、明治元年一等訳官となり、外交交渉に活躍する。横浜英学校で英語を教え、英国公使館書記官だったアーネスト・サトウと共に英和辞書を著述し、和訳に初めて羅馬字を用いた。
『万延辛酉歳刻 英語箋 自琢斎蔵版』石橋政方撰; 中山武和校正  (崎陽石橋政方自序 英単語集、会話集)はネットで閲覧できる。校正の中山は1849年に米人ラナルド・マクドナルドから英語を習った14人の蘭通詞のひとり中山兵馬である。
 
鄭永寧(1829.9.8-1897.7.29)は、吉田松陰が嘉永三年1852長崎西遊の時何度も訪ね、また何礼之助や平井義十郎らに英学を進めた唐通事鄭幹輔(1811-1860)の養子である。 明治四年日清修好条規に調印に続き、この条約の批准書交換のため、明治六年副島種臣外務卿が清国に渡った時も随行している。同年二月二十七日公文別録に、「外務少丞平井希昌外務少丞鄭永寧ヘ達 特命全権大使副島種臣清国ヘ被差遣候ニ付為二等書記官随行被仰付候事」とある。『法国律例』 鄭永寧 訓点 (司法省, 1884)は国会図書館デジタルコレクションで検索閲覧できる。
 
 最後に唐通事柳屋家の七代目柳屋(谷)謙太郎(1847-1923)についてのメモ。『徳川時代に於ける長崎の英語研究』古賀十二郎 著 九州書房 1947 によると、慶応元年済美館の英語はフルベッキ、何礼之助、平井義十郎、柴田大助(昌吉)、横山又之丞、柳屋謙太郎(19歳)らが教えていたが、慶応三年三月には学頭何、教授方柴田、句読柳屋(21歳)は外国方御用として江戸幕府出府を命ぜられた。
 グリフィスの"Verbeck of Japan"によると、長崎東山学院院長でもあった大儀見元一郎は、学生達はフルベッキ博士の処に自分たちが諸友の様々な本を持参して、天文学や航海学、数学、測量学、物理学、化学などを学んでいたという。特許局長の柳谷謙太郎は、築城学(fortification)を博士と勉強していたと彼自身が語ったそうだ。
 明治四年に運上所規則取調のため米国留学したことが、永井久一郎の日記でも分かる。また明治十年代の外務省記録には、在アメリカ桑港領事柳谷謙太郎名の作成史料が数多く残されている。
 
 残念ながら島田胤則と穎川永太郎の詳細は分からない。穎川を宮田安著『唐通事家系論攷』に探るが見つからない。同書で外務省勤務は明治三年三等書記官穎川保三郎があり、もうひとり明治元年以降東京府市場通弁、外務省書記官、ニューヨーク領事、神戸税関長などを歴任した穎川君平がいる。次回は長崎出身のフランス語教師名村泰蔵と山本松次郎、志筑龍三郎に取りあげてみたい。   参考文献:『辞書遊歩』園田尚弘・若木太一編 九州大学出版会など
 
 
洋学校フランス語教師(長崎出身)
 長崎出身フランス語教師三人をあげて、フルベッキに習いあるいは共に働いた長崎じげもん(地元人)については終わりにしたい。
 
大審院検事長名村泰蔵(1840−1907)
明治40年従三位勲三等叙位裁可書を引用する。「(前略)夙に泰西の学問に志文久より慶応に亘り蘭英独仏の語学を研究し慶応二年仏国博覧会へ出品に付、附添申付けられたりしが、明治元年帰朝の上長崎府の上等通弁役訳申付けられ、且つ(広運館)仏学局助教を兼ね明治二年九月仏学教導助申付けられ、官禄三十三石下賜せらる、明治五年二月に至り司法省七等出仕仰付けられ、同年八月司法卿江藤新平欧州各国へ差遣せらるるに付随行仰付けられ、滞欧中彼の地の制度を調査し、明治六年十一月帰朝するにあたりて仏人ボアソナードを政府の法律顧問として伴い帰り、爾来ボアソナードの講演及び起草には奮って通弁翻訳の任にあたり、勉めて泰西法律の普及に尽力(後略)}
著書に『独逸刑法』名村泰蔵 訳 司法省 1882、 『仏国刑法講義』ボアソナード 講義,名村泰蔵 口訳 司法省 1878など多数。
 
 
3月11日投稿記事と一部重複するが、済美館で中江兆民と机を並べた山本松次郎(1845-1902、西洋流砲術家高島秋帆の高弟山本晴海の第五子)は、その履歴『晩翠慶歴』によると、「慶応元年八月十五日より同三年十月下旬に至る迄は(佛朗須学専修の為蘭学及び医学を廃し)本県本区新町の済美館に就て御雇教師ペチジャン氏フィ一ゲ氏及び佛語教長平井希昌氏教員亡志築龍三郎略氏より尋常教則、エフペーベ社編輯の佛朗須文源等の句読を受け、ノエル氏シャプサル氏が佛朗須文典、コルタンベル氏が近世地理小程、モンウエル氏が化学告示等の疑義を質す。
 
 明治元年正月十五日より同四年十二月廿四日に至る迄、 本県御雇教師フルベッキ氏 ヂュリー氏に本区旧西邸跡広運館に就いてモンウエル氏が理学告示、ヂュリー氏が神代小史、上古小史、中世小史近世史一及びエフペーベ社編輯の教戯読本等の疑義を質ス。」また『長崎県人物傳』にその職歴をみると、「慶應三年濟美館教授助に任じ、明治二年長崎府廣運館佛語訓導となり大句讀に進み、同四年十二月に至る(西園寺公望侯、井上哲次郎博士亘智部忠承博士等在學せり)明治三年外務省出仕を命ぜらる母の喪に依りて辭す後日見村里正となり、裁判所譯官となり、以文會瓧新聞編緝となり、脩立社産業雜誌編緝長となり十一年十月上京平井希昌の囑により政府の爲に佛蘭西書を譯せしが、病によりて歸郷し終に長崎縣師範學校一等助教諭たりしが、明治十九年辭職して後又仕へず、明治十六年樂山堂(私塾)を紺屋町に起し子弟を教え傍ら、東山學院、羅甸學校に漢籍を教授す(後略)」
 著書に『袖珍孛語譯嚢』山本松次郎編 明治五年がある。
参考文献:『幕末明治初期フランス学の研究』田中貞夫 国書刊行会
『長崎時代の中江兆民 −そのフランス語学習の周辺−』富田仁
『辞書遊歩』園田尚弘・若木太一編 九州大学出版会など
 
志筑龍三郎(1848-1881)
 天文、物理、地理誌、蘭学者、阿蘭陀通詞など多才な志筑忠雄(忠次郎)(光永寺)(1760-1806)とは分家志筑氏八代目阿蘭陀通詞龍太(本紺屋町、光源寺)の次男志筑龍三郎も阿蘭陀稽古通詞・フランス語教師である。渡辺庫輔著『阿蘭陀通詞志筑氏事略』の末頁に「慶応四年御達御触書に、上等通弁役志筑龍三郎、下等通弁役富田裕太郎、右外国管事役所掛申渡候入念可相勤候、辰十月」「志筑龍三郎、右先達而仏学為伝習土佐少将方へ雇入之義承届候処、此節致帰崎候旨届出候間可得其意候、辰十一月」とあるが、不明な点が多かった。
 
 中江兆民や山本松次郎の仏語先生であった志筑龍三郎が、阿蘭陀通詞堀達之助の子であったことが、二冊の文献で解明されている。
 1853年黒船来航時の通訳であった堀達之助の玄孫堀孝彦著『開国と英和辞書』の「第八章 達之助の子息たち」によると、志筑龍三郎は堀達之助の四男貞一のことで、「つとにフランス語を学び、上京して陸軍省七等出仕、明治十四年父達之助に先んじて三十四歳で亡くなる。」とある。 更に同氏著『英学と堀達之助』の第五章四男・寛之助(志筑龍三郎・堀貞一)に詳しく、志筑竜太の子ではなく孫娘と結婚して養子となり、明治九年に再び堀姓へ戻ったとのことである。大音寺の堀家墓の一基に「堀貞一主奥城」「和蘭譯司志筑氏嗣更龍三郎後逐」「称貞一矣夙學佛朗西語維新初在」などの碑文が有る。フルベッキの最初の英学生候補の一人堀一郎は長兄で、五代友厚の腹心堀孝之は次兄である。
 
[追記]長崎出身ではないが、松本良順の長男松本_太郎(1850-1879)は15才の時長崎遊学、オランダ人ボードイン(1862年、ポンペの後任)にオランダ語・洋算・医学などを、ハラマタ(1866年)からドイツ語・化学を学び、翌年ボードイン帰国の折り緒方惟準と一緒にオランダ留学する。『長崎洋学史 上巻』古賀十二郎著には、岡田好樹談として、「松本氏は毎日一時間ずつ江戸町の語学所に来て、フルベッキ氏に就いて、独逸語を学習されました。今一人、養生所(精得館、小島郷)より江戸町の語学所に通うて独逸語を修めました。」
 
墓写真向かって右から、志筑龍三郎の養兄志筑辰一郎(1832-1857)(光源寺)、山本松次郎(晧台寺)、名村家建立供養塔(晧台寺)、堀貞一(大音寺)
 
 
野村盛秀(薩摩藩出身、長崎二代目県令)の日記によると、慶応二年三月から約二年間でフルベッキに十数回面会相談に出かけている。その頃フルベッキは薩摩藩蔵屋敷やヤマキ長崎店から目と鼻の先の大徳寺に住んでいる。以前この日記については一部分取りあげたことがあるが、岩崎弥太郎の日記を彷彿させるもので、明治二年までのフルベッキ面談について抜粋する。
『野村盛秀日記』
慶應二年1866
三月九日 今朝フルベッキへ仁禮、江夏、林泉三同列その他談判に行く同十一日 喜入氏森氏とフルベッキへ差越候同二十日 九前山田屋にボードイム参り候付喜入氏森氏と出会い夫れより林泉三同伴江夏氏仁禮氏福地氏吉原氏喜入氏とロビネットに差越候帰りにフルベッキに参り遠航一條相話し八田先生諭托之一條相頼先生の送り物神代系図一巻差送候処大に相喜び候同人よりも先生に一冊差出度との事
同二十八日 ガラバ船にて帰り候に英岡士並びにラウダ夫れよりフルベッキへ市来大人一同差越し
四月十八日 八後フルベッキへ林泉同伴差越
五月二十一日 夜入前迄八田知紀大人へヘルベッキ尋問一條旁相認置く書状等差し遣わす同 二十五日 八田大人より亜人フルベッキへの詠歌林泉三へ同断届け物相頼八月二十七日 岸良彦七殿と出島ボードイムへ差越しフルベッキも面会十月二十九日 今四字よりフルベッキへ話に差越候処留守
慶応三年1867
十二月十三日 三字市来氏岸良彦七伊東二郎兵衛とフルベッキへ差越帰りに大笑楼森並びに太平次苞遊も来たり
同十九日 昨日亜飛脚船コスタレーカ兵庫より入津の由付英岡士館並びにフルベッキへ差越し事情を聞く
慶応四年1868
一月五日 フルベッキへ岸良彦七と差越す
明治二年1869
一月一日諏訪社を参詣夫れより大楠社に参詣招魂場に同断ウエルヘッキへ見舞写真は原典 写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション
 
 
長崎時代ではないが、エマ・フルベッキ(1863-1949)とクララ・ホイットニー(1861-1936)はお友達!
『 勝海舟の嫁 クララの明治日記 上下』クララ・ホイットニー 一又民子 高野フミ 岩原明子 小林ひろみ訳  中公文庫1996  https://www.amazon.co.jp/dp/4122026210 からの抜粋
 元治元1864年勝海舟(1823-1899)長崎滞在の時、梶クマ(愛称お久1841-1866)との間にできた三男梶梅太郎(1864-1925)は、1886(明治19)年にクララ・ホイットニーと結婚するが、クララ14歳の時、商法講習所(一橋大学の前身)創設者の一人である父ウィリアム・ホイットニーに連れられて来日する。彼女の青春日記にフルベッキ一家がよく登場してくるので、いくつか引用・抜粋させていただく。
 1876年(明治9年) 独立百年記念日七月四日火曜日
例年は好天の独立記念日があいにくの土砂降りの雨、この記念日を日本に知らせるような礼砲がなるのを期待して一生懸命祈っている。上野での祝賀式に出かけると、ヴァーベック(フルベッキ)夫妻とウィリイ(ウィリアム1861-1930)とエマと会う。「その他にも大勢いたが、皆日本で最高のアメリカ人ばかりだ。」「ウィリイ・ヴァーベックは物語の本に出てくるような正直で信頼できる少年である。」
  七月十日月曜日
スージーと私は五時に、近くに住んでいる エマ・ヴァーベックの家を訪ねた。エマはいつもの落ち着いた無頓着な表情で戸を開けたが、私を見ると飛び出して来て、「まあ、クララ、あなたが来るとは思わなかったわ」と言いながら私を家に引っ張り込んだ。客間に行って、五十個ぐらいはある茶瓶の収集を見せてもらった。チカリングのピアノが二台あり、ウィリイ・ヴァーベックが十二ドルで買った美しいアラビア馬がいる。ここでしばらく過ごしているうちに、スージーとエマはお互いにあまり好きでないことがわかった。
1877年(明治10年)
一月二十四日水曜               
まずエマの家に立ち寄ったら、エマは<洋服を着た>小さな日本人の少女に教えていたが、口実を設けて授業をやめ、外出の用意をして私と一緒にヴィーダー家のジェニーとガシーに会いに行った。」この小さな日本人の少女は、『高橋是清自伝』に出てくる佐々木高行の令嬢静衛であろう。
 
フルベッキ一家は1878年七月末帰国八月二十四日サンフランシスコ着)
九月二十四日火曜
ジェニーとガシーはエマから手紙をもらった。エマはサンフランシスコが気に入っているが、女の人たちの太い腰や大きい胸に驚いている。ウィリイはフロックコートを着た洗練された格好の同年配の青年と並ぶと、長い足に大きい足、短いジャケットでとても奇妙に見えるそうだ。ヴァーベック夫人は日本が恋しくて、エマと自分自身のために日本へたくさんの絹の服を注文された。新品の洋服の関税はとても高いのに、馬鹿なことだ。エマは私にも手紙をくれると約束したのに書いてくれない。
 
翌年九月フルベッキは再来日 
1879年明治12年
十二月二十八日日曜
祈祷会には大勢の人たちが参加した。ヴァーベック氏はが会のリーダーとして来られ、キリストの奇蹟を主題に取られた。ヴァーベック氏は日本語が本当に上手で、英語と全く同じように日本語を話す。言葉は丁寧で、日本人と全く同じ語調や熟語を使う。本当に彼ほど流暢に正確な日本語で話ができる外国人は見たことがない。参加者は皆大変熱心だった。
 
更に翌年妻と三人の子供が再来日
 
1883年明治16年
五月十八日金曜
今日は日本福音電動会の閉会式が行われたがそこで面白い光景を見た...劇場久松座はおよそ二千の人々で上から下まで通路までいっぱいであった。(略) ヴァーベック氏は日本人の間で敬われていて、一同を尊敬をもって傾聴した。
 
1884年明治17年
 四月四日金曜
京都と大阪に盛んなキリスト教の信仰復興運動が起きているようである。(略)ヴァーベック博士は日本語で話をされた。博士を迎える拍手と周りの人達の博士を褒めるひそひそ話しを聞けば、どんなにヴァーベック博士が人気があるかがわかる。
 
1886年クララ・ホイットニーは梶梅太郎と結婚、(エマ・ヴァーベックの結婚は1899年)
1887年明治20年
四月十七日日曜氷川町4番地
「この年月は何と長く、また変化に富んだものであったことか。今日私は一人で行ったのではなくて、かわいいウォルター坊やを連れて行った。この子は梅太郎と私の息子で、生後六ヶ月になる。私はとても自分が変わったように感じた。私自身が母親になり、母親のお墓に花を飾っている。私が亡くなった時に、私の可愛いベイビーは、今私が母のお墓にしているように、同じ真実の涙を私の墓にそそぐことができるであろうか。」
聖無動寺の梶クマの墓(左)、フルベッキ家族写真2016年12月27日の再掲
 
 
薩摩英学の先駆者 上野景範(1845 - 1888)
 上野景範が、直接フルベッキの授業を受けたかは分からないが、次の履歴から、延べ4年半ほど長崎で語学修業している。
「1856年(13歳)安政三年四月学資三人賦并銀三拾七枚半を藩より受け長崎に抵り訳官本間某に就て蘭学を修め後英学に移る」 本間訳官とは本間郡兵衛のことであろう。勝塾蘭学講師で海軍伝習所の通訳、伝習所閉鎖後は慶応元年1865薩藩開成所の英学訓導師(講師)になるまで約九年間長崎に滞在し、英学修業やフルベッキの日本語教師、文久二年1862には遣欧使節団の一員となっている。本間郡兵衛と薩藩開成所教授で薩州商社共同提案者とも言うべき石河確太郎との文久年間などの書簡が数多く残っている。(詳細はfacebookページ2016年10月22日と23日を参照)
 
「1858年(15歳)安政五年七月帰藩 造士館で漢学、1861年(18歳) 文久元年八月長崎、1863年(20歳)文久三年十二月薩摩藩山下蘭渓、芸藩長尾幸作、小林六郎と上海へ密航」 何礼之助の「公私日録」文久三年1863十月五日英学所の直試受験者49名の中に上野景範の名前がある。
 
「1864年(21歳)同四年一月二十四日長崎送還される。、五代友厚・松本良順・野村宗七らの助けにより四月鹿児島帰る。六月開成所開設され、句読師となる。
1865(22歳)慶応元年三月長崎、英人ウオートルスの通弁で大島白砂糖製造所へ 1867年(24歳)同年六月鹿児島へ、再び開成所句読師、1868年(25歳)明治元年正月外国事務局御用掛 神戸運上所に勤務」
「1874年明治七年三月外務省職員一覧表」の上級職に外務卿寺島宗則、少輔上野景範、大丞森有礼などの鹿児島県出身者が記載されている。
参考文献「幕末の長崎と上野景範 長崎と薩摩の文化交渉史の断片」大久保利謙 長崎談叢51
 
第二次薩摩藩米国留学生
 高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』1867年(慶応3年)3月1日長崎 J.M.フェリス師宛
「私は有力な薩摩藩主の五人に紹介状を書いて与えました。彼らは五カ年間の学資を潤沢に持っておりますし、ニューヨークの一流人物に紹介状を書きましたから、あなたにご迷惑はかけないでしょう。これら五人の薩摩藩士は一度か二度しかわたしの家に来たことがないから横井両人(左平太・太平)とは比べることができないと思います。彼らは家柄は良いが普通の異教徒です。」
 
この薩摩藩の五人は、仁礼景範(島田平輔35歳)、江夏蘇助(久松35歳)、湯地定基(冶右衛門、工藤十郎23歳)、種子島敬輔(吉田伴七郎22歳)、吉原重俊(弥次郎、大原令之助21歳)である。慶応元年第一次薩摩藩英国留学生に続く第二次薩摩藩米国留学生第一陣は、フルベッキや横浜のS.R.ブラウン宣教師の世話により、慶応二年三月二十六日に長崎を出港、長崎在住の米人貿易商W.M ロビネットが案内役として同行して、マサチューセッツ州モンソン・アカデミー(写真)の英語科に入学する。
 
 『野村盛秀日記』慶応二年三月に、出国前フルベッキへ相談に出掛けたことが記されている。
「三月九日 今朝フルベッキへ仁禮、江夏、林泉三同列その他談判に行く」
「三月廿日 九前山田屋にボードイム参り候付喜入氏森氏と出会い夫れより林泉三同伴江夏氏仁禮氏福地氏吉原氏喜入氏とロビネットに差越候帰りにフルベッキに参り遠航一條相話し八田先生諭托之一條相頼先生の送り物神代系図一巻差送候処大に相喜び候同人よりも先生に一冊差出度との事」そして「三月廿六日江夏蘇助仁禮平輔湯地冶右衛門吉原彌次郎種子島綱輔今晩米理堅航に付暇乞に行」
 
 犬塚孝明著『仁礼景範 (1831 〜 1900)航米日記』から抜粋する。
「慶応二年1866十月廿七日 晴 二時よりホーク所江行ケリ。帰二「ポードル」ト云人江「フルベッキ」ヨリノ書状ヲ届ク。外二両人アリ至極丁寧ナリ。テーリスト云人ニモ同断、最老人ミストルノ由、別テ丁寧也、夜食後ペンホクケット取入二行ケリ。」
 
約二年後、「1868年九月四日 朝食後ホーク所江差越致談判候十一時頃帰居早候処永井(五百介、吉田清成)来れり。昼後より再び致談判細事申含帰れり。五時より永井同道にて新ブランゼキ(ニューブランズウィック)江差越、肥後(横井左平太・太平兄弟)、越前生日下部太郎、勝(小鹿)君、其外松村(淳蔵)、杉浦(弘蔵)江面会及長話、其夜永井氏宿江滞在也。 (永井、松村、杉浦三人は慶応元年薩摩藩英国留学後の渡米組)」
 
十月二十八日横浜着。「十一月一日 致上陸再本船到り候節「ベルベキ(フルベッキ)」江面会ス。彼レ大日ヒニ悦ベリ。ロービネットモ当分所大阪江居ると久松告来レリ」。(参照:下記フルベッキ書簡)
「旧十月四日1868.11.17 野村宗(盛秀)来ル。昼後前田弘(正名)来ル。帰ル後谷(谷元)同道ニテ「フルベキ」ヲ見ル二行キ面会。彼云明日メリケン江行ク船アリ。依テ取込ト云エリ。我ニモ書状ヲ贈ランコトヲ欲シ帰レリ。其夜書状ヲ認ム。 五日 ミストル「ロビネット」中間「スケット」云人商館江書状ヲ遣サンコトヲ願二行キ帰レリ。四時ヨリ「フルベッキ」宅江行ク、彼レ留守故帰レリ。」
 
 1868年11月16日J.M.フェリス師宛フルベッキ書簡「ちょうど渡航の郵便船に乗船したところたまたまアメリカから故郷に帰ってゆく三人の薩摩藩士に会って、一層疑惑を強めたのです。その一人が大阪から都に急遽出発しました。(中略)二人の薩摩藩士は兵庫(大阪)から長崎までの同船客でした。両人いずれもよい人物で、故郷に帰って行きました。この便で薩摩役人から手渡された永井(吉田清成)宛の手紙を送ります。横井兄弟宛の手紙はありません。しかし彼らの古い学友はみなそれぞれの藩に呼び返されました。そしてその彼らのことについてわたしは何も聞かされていません。」帰郷の二人の薩摩藩士は、仁礼景範と江夏蘇助であろう。
参考文献 『歴史探訪 黎明の群像』門田明
 
 
小松フルベッキ大阪会談
 語学教師としてまた奉行・各藩からの各種相談に乗っていたフルベッキは、益々多忙を極め同労者を必要としていたが、1868年の書簡によると、本部からの宣教師派遣が現実味を帯びてきたことが分かる。
 
 1868年5月4日月曜日 長崎 J.M.フェリス師宛書簡(高谷道男編訳『フルベッキ書簡』新教出版社
「とうとう、この港(長崎)で宣教師の強化を計るご予定について承り非常に喜んでおります。それから大阪、そこは最も重要な場所ですから宣教師を派遣してください。もし外に誰も来なければ、わたし自身がそこに派遣されたいのです。」
 
 後継者となるスタウトの名前が挙がる、1868年10月16日 長崎 神学博士 J.M.フェリス師宛書簡では、アナポリス海軍士官学校留学生問題について、
「現在合衆国の海軍兵学校にいる日本の学生のことです。あなたがこれらの青年に対し、深甚の同情を寄せておられること、また彼らが普通教育を受けているのを別に気になさらないことを知って心から喜んでいる次第です。(略)ご指示に従って、わたしは明日大阪に向かって旅立ちます。大阪は帝国の心臓であり、大本営でもあります。私は大阪に行って、あの青年たちの願っている目的の達成ーすなわち、海軍兵学校入学に関し政府の任命と適当な学資の補助のために全力を尽くしましょう。お手紙を受けてからすぐ私は準備にかかりました。そして首府にはあなたの来日を歓待する私の大勢の知人がいます。(略)私はまた、スタウト氏(Henry Stout)の手紙を持参しております。同氏の来日の報を聞きたいのです。同氏夫妻を心から歓迎する次第です。」大阪行きには佐賀藩小出千之助が随行する。
 
十一月初め帰崎して大阪旅行についての報告が、1868年11月16日 長崎 神学博士J.M.フェリス師宛書簡
「先月十七日船で大阪に向かいました。首府の高官宛の紹介状ならびに、あなたからの二通の書簡の日本語訳を添えて参りました。大阪に到着した時、直ちに、外国係と交渉するため、必要な書翰と書簡とを持たせて大阪から都(京都)に右の役人(小出)を遣わしました。 数日後、外務卿の小松とわたしの友人参議副島が、わたしと面会するため都から大阪に来ました。二人はあなたが若い日本人(留学生)に尽くされたご厚意に対し、これを認めるとともに、わたしからあなたに、その感謝の意を表すように申し伝えられました。これら二人の日本人青年(肥後熊本藩横井兄弟)に関しあなたのプランを実行するには何ら困難はないようです。小松氏は現在、天皇に仕えれているけれども、元来薩摩の藩士ですから、彼自身の権限によって遂行するよう、北米合衆国にとどまることを承認しまして、便宜上、次のような分野の研究をするよう任命しました。松村(淳蔵)と永井(五百介、吉田清成) 海軍、 杉浦(弘蔵) 陸軍(兵学)  小原(大原令之助) 外交(政治学)、 吉田(伴七郎) 刑法(法律)、 長沢(鼎) 医学、 (略) 」 小松が約束した留学生は天皇の裁可を得て新政府から任命され官費が支給されるであろうと書いている。ここに記された薩摩藩英国留学生のうち四名の渡米組を含む上記六人の留学生については次回取りあげたい。
 大阪府権判事(九月一九日府判事)であった五代友厚宛の小松帯刀書簡「明治一年九月一二日米ウエルベッキと申人へ早々面会致したく、都合御掛合願う」や小松帯刀玄蕃頭に同行していた何礼之助の日記『公私日録』に「明治元年九月十一日(新暦10月26日)フルベッキ来談茶菓出ス」の記録があるが、新旧暦換算で数日の誤差があるがこの期間のことである。
 
 大阪訪問のことは、W.E.Griffis著・村瀬寿代編訳『日本のフルベッキ』「第九章 大阪への旅」に詳述されているので、参考にしていただきたいが、「彼(何礼之助)はフルベッキへまもなく東京で英学の学校(大学南校)ができるであろうことを告げた。」何礼之助の上司は小松帯刀玄蕃頭である。大学校設立について、三百人の生徒を収容しフルベッキ他三人の教師が必要であることを相談している。「岩崎[弥太郎]を訪ねて、学校設立問題を実際に動かしているのは後藤象二郎であると聞かされる。また留学生たちは次のように選ばれたと聞く。」が、『岩崎弥太郎日記』によると、明治元年八月二十一日大阪着で十一月六日まで京阪に滞在して、ロビネットやグラバーに何度か会っているが、フルベッキは九月十二日(新暦10月27日)「到夷島ヲロス談話久之出、訪フルベッキ不遇、訪ヲールト、ガラハ」に記されているだけで、しかも会っていない。当時大阪府知事であった後藤象二郎の長崎時代(慶応二年十一月ー同三年六月)について、大町桂月著「伯爵後藤象二郎」には、フルベッキが幕末明治の我が国の文明発展に貢献したことやその人徳を讃えて、彼と接することで西郷・伊藤らと同様後藤も有益な情報を得ていたと書かれている。
 
 フルベッキ書簡によると、留学生問題については、小松との会談でその処置を相談し進展があるだろうとの感触を述べているが、半年後の明治二年三月二十三日付公文書「肥後薩州越前三藩士九名ヲ改テ外国留学生トナス」により、肥後伊勢佐太郎(横井佐平太)沼川二郎(横井太平)、越前日下部太郎、薩摩藩六名について正式に政府派遣公費留学生となったことが分かる。     
 
 小松からは甲鉄艦ストーンウォールの引き渡しの件について、相談もあった。この艦は江戸幕府が慶応3年購入予定だったが、戊辰戦争となり、アメリカ側は局外中立としていたものであったが、翌年二月新政府購入となった。一語学教師に留まらず、新政府の相談役としてフルベッキが果たす役割が期待され予感される会談であったと言って良い。
 
 
フルベッキ書簡宛先フェリス師について
長崎からのフルベッキ書簡の宛先は1860 年1 月14 日アメリカ改革派教会外国伝道局
初代総主事アイザック・フェリスIsaac Ferris(1798 〜 1873)に始まり、四通目1860 年10月16 日付から同二代目総主事フィリップ・ベルツPhilip Peltz (1823-1883)宛が約四十通、そして1866 年6 月10 日から同三代目総主事ジョン・フェリスJohn M. Ferris(1825 〜1911)宛が1869 年2月23 日迄の二十通で、上海時代六通や年報を含む七十通近い書簡が長崎時代のものである。アイザック・フェリスとジョン・フェリスは親子で、アイザックがフルベッキを、ジョンはフェリス女学院創立者メアリー・E.キダーMary.E.Kidder(1834〜 1910)を日本に派遣し、またフルベッキたちが日本から送り出した多くの留学生受入に尽力したことから「日本人留学生の父」とも言われる。
彼らの世話になった最初の留学生が横井小楠の甥兄弟左平太と大平であることは、1 月28 日投稿記事「横井小楠と甥横井左平太(伊勢佐太郎)・大平(沼川三郎)兄弟と肥後藩留学生」を参照願うとして、小楠は新政府参与となったので、明治元年1868 九月十五日付兄弟宛書簡で、「幸拙者當時之通り相勤居候へば過分之月給拝領いたし事故来春よりの学料は手許より遣し候筈にて先洋銀三百ドル替せにて此節さし廻し候手数いたし居候処にて有之候。則右ドル高横濱にて替せに致しヘルリス(フェリス)當にいたし遣し申候。何に来月末・十一月初には到着可致受取可被申候。外に享保圓并に一歩金遣申候、ヘルリス親子に可被送候。」亡き兄の子らに対し親代わりの援助金をフェリス宛に礼金と併せて送る旨を伝え、安心して学業に専念するよう伝えている。
同内容の横井平四郎(小楠)からフェリス博士宛英文礼状(明治元年九月十九日1868.11.4, 1869 年3 月23 日受取)がW.E.グリフィスの「The Rutgers graduates in Japan : an address delivered in Kirkpatrick Chapel, Rutgers College, June 16,  1885 「ラトガース大学の日本人留学生」」に載っている。
また同書には岩倉使節団からのJ.M.フェリス博士(写真)に対する礼状も載っている。(写
真右)
ミカドの大使、岩倉、大久保の正式な礼状
日本領事館書記官、ボストン、1872 年8 月5 日。
J.M.フェリス博士殿
拝啓
使節団が米国から出発する前夜にあたり、大使たちは、我が国民や国に対するあなたの長年の変わらぬご好意に対して、再度感謝の気持ちをあなたに伝えたいと願っております。私たちの国の歴史の中でこのような重要な困難な状況下、この国で勉強した日本人学生に対して、あなたが寛大にさしのべてくださった親切な援助と励ましは、私たちには長く記憶に残るものです。
これらの学生たちは現在、その知識がはるかに進歩しているので、我が国にとって非常に有用であり、大使たちはそれが主にあなたのご尽力によるものと受け取っております。
 
最近まで日本では、諸外国は我が国民に対して好意を抱いていないという印象が一般的でした。
この件ではあなたご自身と他の紳士たちが示してくださった寛大な行為は、日本の青少年に関わる教育的関心事に関わるすべての事柄と同様に、この印象を訂正するのに多いに役立ち、他の全ての影響が組み合わさった以上に、両国の友好関係を強固にすることでしょう。
更なる感謝の念を皆様にお伝えください、同様に日本に戻りまして、この件について政府に満足の意を伝えることでしょう。                     敬具
                            岩倉具視 大久保利通
注- 大使の名前は日本語の文字で署名され、書記官が英語の同等語を追加、
 
ニューヨーク、1886 年1 月4 日。
グリフィス博士:
上記の誤解を避けるために、私は個人としてではなく、外交委員会主事として行動し、私の重要性と能力は、そこにほぼ完全に依存していました。個人としての私はほとんど大したことをしていません。日本の歴史の危機的状況(明治維新)下、生徒たちに与えられた援助は、既に名前の挙がっている紳士の方々の温かくて寛大な資金を通してのみ可能であったことが知られるべきです。私は彼らの代理人であり仲介者でしたので、大使の謝辞は私よりも彼らに属しています。                        敬具
ジョンM.フェリス up
 
 
W.E.グリフィス
 これまで度々引用してきた「Verbeck of Japan 日本のフルベッキ」や「The Rutgers graduates in Japan 日本のラトガース大学卒業(留学)生」の他に 『ヘボン 同時代人の見た』『ミカド 日本の内なる力』『明治日本体験記』など多数の著書がある W.E.Griffis グリフィス(1843-1928)はオランダ改革派教会系ラトガース大学在学中、1867年にはそのグラマースクールで留学生横井兄弟に英語を教え、翌年には日下部太郎にラテン語の個人レッスンを行った。1869年同大学卒業。
 
 松平春嶽の斡旋依頼によりフルベッキがアメリカ改革派教会伝道局J.M.フェリスに依頼し、同大学教授会がグリフィスを推薦して1870年12月来日、翌年春福井藩校明新館で化学物理を主に独仏語などを教え、10ヶ月後南校(東京大学前身)で物理学教授を2年半務めて、1875年帰国。この間のことは1871年数通のJ.M.フェリス師宛フルベッキ書簡に詳しく、グリフィスは福井赴任の前一ヶ月間フルベッキ宅に滞在している。1900年発刊の「Verbeck of Japan」の序章には、日本での4年間の親密な付合で日本のフルベッキを知り、伝道局への書簡を入手し、親戚への手紙や彼自身の日記、ノートその他書類を次女のエンマ・フルベッキから借りて出筆したことが書かれている。
 
 グリフィスは1926年再来日し、勲三等旭日章を受けるが、翌年6月帰国まで九州・朝鮮・満州・北海道・仙台・福井などを訪ね数多くの講演を行った。長崎には昭和2年2月14日に着き、大浦のジャパン・ホテルで歓迎会が催された。その時の集合写真が長崎歴史博物館に、関連記事が長崎県立図書館蔵の「長崎新聞」「長崎日日新聞」(二月十五日号)に載っている。それによると武藤長蔵高商教授や活水校長ホワイト女史などが出迎え、高商講堂、県立高女、活水女学校、市議会などで精力的に講演を行い、19日島原へ向かったようだが、記事の中には九年間長崎で過ごしたフルベッキのことは記されていない。グリフィスが講演の中で、恩人とも言えるフルベッキについてどう語ったのか興味があり記録を探している。 (I owe what I am today to him.) 参考文献:「グリフィスと福井」山下英一 株式会社エクシート 平成25年
 
 
薩摩藩米国留学生2
 前々回の薩摩藩米国留学生のうち種子島敬輔(吉田伴七郎)、吉原弥次郎(大原令之助) 二名と慶応元年1865薩摩藩英国留学生19名のうち翌々年渡米した杉浦弘蔵陸軍(兵学)・松村淳蔵・永井五百介(吉田清成)海軍、長沢鼎医学がアナポリス海軍兵学校入学に際しての明治政府正式官費留学についてフルベッキは大阪で小松帯刀に相談した。
 
 1868年11月16日書簡の小原は大原令之助のことで、明治15年初代日本銀行総裁吉原重俊(1845-1887)であるが、曾孫吉原重和著「新島襄と吉原重俊の交流」に、1867年モンソンアカデミーで英語を学び、湯地定基に続き1869年受洗し、イェール大学に日本人初入学していることや新島襄との交流が詳しく書かれている。    
   
 種子島敬輔( 吉田伴七郎、彦磨、1844不明)の履歴は不明だが、塩崎智「幕末維新期、米国日本人留学生による英文発信例の考察」によると、1868、1869年モンソンアカデミーの古典科に進み、卒業式で“Introduction of Christianity in (into) Japan” 「キリスト教の日本への導入」と題した英文スピーチを披露しているが、更に一年同科で学んだとのことである。
 
 薩摩藩英国留学生のうち六人の渡米は、幕末動乱の本国からの資金援助が厳しくなり経済生活の安定をアメリカに求め、また異国での生活の中スピリチュアルな世界にピュアな青年たちが感動しての行動だった。1867年7月元在日英国公使秘書であったローレンス・オリファントの誘いで、畠山義成( 杉浦弘蔵)、吉田清成(永井五百助)、鮫島尚信(野田伸平)、森有礼(沢井鉄馬)、松村淳蔵(市来勘十郎)、長沢鼎(磯永彦助)は米国ニューヨーク州ブロックトンのトマス・レイク・ハリスが主宰の新興宗教団体「新生兄弟社」のコロニーに入り、共同生活を送るが、翌年長沢のみ残って他はハリス教団を去る。森と鮫島は帰国し、畠山、吉田、松村はモンソンに居た米国留学生やJ.M.フェリスの紹介でラトガース大学へ入学する。グリフィスの「日本のラトガース卒業生」にある三人を翻訳紹介したい。
 
 杉浦弘蔵(1842-1876畠山義成の変名)は鹿児島生まれで、幕府の密偵の警戒を避けるために、変名を使い日本を秘密裏に去ったメンバー(第一次薩摩藩英国留学生)の一人である。社会主義の植民者トーマス・レイク・ハリスとローレンス・オリアファントの許、エリー湖の近くのニューヨーク州ブロックトンにある農場で、無償で働いた。「肉体を犠牲(十字架)にして、真の知識を得る」という目的のために。その後彼らの許を逃れニューブランズウィックに着き、1867年にラトガーズ大学の科学コースに入学し、1871年まで在学していた。彼は大使館の通訳として任命され世界を回り、ヨーロッパ各地のほとんどの国家元首と会った。 1873年秋に日本に帰国し、政府の3つの省である内務、教育、外務の官職に就いた。東京開成学校(後の東京大学)の校長として、その繁栄と発展ために大いに働いた。しかし絶え間ない職務や過労が、しつこい官僚求職者により更に悪化させられ、肺結核になった。彼は病気回復の希望を持って1876年にアメリカ合衆国独立100周年記念フィラデルフィア万国博覧会を訪れたが、帰国途中に洋上で亡くなった。かつて畠山はキリスト教徒になって、1870年には第二次改革教会のC.H.ハートランフト牧師といっしょに国内外で信念のある生活を送っていた。死に至ったにもかかわらず彼は高官と異教徒(クリスチャンでない)の名誉で葬られました。 日下部ほど華々しい履歴はありませんが、彼は厳格な努力家であった。日本は気高い人物を失ってしまった。
 
 鹿児島生まれの松村淳蔵(1842−1919 市来勘十郎)は、グラマースクールの後1868年にラトガース大学に入学し、1年間在学した。彼は、完璧な学生であり、迅速で明確な理解力を持っていた。彼はアナポリス海軍士官学校で正規のコースを受講し卒業した(1869年12月入学−1873年5月卒業、同期入学の横井左平太は1871年10月中退)。帰国した彼は帝国海軍の指揮官として任官し、彼は甲鉄艦船長となり、海軍中将に昇格した。彼は晩年に失明した。
 
 永井五百介(1845-1891吉田清成)は、1845年に薩摩生まれ。1865年に日本を出発、英国を訪れ、ロンドンで2年間ユニヴァーシティ・カレッジに在学した。 その後マサチューセッツ州マンソン(アカデミー)で、S.R.ブラウン博士と勉学し、1868年9月にラトガース大学(理科)に入学し、同年12月まで在学。(その後約2年間は政治学や経済学をウィルブルーム大学などで学んで、1871年2月)帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭、大蔵少輔を経て財務次官に任命され、ヨーロッパと米国を訪問して1200万ドルの借款交渉に成功した。 1874年から1882年にかけて、ミカドのワシントンで全権公使を務めた。彼は農商務省副大臣だった。彼は日本にアメリカの銀行制度を導入したが、その後、ベルギーの制度のために廃止された。彼は一時外務大輔にもなり、1887年に子爵に、また帝国枢密院のメンバーとなったが、1891年に亡くなった。
 
 他に三高初代校長の折田彦市、松方正義三男で川崎重工初代社長の松方幸次郎(余談だが川崎重工創業者川崎正蔵三男新次郎ラトガース大学のあるニューブランズウィック市のウィロー墓地に眠る)、ワシントン公使館やニューヨーク領事館など勤務の野間雅一の鹿児島出身者が記載されているがフルベッキとの関係については不明なので省略。
 
 ただ一人ハリスの許に残った長沢鼎は、1870年コーネル大学に入学するも半年ほどで病気退学し、その後ハリスに随ってカリフォルニア州サンタローザ、ファンテングローブへ移り、ぶどう園・ワイン醸造所運営に従事し、やがてハリスの財産を引き継ぎ、「ぶどう王」の異名を得て、生涯アメリカで過ごした。 長沢鼎の成功談などは、菊池寛『海外に雄飛した人々』やE.MANCHESTER BODDY 「JAPANESE IN AMERICA」などネットで、また「長沢鼎ブドウ王になったラスト・サムライ」多湖吉郎などの書籍多数。 
参考文献:『薩摩人とヨーロッパ』芳即正 著作社 
    「若き薩摩の群像」門田明 春苑堂書店
 
 上述薩摩藩留学生6人と横井兄弟、日下部太郎の官費留学生については、フルベッキ・小松大阪会談の翌年、明治二年三月『太政類典』の「肥後薩摩越前ノ三藩士中従来外国ニ留学セル者ヲ改テ留学生ト為ス」に、「二年三月二十三日 細川中将 島津少将 松平少将ヘ達各通 其方家来兼テ外国留学罷在候処今度改テ留学被仰付候間此旨相達候事 (略) 肥後藩 伊勢佐太郎 同沼川三郎 越前藩 日下部太郎 薩州藩 松村淳蔵 同杉浦弘蔵 同永井五百助 同大原令之助 同吉田半七郎 同長沢鼎 右九名ノ面々今般朝廷ヨリ北亜米利加合衆国政府ヘ御頼ノ上右学生全九人アナポリス海陸軍学校ヘ入学被仰付候旨夫々本藩ヘ御達有之度存候此段申進候也 (略)」と記載されているが、実際士官学校に入学したのは、同年十二月松村淳蔵と横井左平太の二人で、二年後に横井は中退し、卒業したのは同六年五月の松村のみである。
参考文献: "Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, Md" 1871
「明治黎明期における米・アナポリス海軍士官学校日本人留学生」 中拂仁 国士舘大学政経論叢 2000
「横井佐平太・大平の留学生活-アメリカ側の資料から-」高木不二 大妻女子大
 
 
薩摩辞書とフルベッキ1.
 鶴丸城址の鹿児島県立図書館の正面入口にある「AN ENGLISH−JAPANESE DICTIONARY 薩摩辞書之碑 American Presbyterian Mission Press 1869」 と刻まれている。『和譯英辭書』 の名が、初版(1869年/明治02年)。
三版のうち二版までが上海の印刷所American Presbyterian Mission Press 美華書院である。
 
 第一版 高橋新吉, 前田献吉, 前田正名 編
『 和訳英辞書 』 明治二歳 己巳 正月 千八百六十九年新鐫
「 改訂増補和訳英辞書 」、英文扉に 「 THIRD EDITION 」(注1.)
序に堀・堀越両先生の字典をアメリカ教師などに依り改正増補の意義を述べ「日本 薩摩学生」と記している。 (注)堀達之助編集『 英和対訳袖珍辞書 』 洋書調所(後の開成所)文久二1862年を定本として「FIRST EDITION 」 、『 改正増補英和対訳袖珍辞書 』堀越亀之助編 開成所 慶應二1866年刊行を「SECOND EDITION 」としている。
 
第二版は前田正穀、高橋良昭、(堀孝之)編
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 明治四歳辛未(1871) 十月
英文扉に 「 FORTH EDITION REVISED 」(注2.)
 序に堀孝之等と共に改正編集しアメリカの語学者/ウェブスター(Noah Webster, 1758−1843)による英語辞書 『 ウェブスター大辞典 』 を典拠等を述べ、「日本 薩摩学生 前田正穀(献吉) 高橋良昭(新吉)」と記す。
 (注1.2.)堀達之助編集『 英和対訳袖珍辞書 』 洋書調所(後の開成所)文久二1862年を定本として「FIRST EDITION 」 、『 改正増補英和対訳袖珍辞書 』堀越亀之助編 開成所 慶應二1866年刊行を「SECOND EDITION 」としている。
 
 
 三人の編集人を調べてみる。(前田正名は次回、発行部数と留学年月については要精査) 『実業人傑伝第3巻』広田三郎 実業人傑伝編輯所1897の「高橋新吉君伝」から薩摩辞書関連を参照すると、高橋新吉(四郎左衛門1843-1918)が上野景範門下で森有礼吉田清成吉原重俊松村淳蔵長沢鼎など藩留学生で渡航するも薩摩藩開成所の教師補助にあり中原猶介の尽力で長崎遊学を許され何礼之助の私塾に洋学を学ぶ。塾頭陸奥宗光助教石丸安世、同窓に前田正名柳谷謙太郎有り。最も親交を結んでいたのが蔡慎吾で、自費留学の話しをすると、当時の辞書をつまり『英和対訳袖珍辞書』を得るのは難しく且つ不完全のため、これを改訂増補して販売して洋行の資金を作ることを提案した。フルベッキも賛同し助力してくれたので、大徳寺の住まいまで行って無償で指導を受けた。またその印刷もフルベッキの紹介により上海の美華書院のガンブルの下で為された。その恩に報いるため完成した辞書を十二部フルベッキに贈ったという。
 
 ガンブルからフルベッキを介して計六百部が届く。薩摩藩の重野安繹が小松帯刀に紹介し辞書出版の益金で自費留学の希望に助力せんと大阪の五代友厚に書簡を送り、前田献吉と高橋新吉は五代を訪ね一冊十五円を残部に付き十二円で販売するよう策を授けられ、土佐藩商会の岩崎弥太郎を紹介されて三百部を完売した。次いで大阪造幣寮頭井上馨を訪ね三百部、また大隈重信に謁し辞書購入と自費留学の渡航費を贈る。明治三(四?)年一月出航して米国留学明治六年帰国、長崎税関庁や農商務省商務局長を経て九州鉄道会社社長や日本勧業銀行総裁などを歴任する。明治十五年五月大隈が東京専門学校(後早稻田大学)を開設した時、ニューヨーク領事の高橋は法律経済書を購入寄贈して恩義に報いたとのことである。
 
 前田献吉(1850-1921)は二十八歳で藩の奥医師となったが、洋学医術を学ぶため自費で長崎へ遊学し編纂作業に加わり出版費用調達にあたるが、蔡氏が抜けたため献吉の要請により弟正名が加わり明治元年に脱稿するが、国内の印刷術が未発達だったので、フルベッキの紹介を得て上海のアメリカ長老会で印刷技術に詳しい宣教師ウィリアム・ギャンブルがいる美華書院で印刷、印刷代一部前納を医師前田献吉が長崎に薩摩藩豪商浜田十兵衛の病を治療した礼金をもって上海へ渡る。前田正名『上海日記』(正名三男の前田三介編)によると、高橋と前田正名は元年四月二十九日神戸発閏?月三日上海着ガンブル監督の下訂正校正にあたり七百枚ほどの辞書を十部をもって五月六日発で帰国。
 
 『 職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書』の前田献吉(正穀1835-1894)には、「明治三年八月為留学私費ヲ以テ米国ヘ渡航」とあるが、後述明治四年一月四日付前田・高橋から五代友厚への書簡「私共十二字乗船す」の渡米とのタイムラグは不明。いずれにしても同四年九月には海軍省官費留学生となっているが、同六年九月留学中の華頂宮御病気となり看病のため随行帰朝する。その後海軍省医務局長や釜山総領事、東京農林学校長等を歴任。 余談だが、前田献吉は留学渡米の時妻を同伴している。また『クララの明治日記』1884年2月25日前田(献吉)嬢との話をあげ、献吉が子供たち(二人の姉妹は兄より多く)に早くから財産を分与し管理をさせて自立させている進歩的な人だと評価している
 
 小松から五代への明治三年二月二十日書簡には、高橋・前田の尽力で、上海で英話(和)対訳書が上梓して五百部持参、そのうち兵庫県百部、兵部省百五十部を購入された残部を運上所や商法局等へお世話願いたい。フルベッキ氏等の尽力により見安き字書で、一冊十二両。高橋・前田に対する温情が偲ばれる書簡である。
 
 この間高橋・前田から五代宛書簡の要旨を列記すると、明治三年五月二十五日「十二日横浜着、字書の都合ゥ書店を探索の処総て払底、兵部省への内願の処総て買入の由、年来の願望成就す。再刻の件フルベッキ先生へ話す。洋学校の方も買い入れの形勢なり」
 「明治四年一月四日 字書官許の件小牧(松)氏へ尋問の処、序文の処に官許の印証あらば即字書初版に載せて然るべき由、私共十二字乗船す、手紙等はフルベッキを通してありたし、洋行先のゥ次第フルベッキより承る、一年に付き学費・食費共にて八百ドル、その他六、七百ドル必要の由」
 (フィラデルフィア)「同九月十八日 送金切望、フルベッキ方へ相渡呉候願う、上海於いて辞書上梓当国書生も希望す、・・・日本よりの洋行ゥ生百を数える、米人親切、万事規律を本として事を論ず」など  『五代友厚関係文書目録』大阪商工会議所 昭和48年
 
 『フルベッキ書簡集』高谷道男編訳新教出版社の一八七一年十月二十日から翌年六月二十二日までの六通の江戸からのJ.M.フェリス師宛書簡には、前田(献吉)・高橋(新吉)への為替手形を送付するので半分ずつ渡してくれるよう依頼することなどが綴られている。この最後の書簡には、「伊藤(博文)、大久保(利通)、及び寺島(宗則)のゥ卿と共に私の生徒の何人かが随行しました。特にその中の岡田(好樹)にお会いください。」も付記されている。 (ガンブルについては、2017年7月21日投稿「 本木昌造とガンブルそしてフルベッキ」を参照。)
 
 
薩摩辞書とフルベッキ2.
 初版に携わった前田正名(弘安1850-1921)は、薩摩藩揖宿山川に漢方医前田善安の六男に生まれ、献吉より十五歳年下である。九歳の時薩摩藩開成所教授で蘭学医の八木称平(注1)に師事し住み込み、蘭学や貿易実務を学んだ。慶応元年の英国留学生にはなれなかったが、長崎への藩費遊学を許可され、砲術家で科学者の藩外国掛中原猶介の紹介で何礼之助塾に入塾(『公私日録』慶応元年四月十二日白峰駿馬などと名あり、その後高橋新吉も入門)して英語を学ぶが、フルベッキは一番弟子何礼之助の依頼により、官立済美館より早くこの私塾で教えている。
 明治元年四月末高橋新吉と上海へ渡航して辞書出版の準備に取りかかるが、一ヶ月ほどで帰国する。四ヶ月後の十月十四日単独で再渡航し、校正印刷して三百部(自叙伝には二千部)をもって翌二年二月二十三日神戸着。しかし戊辰戦争で兄献吉は春日艦で東北に在り、高橋は新政府の役人となっていたため、正名は一人で販売交渉して、大久保・大隈両氏の尽力による政府買上もあり益金を得ている。また三月には大学校より仏国留学生にも指名され、慶応三年パリ万博御用掛として雇われて滞日中であった仏人コント・モンブラン伯に随行して、明治二年六月渡仏し、公使館に勤務しながら経済問題を調査研究し、 同九年十二月帰国の途につく。その後大蔵省・農商務省大書記官となり、国内産業の実情を調査して「興業意見」を編纂した殖産興業策を唱える。東京農林学校長や農商務次官等歴任し、下野してからは地域振興のため北海道などの開拓・植林事業などを行った。「布衣の農相」と言われた。
 明治二年渡仏の旅行免状は前田弘庵となっているが、正名は何先生から「先ず名を正す」と言って改名したそうだ。
 
(注1)八木称平(1833-1865)は、1853年に緒方洪庵の適塾に学び天然痘(疱瘡)の種痘法の翻訳をして、『散華小言』を出島で印刷した。万延元1860年長崎へ、翌年本邦初の洋式病院「小島養生所」隣に「医学所」が新設され2代目頭取となる(長崎大学医学部・附属病院の前身)。元治元1864年薩摩藩の開成所開講で洋学を講義。
参考文献『前田正名』 祖田修 吉川弘文館 昭和48年
『前田正名自叙伝』前田三介(正名三男)編 (明治中期産業運動資料第19巻前田健一郎編 日本経済評論社 昭和54年)
 
 薩摩辞書関連の人物を列記すると、前田正名の『上海日記』に同行の記述がある岡田氏は、『官許 仏和辞典』の岡田好樹の可能性が高い。中井えり子「『官許佛和辭典』と岡田好樹をめぐって」に好樹令孫の岡田峻談の上海滞在三年間説の確証はないとしているが、明治三年上海に渡り美華書院で同四年に『官許 仏和辞典』を出版したことは、同元年正名らと同行した時期から合算すれば納得できる。『言語生活』363号の惣郷正明「岡田好樹訳仏和辞典」によると、百五十の見出し語の内対訳英語の百語が第二版の薩摩辞書こと『和訳英語林』の対訳日本語を採用しているとのことである。
 
 第二版で前田正名に代わり、『薩摩辞書』の増補改訂に加わった堀孝之(壮十郎1844-1911)については、御子孫堀孝彦著『英学と堀達之助』雄松堂出版2001年を参照すると、ペリー来航の首席通訳で『 英和対訳袖珍辞書 』を編集した蘭通詞堀達之助の二男に生まれ、安政六年1859五代友厚の知己を得て慶応元年1865薩摩藩英国留学生の一員通訳として同行、その後も五代の腹心として辞書再版や鉱山業の西弘成館の理事として仕えている。堀孝之の墓は長崎大音寺の堀家に父達之助らと共に在り、墓碑銘は前田正名筆である。
 
 蔡慎吾(1849-1877)は、『鎖国の窓』増田廉吉 朝日新聞社1943によると、慶応元年十六歳の頃英仏学が盛んになり、留学を考えたが留学制度もなく密航の資金もないため断念し、英仏のゥを読み勉強していた。それは語学のみならず兵学地学のためでもあって、維新後工部省・内務省の地理寮御用掛などを勤めた。
 『慶応元年明細分限帳』越中哲也編に「寛文三卯年先祖より八代当年迄二百三年相勤慎吾儀安政元六未年稽古通詞見習文久三亥年稽古通事相続元治元子年小通事末席被仰付当年迄都合七年相勤  唐通事末席 受用高九百五匁 内助成七百目 蔡慎吾二十一歳(17?)
また何礼之助『公私日録』文久三年十月五日に英語稽古所試験受験者に他の唐通事と一緒に蔡慎吾がいる。
 
 行コ元穆は筑後の人で、文政の頃江戸で眼科を開業した後、長崎遊学して眼科医学修業のため英語を学んでいた。辞書のAからLに協力したとのことであるが、これ以上は未詳。
 
 薩摩藩士『野村盛秀日記』にも、長崎滞在の前田や高橋の名が記されている。 
慶応二年十月二十七日「・・・四後より蔡慎吾同伴川崎氏前田弘安(正名)と大浦のフレキサンデルへ差越帰ガラバへ寄候処・・・」 
慶応四年四月四日 「今晩岡宿止泊前田黄雲高橋四郎左衛門も一緒」
 
 
『鎮西日報』長崎歴史文化博物館蔵
 フルベッキ博士は明治二十一1888年夏・秋九州伝道のため長崎を二回訪ねている。当時の新聞記事を読んでみると、同氏が幕末明治初めの約九年間長崎に滞在したことや、維新・新政府に多大な影響功績を残す人物であることの説明もなく隔世の感がある。以下に長崎歴史文化博物館蔵『鎮西日報』を抜粋する。
 
 明治二十一年七月七日ヴルベッキ氏来崎
過般九州地方漫遊中の北米合衆国神学博士ヴルベルツキ氏は昨日熊本県三角港より来崎せり基督教演説会 今度神学博士ヴルベルツキ氏来崎につき本日午後二時より出島二十二番の新会堂(注1)に於いて同氏を始め留川一路・邊見素雅の両氏と共に基督教演会を開く由あり
(注1) CMS教会伝道協会 
 
七月八日ヴルベルツキ氏
 今度漫遊の途次来崎せし北米合衆国進学博士ヴルベルツキ氏は昨日午後二時より出島二十二番の基督教会において日本語にて演説したるがその語勢爽快なる聴衆として無量の感動を惹起させしめたるほどなりしと、尤も同氏は今を距たる二十七八年前始めて新教を我邦へ輸入せし人にて爾来東京に在住して専ら同教の拡張に尽力せり
  別段には、「説教 弁士 勲三等法律博士 フルベツキ氏」とあるが、十四日か長崎を出発し十五日夜演説して、久留米・大分・福岡を巡回したようだ。
 
同年十月二十八日
フルベッキ氏
東京在留の米国神学博士フルベッキ氏は、今度九州各県の耶蘇教会巡回として昨日馬関より来崎、東山手14番(注2)に投宿せり。氏がかねて日本語に熟達せることは、已にに世人の知れるところなるが、本日は梅香崎耶蘇教会堂(注3)にて得意の弁舌を揮い両度の説教を為すよしなり。       
(注2)スタージェス・セミナリー(梅香崎女学校)はフルベッキ後継ヘンリー・スタウトらにより、1887年9月に開校。スタウト一家は1888年2月下旬離崎し翌年春帰崎の休暇中のため、フルベッキ二度の来崎時は不在、『ヘンリー・スタウトの生涯』G・D・レーマン著峠口新訳 新教出版社)(注3)梅香崎教会1874年(現日本基督教団長崎教会)
   
十月三十日
フルベッキ氏
このほど東京より来崎して居留地大浦東山手十四番に滞留中なる神学博士フルベッキ氏は、明日便船にて鹿児島へ赴き当地の耶蘇教会を巡視の上、再び当港に帰りそれよりなお他の各県の教会を巡視するはずなりという。
 
 
福岡藩留学生とフルベッキ                     
筑紫史談『幕末福岡藩陽光の先駆松下直美概蹟』大熊浅次郎 を引用すると、
松下嘉一郎(直美1848-1927)は、 安政五年1858十一歳の時父御茶屋御用受持添役に従い長崎に到る。オランダ通詞名村八右衛門(注1.)に就いて蘭学を習うが病気のため帰国、文久三年1863再び長崎に遊学し、英語を学ぶため崇福寺広福庵(かつてフルベッキ寓居)内の越前藩士で福岡藩の通訳をしていた瓜生三寅の塾(注2.)に入る。同学には瓜生震(注3.)がおり、塾長は林清康だった(注4.)。また一方大井手町の何礼之助の塾も英語を教えて競い合っていたという。直美はまた江戸町広運館(新町済美館のことか、広運館は明治元年四月から)に通い、英(米のこと)人フルベッキに就いて英語後仏語を学ぶ。また平井義十郎や都築(注5.)からも習っている。慶応三年1867藩主黒田長溥(注6.)の西洋文明の習得奨励により米国留学が認められ、大浦居留地のフレンチに渡航準備の世話になる(注7.)。江戸に待機すること約四ヶ月して七月監督役の平賀磯三郎(義質注8.)、船越慶次、井上六三郎(良一)、本間英一郎と一緒に藩費で、青木善平は私費で、米国ボストンへ留学するが、松下は一人スイスへ留学するも翌年末スイスを離れ米国経由で、明治二年五月帰国した。(船越、青木は既に帰国)維新後は山口地裁所長や大審院判事などを歴任、明治32年ー38年福岡市長。
 
注1.大審院検事長名村泰蔵の養父
注2.『曽我祐準翁自叙伝』では、培社は瓜生三寅先生の西坂の仮塾となっており、黄檗宗福済禅寺と思われる。
注3.三寅の弟で何礼之助塾にも在籍している。『公私日録』
注4.『男爵安保清康自叙伝』に、「慶応元年1865私は同志と何礼之助門下を退き、瓜生三寅兄弟、巻退蔵(前島密)、橘恭平、高橋(芳川)顕正その他五六人の学友と寺院に寄宿し日夜寝食を忘れ、骨血を絞り肺肝を砕いて一心に苦学した。」とあるが、『前島密自叙伝・年譜』(前島密伝記刊行会)に、元治元年1864九月三十才長崎に於いて、貧しい遊学生のために少費の合宿所を設け、瓜生寅を学長に依頼し、何先生の許可を得て培社と称する私塾を開き、貧生の為に英学を教授す。培社は禅宗某寺の空堂を借りた。
何礼之助『公私日録』の慶応元年閏五月七日に、林謙造(謙三、安保清康)立花(橘)恭平が薩州へ行くことに也、巻退蔵(前島密)の書類や衣類を渡したとある。
注5.志筑龍三郎のこと
注6.十一代藩主黒田長溥は薩摩藩主・島津重豪の子で斉彬は二歳年上の大甥にあたる。注7.米国人A.D.W.フレンチは大浦居留地でフレンチ商会を経営、領事を兼務していたかは不明だが、『鍋島直正公伝 第五編』によると、慶応元年1865八月フルベッキと共に佐賀を訪れ、石丸虎太郎の案内で弘道館を訪ね古書の保存法を尋ねたり、武雄・嬉野温泉に浴したり伊万里湾の景観を巡見している。
一八六九年一二月二九日J.M.フェリス師宛フルベッキ書簡に、薩摩藩米国留学生のことで町田民部に会い、藩から学資を送った件については、この春(長崎から)江戸に来て米国へ帰ったボストンのA.D.W.フレンチが関係責任者であると書かれている。
注8.平賀磯三郎(義質1826-1886)は安政五年1858海軍伝習所に西洋学を学ぶ。 佐々木高行司法大輔(理事官)随行員として岩倉使節団に参加、団琢磨に英語を教える。
 
『鉄道交通界の恩人 本間英一郎先生の一周年』大熊浅次郎
本間英一郎(1854-1927)は、慶応元年1865長崎に遊学し何礼之助の塾に英語を学び、同三年福岡藩留学生中最年少で渡米、本間はマサチューセッツ工科大学で土木学を、井上六三郎(1853-1879)はハーバード大学で法学を修業して共に明治七年1874七月帰国した。本間は鉄道事業に従事し、特に碓氷峠アプト式の設計は同氏の創意に基づく。
 
[参考]
上白石実「明治維新期旅券制度の基礎的研究」からの抜粋
旅券リスト 慶応三年
旅券発行地   行先    姓名     住所     事由 期限
外国奉行 アメリカ71号 平賀磯三郎 松平美濃守家来 留学 3年 42歳
外国奉行 アメリカ72号 船越慶次  松平美濃守家来 留学 3年 16歳
外国奉行 アメリカ73号 本間英一郎 松平美濃守家来 留学 3年 15歳
外国奉行 アメリカ74号 井上六三郎 松平美濃守家来 留学 3年 16歳
外国奉行 フランス75号 松下嘉一郎 松平美濃守家来 留学 3年 20歳
外国奉行 アメリカ76号 青木善平  松平美濃守家来 留学 3年 29歳
 
『新修福岡市史資料編近現代1 維新見聞記』平成二十四年 「維新雑誌」巻ノ十三・十四 明治四年
1 平賀義質・本間英一郎・井上良一の留学
明治四辛未年紀聞
一.福岡藩士族平賀磯三郎殿、近年国君宰相 長薄公のご命令に依て、門人本間・井上の両名を召連れ江戸より夷艦に乗し、亜米利加へ航海し、彼地に留学すること凡四ヶ年、去庚午の冬、平賀一人帰朝有之、東京に於いて三條右大臣實美公を始め当時在朝之堂上、且越前の春嶽君等より度々の御召あって、西洋の事情様々御聞有之、(略)被連越たる井上・本間両名とも、洋学頻に相進み、遂に今般井上は学校(注9.)第一等、本間は二等に昇進して、彼国の生徒其教を受る凡八十人に及べり、両人今未年十九と十八歳のよし彼地にて其名高く相聞へ、(略)  注9.マサチューセッツ州アマスト家塾か同州ウースター兵学校か
 
[追記]石瀧豊美著『ボストンの侍・井上良一』が、西日本新聞夕刊に2003年1月4日から4月26日まで17回連載で、福岡藩留学生六人それぞれについて詳述されている。西日本データベース[パピルス]で閲覧できる。
 
 
佐賀藩谷口藍田とフルベッキ
 当会発起人森田正著『近代国家「明治」の養父 G.F.フルベッキ博士の長崎時代』長崎外国語大学2016年3月から転載。  
 
  佐賀藩の谷口藍田(1822-1902)の『藍田遺稿』肥前谷口中秋著 谷口豊五郎編集兼発行 明治36年6月1日発行の「附録: 藍田谷口先生伝 (恩地轍)」に、「慶応元年1865三月二十五日亜米利加「フルベッキ」と大徳寺に相見る「フルベッキ」遂に贄(注1.)を容れて教を乞ふ先生是れより皇漢学及び日本語を「フルベッキ」に授け西洋の事情学術等を同人に聞き頗る得る所あり」 注1.入門するときの礼物
 
「其年十二月「ウルヤムス」入門「ウルヤムス」は「フルベッキ」の同国人なり此時大隈八太郎(重信)長崎に在り英語を「フルベッキ」に数学を「ウルヤムス」に受く一日先生大浦に到り書を「ウルヤムス」の家に講ず適大隈亦至る因て相携えて其僑居に帰り快談数刻此れ先生大隈と相知るの始めなり」
 
 これについて高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』新教出版社1978年発行の1865年6月5日付「(前略)一カ月余り前に学者としての名声ある日本語の新しい教師を得ました。私が前の教師と一緒にやっていた注解付の『小信仰回答』の翻訳をやっています。」
 
 このように記述の内容が合致することは珍しい資料です。幸い儒者、教育者として名を成した谷口藍田の関係者が資料を残したことで貴重な検証ができたわけです。(略)
 
フルベッキ師は後に聖書の詩篇の日本語訳に貢献しますが、長崎時代の並々ならぬ日本語研究の内容と質の高さは想像以上のものであったようです。
 
 また同大学創設者である青山武雄氏は、『大隈重信と致遠館考(一)』で、谷口の日記『韓氏日歴』にある「壬戍の歳・余遊長崎・与之相見於崇福寺・贈洋書数種・為贄請入門・余有故不果」から、藍田とフルベッキの初対面は文久二年崇福寺広福庵のフルベッキ寓居で会ったとしている。
 
『藍田谷口先生全集 附録 巻5 』谷口鉄太郎編 1925 の「藍田先生年譜」によると、藍田四十四歳の慶応元年三月第四子の季雷を連れ来崎、フルベッキ(大徳寺)とウィリアムズ(大浦)が教えを乞う。「陰?録」を講義し訳す。長崎梅香崎十人街や十善寺郷に住み、教えを学ぶ長崎人が多数のため開塾(注2.)する。一方で門人森主一を中心に高島炭鉱開発経営に参画する。注2.臥龍洞、明治二年には鹿島侯鍋島直彬が訪問 (遂に長崎に寓す中村陸舟成瀬石癡諸生四十人を率いて学を受く)
 
また藍田は明治六年1873、西道仙が長崎桶屋町の光永寺に創立した私学校「瓊林学館」の初代初代館長に就く。
 
余談ながら大隈重信が口舌の徒であったか毒舌家であったかは承知しないが、『早稻田清話』大隈重信 冬夏社 1922の「谷口藍田の性行と其一家」で、藍田のみならず、詩を賦し文を作る才に秀でた妻共々、大酒飲みで博奕打ちであったと語っている。
 
 
大隈重信(1838-1922)副島種臣(1828-1905)とフルベッキ(1830-1898)
  佐賀藩士の初期英学伝習生は、文久年間の石丸虎五郎、秀島藤之助、馬渡八郎、中牟田倉之助、小出千之助などの海軍伝習生であることを、本野周蔵も含めて「佐賀藩士長崎遊学とフルベッキ」で既述している。それに続くのが、大隈八太郎(重信)、副島次郎(種臣)のほか、山口繁蔵(尚芳)、中島秀五郎(永元)など、写真に写る慶応年間の蕃学稽古所とその後の致遠館の藩士である。今回は大隈重信、副島種臣とフルベッキの関係を調べ、次回長崎の佐賀藩英学校「致遠館」に繋げていきたい。
 
 まず『フルベッキ書簡集』高谷道男編訳 新教出版社1868年5月4日月曜日長崎 J.M.フェリス師宛「一年余り前に副島と大隈の二人の有望な生徒を教えましたが、これら二人は新約聖書の大部分と米国憲法の全部とを私と一緒に勉強しました。前者(副島)は現在旧い帝国の制度を改正して最近できた都の政府の会議の新しい参議であり、後者(大隈)は九州全体の総督の一員であって、新政府の憲法の改正に関連して、首府「都」に向けて数日のうちに出発する予定です。」と教え子が新政府で活躍することを予見している。
 
 同様のことを、『日本のフルベッキ』W.E.グリフィス著村瀬寿代訳編 洋学堂書店では、「英語で著された二つの偉大な文書、即ち新約聖書とアメリカ合衆国憲法の大半を、フルベッキ氏は将来を嘱望される生徒達に長く教えた。その生徒の中には将来新政府で活躍することになる副島[種臣]大隈[重信]などがいた。」とか「日本の新体制の下、この四十年間の大隈伯の活躍はめざましく、財務の長や外務大臣、大学の創始者となった。一八七四年に中国に派遣され外務卿となった副島とともに、大隈はフルベッキ氏の下で特に合衆国憲法を学び、ほとんどすべての西洋諸国の基本法に精通した。」と述べ、彼らの業績の礎にフルベッキの指導かあったことをを述べている。
 
 大隈の回顧談に、「先生は極めて温厚なる紳士たり。予長崎にある日、塾生五十人の為めに請ふて英語教師とす。時々基督教を聞きたることあり。先生は或る宣教師などの如く強いて之を説かんとする人にはあらず。予は蘭書に就いて研究し不審の所は之を先生に質す。往々言過激に亘り礼を失することあるも先生は之を咎めず。親切に懇篤に教授せられたり。予が基督教の知識を得たるは三年間先生に就いて学ぶ所ありしに由る。一時は信者たらんかと思うほどなりしも遂に決心するに至らず。支那紅毛の教、先入主となって信を妨げたるか或いは西洋の宗教歴史が予に一種の悪寒を与えるたるに基因するかを審にせず。兎に角予はフルベッキ先生を尊敬して之に師事せり。」『植村正久とその時代第1巻』
 
  尾形裕康著「大隈重信とフルベッキ」では、「フルベッキはまれに見る高邁な見識、卓越せる語学力、高潔な人格の持ち主である。彼の偉功は長崎時代約一〇カ年にわたって従事した教育が、後年、廟堂に立って国政を左右し、近代日本建設に大きな役割を果たした多くの人材を養成したことにはじまる。 とりわけ門下生中の逸材年歯は三〇歳の大隈をして、先ずキリスト教徒処分問題を善処して(注)、政治家として牢固たる地歩を築かしめた素養は、実にフルベッキの教育に在ったと言っても過言ではない。フルベッキは一八六九年以降一〇ヵ年に近い間、政府顧問の地位にあって種々の献策を行ったが、彼の東京招請は大隈の発言にその端を発っている。政府顧問としてフルベッキが大小の建言は、主として大隈を通じて実現された。何れもわが国をして画期的に躍動せしめる揚力名動因になった。以上のような大隈とフルベッキとの関係を考量すると、大隈の陰にフルベッキあり、フルベッキの陰に大隈ありという、文字通り形影相伴う関係で近代日本建設の一翼を担ったといえる。ゆえに大隈を語るにフルベッキを除外することができないように、大隈の登場なくしてフルベッキを語ることはできないのである。」 (注)1868年5月大阪東本願寺別院で行われた外交交渉で、浦上信徒弾圧事件に抗議するイギリス公使パークスの信教の自由論に対して、致遠館などでフルベッキから新約聖書とアメリカ憲法を学んだ大隈は、参与兼外国事務局判事の資格で出席して、国際法上の国家の義務である内政不干渉の原則で堂々と論争し、内外の評価を高めた。
 
 万延元年1860遣米使節に佐賀藩から小出千之助、本島喜八郎、島内栄之助らが随行したことは、大隈を始め佐賀藩士の英語伝習への刺激となった。
 
 長崎での生活振りは、『大隈侯八十五年史』大隈侯八十五年史編纂会編に、「君の長崎往来はいつ始まったかわからぬ。当時君がその友人楠田英世に『瀛環志略』(世界地誌)一部を贈ったことから考えると、或いは文久元年英語学習の始まった頃からでなかったか。(略)さて君の長崎における定宿(副島と同じく)は長い間東古川町一番地にある高橋啓次郎という素人家であった。君はそこに六年ばかりいた。(略)後に高橋の家へは佐賀藩の人々が多く集まってて、手狭になったので、その一部の人たちは高橋の周旋で竹藤(武藤)という家に下宿させた。当時高橋は三人扶持を給せられた。また君の母堂は「八太郎が世話になるから」といって、高橋へいろいろの贈物をした。」とあり、
 
 英語学修については、「激忙中、寸暇を割いて副島と机を並べ、フルベッキの教えを請うた。君の勉強法は原書の一字一句を訳読するよりも、一篇一章の大要を掴むにあるという風であった。幸いフルベッキは日本語に上達していたので、君は自ら読もうと思う本を探し出しフルベッキにそれを訳させて聞いた。そうした具合で君の語学力は左迄進まなかったけれども、必要と思った英書は大抵読了研究することが出来た。当時君の教えを受けた牧吉郎は昔を偲び「あのころ三年間、フルベッキは大隈副島さんなどの専任教師と言ってよい位だった」と語った。こうして君は三年間にアメリカの憲法、イギリスの憲法史、万国公法などを読了した。その他地理、歴史、法制、経済、数理に亘る一般図書をも読んだ。万事、君はその所好のままに自由に読書したのである。」
 
一方副島の英語学修については、「副島伯経歴偶談」東邦協会会報第四十三号・四十四号で慶応元年の契機を語っている。
 
「長崎において大隈八太郎等が中野数馬(佐賀藩重臣のち家老)などに説いて曰く英学が始まって自分なども英学を修めて居るがしかしながら藩の風習で英学者等を甚だ賎しむから聊か名望ある者を得て書生の上に置かれたい而かも我々の頭らとして副島次郎を置いてもらいたいと言うので中野数馬が私を招いて曰く「他藩に出ることは出来ずして居るが長崎に出て英学生の世話をしたならば長崎までは出そう」と申された故に私は一も二もなく喜んで承諾をしたそうして三四年長崎に居ったこの此時分私不材にして強ち英書を能く読むだでも何でもないが唯時事を慷慨したり或は劉毅樗蒲一博と云う譯でもないが謝安が東山の遊びぐらいはやったというようなことである。」
 
 「私は維新前にあたり長崎に在りて米国人宣教師なるフルベッキ氏という者から漢文翻訳の万国公法(北京同文館の教師米国法律博士丁?良(W.A.P.マーティン)の漢訳せるものなり)を贈られたるが故に慶応三年頃私は既に此書を概略読んで居った顧ふに方今の学者政治家等が見られたならば維新の始まりの頃のことは抱腹に堪えぬことが多々之有るであろう。」
 
 大隈は一言一句を訳読せずに一章の大要を読み取る英語学習をしたのに対して、副島の英学研究については、次のように語っている。『大隈伯昔日譚』円城寺清編 新潮社で、「余は多少の廃絶ありたれど、已に三四年来英書を手にしたるを以て、是等の書を読むに彼よりは容易なれども、彼は就学より僅かに五六ヶ月を過ごしたるのみなるに、余と同一に習了せんと存立しことなれば、其困難は実に一方ならざるべし。然れども彼の堪能と熱心には一向に屈することなく、日々一ページ及至二ページをば大概盡く字引にて討尋し、漢学者の例を以て朱にて文字の両側に注釈若しくば翻訳をなし、独りほくほく喜び居たる。」と、両氏の性格の違いが垣間見える。
 
  最後にフルベッキと大隈、副島らの関係は英国駐日公使であったアーネスト・サトウの明治初年の日記の中には、「近頃、日本において種々な憲法の草案が発表され、私はその英訳に従事している。最近私の手に入った憲法草案を見ると、著しくアメリカ憲法の匂いがする。これは多分フルベッキ博士の弟子であった大隈氏や副島氏の手になったものであろう」と書いている。「近代日本建設の父」とか「近代国家明治の養父」といわれるフルベッキと大隈重信、副島種臣の事績を追う術が、長崎にはほとんど残っていないのが残念である。
 
[写真]慶応三年小出千之助氏洋行記念撮影 
長崎(後列左から)中島永元、相良知安、堤董真、中野健明。
(前列左から)副島要作、副島種臣、小出千之助、大隈重信、中山信彬
出典『大隈伯百話』江森泰吉著 編出版者 実業之日本社 明治42.6
 
 
蕃学稽古所のちの致遠館
当会森田氏は『大隈伯昔日譚』における致遠館設立が大隈らの力によるところ大であるとの説は、フルベッキ寓居の大徳寺での英語研修の誤伝であると述べている。大隈が英語力を活かし商人たちと特殊な結びつきにより特産品の貿易事務に関与して、この時期の英語伝習の資金調達に尽力していたことは確かであるが、蕃学稽古所のちの致遠館については、大隈、副島、小出らの英語伝習の希望が藩を動かし、知己の家老村田若狭守政矩などの支持と開明派鍋島直正の裁可により藩を挙げての事業成果と言うべきである。フルベッキや長崎奉行との折衝役となった中老伊東次兵衛(外記、祐元1806-1890)の日記、『
佐賀県近世史料 第五編第一巻』の「幕末伊東次兵衛出張日記」から、その交渉過程を抜粋することにより、佐賀藩あげての致遠館事業であったことを検証したい。
 
「一八六七(慶応三)年・伊東次兵衛出張日記(抜粋)
八月中  同朔日
一 今日はフルベッキニ参り候筈、同伴ハ中野丈太郎・松村文亭(亮)
一 土産物・西瓜二
一 大徳寺へ三字比参リ、酒・菓子杯差出候事 (大徳寺はフルベッキの住居)
    (中 略)
一 フルベッキ若吾藩相招之事アラハ、承知可相成哉相談候処、当時ハ公義之雇人と成
リ可否孰共難答、シカシ公義モ当時之形勢二而ハ、朝暮出入スル計リ事も不学如何ニ相成哉、長歎之一言ヲ発候事
一 これニ付而丈太郎共申話アリ
一前件は 老公之御合之筋なれ共、順二不不申顕及応接置侯也
一前件ハ得と於 御国許讃談二可相決候事」
 
「慶応三卯九月 胸秘録 知足庵」 御台場献上且亜人御雇一件について、長崎出張を命ぜられ長崎奉行応対など「口達」に伺う、領内に雇い入れは難しいので支藩深堀領へ月に二十日ほど遊歩姿でお出まし願うのは差し支えないことを奉行と折衝すること、学生数はフルベッキから何十人と提案されるか三・四十人も可能なのか帰藩して相談する。
「九月廿八日
一 今日米利堅軍艦へ三字二参り候様、アトミラル相約、左候而スルーフ為迎差遣候寸、
 フルレベッキ・(本野)周蔵、家来達助壱人召連侯而參リ候事
一 船中=而シヤンハンヤ、井菓子共差出候而致応饗候事
一 ミニストル白身致心配候而、大砲其外一覧為居致侯事
一 其後祝砲拾発いたし候事
一 帰艦二も矢張スルーフ差出候事
一 余程丁寧之致方二有之侯事
一 フルベッキ周旋之次第、挨拶申述候事
  十月中 同二日
一ヒーコニ立寄、軍艦士官火術掛り二面談之義申啖偵察
一大徳寺へ立寄、フjレベッキ二頃日之致挨拶候処重畳怡(とても喜び)、左候而最前ヒコニテ致相談候義、アドミラル共大二疑惑いたし由(ヒコ=アメリカ彦蔵)
 
十一月中 同七日
一 フルベッキ一件一昨日参リ、諌早邸(五島町)か鵬ヶ崎(稲佐町佐賀藩別邸)力二可申談旨之参り候事
同十六日
一 フルベッキ三字二参リ一通致承知。尤大切成事故二尚勘弁、書面を以可及返答申答候事
同十八日
一 フルベッキ御雇一件、甚六ケ敷有之趣、木野周蔵申、右は同人ヘフルベッキ申咄候次第有之由 依之書付を以今又フルベッキ二相談之事
一 今タ七ツ時 鎮台ヘフルベッキ一件二而参リ、相談致し候桁々(注)
― 右之末、書面相認候而 フルベッキ二差遣致し相談候事 
(注)雇い入れ条件の報酬(洋銀月二百枚を済美館と折半すること)や一日を済美館との出勤割合で朝済美館昼佐賀藩校へはフルベッキが難色を示し隔日置きにと提案
同十九日
一 フルベッキヘ書面を以間合候事
同廿三日
 今朝鎮台(奉行)へ面談いたし候事、天気よろし
一 於鵬ケ崎フルベッキ相談いたし候随分致承知候事、依之奉行所ヘ フルベッキ願書草案下書、本野周蔵へ相渡候事
同廿五日
一 今日フルベッキ御雇一件、奉行所書付差出候事
(中略)
一フルベッキ井岡士二も周蔵を以相探置候処、同断之訳二付先以致安心候事」
 
『佐賀県教育史 第一巻 資料編』の「佐賀藩致遠館資料」の「請御意」(慶応三丁卯年御仕組所)」「十二月十二日下」に「当節亜人御雇入 長崎諫早屋敷二おいて蕃学稽古所被相建候二付 左の人々詰方被仰付方二者有之間敷 御吟味之事 弐拾三才千葉源六(以下略)」三十名が決定する。「十二月二十六日下」には、副島次郎舎長(学頭)、大隈八太郎同助、執法'(句読師)に中野剛太郎・中山嘉源太・堤喜真・副島要作・中島秀五郎が任命されている。
 翌年八月二十五日御仕組所より、「長崎蕃学所之義 致遠館と被相改義候事」の御達しがある。
 
写真は明治元年の日記によると、
「十月中 同八日 雨
一 今夕三字中嶋写真二、フルベッキー同参り候事、曇天二付不十分候事、硝子写而已也
一 其後藤屋ニ而ターフル(西洋料理)参会之事、夜四ツ時比帰宅之事」
明治元年1868十月八日にフルベッキと佐賀藩中老・伊東次兵衛が致遠館教師五人(中島永元、堤薫真、中野健明、中山信彬、副島要作)と一緒に撮影されたガラス湿板写真(中嶋は上野彦馬写真館)、前回投稿「大隈重信・副島種臣とフルベッキ」の写真(1867年)から大隈・副島(種)・小出・相良を除く教師達が写っている。   (つづく)
 
 
長崎の佐賀藩「致遠館」
 下記フルベッキ書簡にあるように、同氏を藩の洋学校教師として招聘したのは、佐賀藩のみならず、加賀・越前・土佐・薩摩各藩であるが、寛永十九年(1642)に三代将軍徳川家光から佐賀藩が長崎警備を命ぜられて以来多くの藩士を派遣しており、また安政六年フルベッキ来日より佐賀藩遊学生が他藩に先駆けて指導を受け、その後も次々と英学生を派遣した地の利と、そして開明派鍋島直正・直大藩主を初め重臣たちの理解支援で、地元招聘でなく出先長崎に藩校を作ることができ、官立済美館教師として多忙なフルベッキを動かしたことが大きい。また慶応三年四月には、フルベッキが教師をしていた長崎の英語塾の何塾(注1.)の何礼之助(礼之)と柴田塾(注2.)の柴田大介(昌吉)が幕府出仕を命ぜられ上京し人気の英語塾が自然消滅していったことも関係がある。
 
 一八六七年九月七日 長崎 J.M. フェリス師宛
「先月加賀藩主から私にその国を訪ねるようにと、立派な汽船を差し向けてくれました。この藩主は日本国内の藩主の中でも最も裕福な藩主です。この地の学校(済美館)と同様な学校を設立するため加賀国に来るようにとの懇請です。また大体同じような招請状を強力な薩摩藩主や四国の土佐藩主及び九州の肥前の藩主からも受けました。これら四藩主は日本国の革新的な雄藩であり、いずれも外国の政治の原理に基づいて前進せんとしています。しかもそれがキリスト教的であっても喜んでこれを取り入れたいとの態度です。過去二十四カ月にわたり、三人の有力な藩主の関係者及び二人の幕府の奉行からの訪問を受けました。」 
 
 慶応三年十二月には、深堀でも鵬ヶ崎でもなく、五島町の諫早藩蔵屋敷で蕃学稽古所が開校した。諫早藩蔵屋敷については、『諫早史談 第三十九号』織田武人会員「史跡探訪 長崎台場と諫早私領の長崎蔵屋敷」によると、敷地南北約十三間・東西約三十一間の約四百坪の内、大隈の記憶では南向きの二間と三間の倉造りで、当初三十人ほどの学生が円座になって英語・工学・兵学・経済・法律などを学んだそうだ。尚蔵屋敷の鬼瓦が佐賀県立致遠館高校創立時に寄贈されているとのこと。
 
 牧由郎談話「フルベッキは隔日に来て一時間か二時間宛我々に授業した。その余の時間は大隈八太郎、副島次郎、中野健明、山中九郎、中島永元(秀五郎)副島要作、堤喜真の六人に各国の政体や法制、経済などにつき講義した。フルベッキはその手当として金貨で月に二百両を請け取ったと聞く。(略)致遠館にはわが藩人のみならず他藩人も来た。岩倉公の二子岩倉具定及其実弟(具経)来られた。致遠館における副島次郎の勢力は非常のもので、他藩人にして長崎に来る者は皆副島に敬意を表した。松方正義なども来られた。(後略)」
 
 佐賀県立図書館鍋島文庫所蔵『日記』(明治元辰年 政府)
「長崎諫早屋敷華江蕃学所被相立 御奉行所御雇二而済美館罷出候英人フルベッキ為教師御雇入相成隔日二罷出候付給金一ヶ年ニ月洋銀四千五百トルラル 右を御奉行所より二千四百トルラル(ドル)此御方より二千百トルラル被差出候御約定 前ニ先以當正月より六月迄之申極候条 右銀月割を以申乞う次第 渡方相成候様筋々可被相達候   以上 
辰三月廿日」
 
 新政府雇入となったフルベッキが明治二年二月十一日(1869年3月23日)長崎を離れることになり、致遠館は一年半ほどで閉鎖となる。「請御意」長崎致遠館詰之内左之者共儀 尚又英学為研究東京其外遊学被仰付方ニ而可有御座哉と吟味仕候 此段奉伺候(人名二十七名略)(此通 巳二月十九日下)
肥前の藩主はフルベッキが長崎滞在中にその家臣を教えた働きに対する感謝の印として、三枚の貴重な日本の金貨を贈った。
 
[付録]
「致遠」とは、易経で「深きをとりて遠きをきわめる」
金沢の致遠館は、明治二年二月西町神護寺に創設、三年十一月兼六園内に移り中学東校と改称。生徒は十五歳未満入学で七・八十人、関沢孝三郎・米人オースボンらが英学・漢学・洋算教える。(金沢市編(1925)『稿本金沢市史 学事編 第二』 金沢市)
加賀藩高峰譲吉は長崎遊学で何塾生であり、また佐賀藩致遠館にも出入りしていたという。
 
(注1.)何塾 佐賀藩英学生 山口範蔵(尚芳)、牟田豊、野田益晴ほか
(注2.)柴田塾 佐賀藩英学生  (慶応元年仲秋)福地林橘、(慶応元年以前) 石丸虎五郎、馬渡八郎、金丸知三郎、島内猪吉郎(長崎歴史文化博物館蔵「英学生入門點名簿」)「慶応元年明細分限帳」に「慶応元丑年一代限り新規英語小通詞 英語小通詞受用高壱貫五百目  柴田大助」
 
その他参考文献 
高谷道男編訳(1978)『フルベッキ書簡集』新教出版社
青山武雄「大隈重信と致遠館考(一)」(長崎外国語大学創設者)
岩松要輔(1989)「英学校・致遠館」,『近代西洋文明との出会い』思文閣出版
佐賀県教育委員会編(1989)『佐賀県教育史 第一巻 資料編』 佐賀県教育委員会
 
 
村田若狭守政矩(1814-1873)綾部三左衛門(幸煕1834-1899)の受洗
 森田正著『近代国家「明治」の養父 G.F.フルベッキ博士の長崎時代』長崎外国語大学をベースにして考察投稿。村田政矩は鍋島深堀家の生まれ、佐賀藩久保田領村田家を継ぎ、久保田邑主・佐賀藩家老となる。鍋島直正公(後の後閑叟公)、直大公藩主の信任厚く重用され、加えて後にはフルベッキ師から「私の友人、同信の兄弟・若狭」と称せられる関係となる。安政二1855年に佐賀藩の「御番」長崎港口海防警備の立案責任者としての任務に着くが、キリスト教禁教下に佐賀藩の重職にありながら敢然として、一八六六年五月二十日に弟綾部三左衛門(幸煕 綾部家の婿養子)と共に、フルベッキ師からキリスト教信徒となる洗礼を受ける。
 
 安政二年村田政矩の家臣が取得した英語の聖書を入手した村田は、医師江口梅亭を長崎に派遣しフルベッキと接触することにより「漢訳聖書」を知る。聖書を理解するため本野周蔵つづいて村田の二十歳違いの実弟綾部三左衛門を英学生として長崎に遊学させバイブル・クラスに通わせる。フルベッキ曰く「私のバイブルクラスで他の生徒が学んでいるのを快く思っている未だ会ったことのない者をクラスの第五番目の生徒と認めたい」と、村田若狭のことである。綾部や本野らを介しての間接的ではあれ、四年間フルベッキ宣教師から教えを受け、慶応元年バラ師から矢野骼R、二番目は同二年長崎でウィリアムズ師から熊本藩士・荘村省三(助右衛門)につづく三番目の受洗者になる。 (一八六二年の年報のバイブルクラス四人とは、独りでは肥後熊本藩荘村、もう一人は肥前佐賀藩の本野、他の二人を伴うは綾部と、藩から派遣同行の嶋内伍吉郎かは不明)
フルベッキ書簡
「一八六六年五月二十日の事件の詳述」の要約
興味深いことにペンテコステ(聖霊降臨祭)に、村田若狭・綾部三左衛門(兄弟)が受洗した。若狭は肥前藩主の家老で、この藩は啓蒙的で進歩的な政策を採用し、青年を教育するために、素晴らしい学校組織を有する点で知られている。高官ゆえキリスト教徒となっても物質的利益を得るわけでなく、むしろ地位や財産を近親者まで失う怖れがある。彼らがその悲惨な過去の生活の暗黒と罪の罪状について告発し、また救い主を信じて得た平和、救い主を愛し、その救い主の贖罪の愛を受けた者として感じる歓喜について告白した。同行した若狭の息子たちの信仰についても希望を語った。
 
フルベッキが認めた五番目のバイブル・クラス生徒の村田若狭の近侍を勤めた永松七郎助、その永松亨を曾祖父とする永松亨氏(曾祖父と同名)が『幕末維新 永松七郎助史料集』を翻刻して、二〇〇八年九月に発表されました。戊辰戦争のことなど、また村田家の詳細を記録しておりますが、長崎のフルベッキ師宅(大徳寺)を訪ねる受洗前後の村田若狭父子の貴重な様子を窺うことができる箇所に注目しました。(引用文は翻刻した原文に依ります)森田正記す。
一.政矩公、龍吉郎・久吉郎公ノ御兄弟ト共二長崎表鍋島直正公(後閑叟ト云フ)ノ新ニ御造築ニナリシ神ノ島御台場、且又英国軍艦御縦覧相成泉屋良助宅御滞在ノ上左ノ向々御訪問ノ節御供 フルベッキ教師 ボードウィン医師(政矩公御診察?受ケサセラル、此節通弁ハ相良洪菴ナリ) ピンヤトル豪商人
一.仝表写真師ヘ御三人御撮影ノ節御供、其時写真ニ御供致候人々ニ限リ御写真壱枚宛被為拝領候、千今保存致居候(其当時写真師ハ長崎中一人ナリシ由) 右所々御縦覧ノ末フルベッキヨリ御案内申上候ニ付、御出ノ節、此時モ御供、御土産トシテ左ノ品々御持越相成候  一 白羽重壱着  一 白縮緬壱着 其外    其時、御宴会中御携帯アリし極上等ノ御印籠壱個(此品安野善五右衛門七年間モ懸リ製作セシ品ナリ)、直ニ御手渡被下候、其後二ヶ月余、本国へ更ニ注文シテ、桐ノ御紋付時計三個、御銘々方へ御返礼トシテ差送来候
 
 翌年三月一日の書簡では、村田若狭のプラン、日本宣教を促進するにあたっては邦人伝道者を育成すべきで、十三・四歳の少年二人を米国に派遣し教育を受けさせ、帰国後宣教師として働かせたいことを伝えている。翌年二人の有望な少年はフルベッキの許で英語学び、神学教育は日本では難しいので一八六九年四月妻子が帰国の時同行させたいとの一八六八年八月十七日付書簡があるが渡米が実現したのか、その少年が川崎敏雄と吉冨祇貞の後継伝道者のことなのかは、残念ながら調べが至らず。
 
 一八六八年一二月一八・一九日書簡
「本月の十三日一人の仏教の僧侶にバプテスマを授けました。(略)この度、若狭はバプテスマを受けさせるため息子と家来の一人、医師を伴ってきたのです。」僧侶は熊本藩の清水宮内だが、息子は長男龍吉郎か次男久吉郎か、医師とも不明。「この老紳士はバプテスマを公表することを本当は恐れておりますが、自分のバプテスマのことを家族のものにも藩主にも、秘密にせず、キリストを信じる以外に日本の救いはないという自分の確信をはっきりと話したのです。藩主は譴責も処罰もせず、返って承認を与えたのです。」
 
 翌年初書簡の「しかし我々が境界の激励のために全ての人数と名前を"書いたもので公表"できるようになるのは、もうそう遠いことではないと信じています。それまでは、直接顔を合わせて再会するのではない限り、どうかお許しください。」について、グリフィスは、"Verbeck of Japan 日本のフルベッキ"で、このことは佐賀の自宅で母親に洗礼したことであると言い、その後娘が長崎で受洗礼し、今や一家系で四世代がクリスチャンであることは、キリスト教の神聖美を例証し、やがてキリストが日本を支配するとの予言を強調しているのだと述べている。   
 
 
 写真は"Verbeck of Japan" より、 次の解説は『幕末維新 永松七郎助史料集』より、「 前列中央村田若狭政矩公(右)龍吉郎(左)久吉郎 (後列右から)上原七郎、永松七郎助、源蔵、宮原作之進、本野晋五郎、儀十、江口梅亭、本野周蔵」
 
 参考文献: 中島一仁「幕末プロテスタント受洗者の研究(一)ー(三)」佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要
 
 
鍋島直正公(1815-1871)とフルベッキ博士(1830-1898) 
 長崎警護主藩の佐賀藩主鍋島直正公は、文久元年1861家督を長男直大に譲って閑叟と号す。弘化・文久約20年間に長崎を訪ねること40回、自らも西洋文明の数々を見聞し多くの藩士を遊学させ、他藩に先駆け近代化を成し幕末の雄藩とした。
 中野禮四郎著『鍋島直正公傳 第五編』侯爵鍋島家編纂所発行の「長崎は我國外交の正門にして、当今西洋の思潮は、その機械と共に混々ここより流入したりしかば、我国将来の変化の此地より生ずべきを看破せられし公は、船艦武器を輸入すると共に、蘭学の素養あるものを(長崎海軍)伝習生として、その軍用使役の術を学ばしめられしが、爾来会所貿易は私貿易と変じ、多年の蘭学亦英学に移りたりしかば今や五六の星霜を経るの間に、新知識の人物輩出するに至れり。而して是等新人物の中にありて、石九虎五郎は善く英語を操りしが、其他馬渡八郎、本野周蔵等の語學者出でたりしを以て,我藩は幕府の通辯に依らずして直接に英米人と対話するを得,為に私貿易の利には常に優先権を獲得したり。(以下略)」を再掲する。 
 
 閑叟公はフルベッキに会うこと三回、慶応元年五月二十一日相良弘庵(注1.)の勧めで五島町深堀藩邸で蘭医ボードインの診察を受け、二十二日は出島蘭館訪問の後、大浦のグラバー商館を訪ね饗応を受け石丸、馬渡等の通訳で歓談した後、米領事フレンチの招待で同席英学生らを教導するフルベッキと歓談を尽くしている。フルベッキは同年八月石丸の案内でフフレンチと佐賀に来遊、弘道館を訪ね古文書の保存法を尋ねたり景勝地を散策し、武雄・嬉野温泉に浴し、有田の陶磁器製造などを巡見する。嬉野の温泉噴出に驚きホテル等の設備を整えれば外国人が来遊入浴大繁盛すると言っても誰も理解できなかったそうだ。
 
 岩倉卿は佐賀の学校教育を評価して、明治元年十月岩倉具視の次男具定・三男具経を佐賀に送るが、帰藩中の石丸虎五郎はフルベッキに彼らの教導のことを託したため、兄弟は長崎遊学となり致遠館に学び、明治三年にはアメリカへ留学する。一八七〇年三月一九日J.M.フェリス師宛書簡に「この度の旅行には五人の有望な青年が加わっておりますが、多分貴下をお訪ねしてニューブランズウィックへの道順について、ご指示を仰ぐことと存じます。五人の名は、旭、龍、折田、服部、山本です。最初の二人はわたしの生徒で後のはスタウト氏の生徒でありました。前の二人はその立派な態度でもわかるように帝国政府の最高責任者の一人の子息たちです。服部も立派な青年です。いずれも今までに留学した者のうち最も有望な青年です。むろん学資は十分にあります。一行のうち二、三人は英語をかなりよく話せます。」旭とは岩倉具視の次男具定、龍は三男具経であり、ほかに南こと長男具綱も留学している。薩摩藩折田彦市は岩倉兄弟の随行者として渡米、のちプリンストン大学を卒業、長州藩服部一三はラトガーズ大学を卒業し、山本とは明治四年「弁務使 弁務使差越の外国出張者氏名」に山口県服部と並ぶ山本(毛利)重輔である。
 
 閑叟公は十一月二十日フルベッキらを佐賀神野別荘へ招待饗応する。一八六九年一月二二日 ニューヨーク、オーバーン神学校神学博士S.R.ブラウン師(注2.)宛書簡で、フルベッキは前年の大阪訪問(小松帯刀会談)とこの肥前行きに触れ、肥前前藩主(閑叟公)の緊急の呼び出しで、宗教目的の旅ではなく、私の生徒の中には四十六名の肥前藩士がおり、その藩主が都へ向かうにあたり、その出発前に会いたいとのことが認められていることから、フルベッキの新政府招聘と致遠館後処理について話し合われたものと推測する。その月末には閑叟公は、佐賀を出発して十二月十四日京都着。翌二年二月二十二日副島・江藤を随えて帰国するまでの二ヶ月間には、同年八月初代大学別当に任命される松平慶永公(注3.)もほぼ同時期(十二月十七日から三月二日)京都に滞在し参内会談をしているので、フルベッキの件も協議していたと考える。
       
 一八六八年八月一七日J.M.フェリス師宛書簡「あなたの知人の中によい科学的で実際的な炭鉱夫はいませんか。肥前藩主は自国の炭鉱を踏査して開発したいそうです。」と相当の俸給を払うので適当な人物を紹介するよう依頼されている。同一二月一九日書簡でも同様の相談依頼をしているが、実際は佐賀藩の高島炭坑開発はグラバー商会と共同経営となり、英国人技師モーリスを招聘して、日本最初の蒸気機関による竪坑を高島に開坑した。北渓井坑跡は世界遺産「明治日本の産業革命遺産」である。
 
 前回一八六八年一二月一八・一九日フルベッキ書簡の続きにある、「藩主は聖書やその他の書籍を読み、その教理に好感を持ち、私に会って話したい意向だそうで、事実、今藩主はメッセージをよこして藩主を訪問するのみならず、また長く藩に留まって、キリスト教によって藩校を設立し、その人民を教化するよう、私に要望されました。」を付記しておきたい。
 
尚一八六八年五月四日書簡の「備中守、鹿児島藩主」は鹿島藩主の誤訳で、肥前鹿島藩の第一三代藩主鍋島直彬(なおよし)は鍋島直正(閑叟)の甥。
 
(注1.)相良弘庵(知安1836-1906)1863年ボードインに医学所・養生所で、その後フルベッキに致遠館で学ぶ。W.E.グリフィス著村瀬寿代訳編『日本のフルベッキ』には、一八七〇年頃の日本医学分野において、どの国の言語と制度を導入するかについて、軍医総監石黒忠悳回顧談に、「フルベッキ博士はすでにその頃人々から尊敬と信頼を受けていた。ある日、ドクター相良がフルベッキ博士に会いに、医学に関して我々の意見を取り入れる必要性を説いた。我々の意見にこのアメリカ人教師は共感した。彼の政府への助言により医学ではドイツ人教授を雇い入れることになった。現在の医学の繁栄は亡博士に帰するところが非常に大きい。」とあり、ドイツ皇帝に要請がなされミュルレル、ホフマン両氏が来日、更にはドクター・ベルツが来日しわが国の医学発展に貢献した。
御子孫の相良隆弘氏のホームページ「我が国近代医学制度創設の功績者 相良知安」を参照ください。 http://sagarachian.jp/main/
(注2.)オーバーン神学校はフルベッキが1856年入学1859年卒業した学校。 S.R.ブラウンは1859年オランダ改革派宣教師として、フルベッキやシモンズといっしょに来日。
(注3.) 松平慶永公(1828-1890)は安政五年1858家督を茂昭に譲って春嶽と号す。明治二年八月大学別当となり十二月には開成校を大学南校(東京大学の前身)と称し文理法の三学科を設けたのは、春嶽・直正両公の協議の成果である。フルベッキ博士らの指導協力により外国人教師を雇い入れ、また選抜された優秀な学生達を米欧諸国へ公費留学させることにより、広く世界の文化文明を吸収させ日本の近代化に寄与する道を拓いたと言える。
写真は閑叟公、春嶽公、服部一三 up
 
 
Goodby Nagasakiグッド・バイ ナガサキ
 明治元年九月開成学校(のち大学南校)教師招聘の件などで大阪の小松帯刀と会っているが、それ以前閏四月二日木戸孝允宛大久保利通(1830-1878)書簡からも副島種臣の評価を入れてフルベッキを推挙していることがわかる。「(略)御案内も被為在候崎陽逗留之亜人フルベキ博識有徳之者ニテ皇国之情態二も相達別而有用之人物二而候段年来承居候最公法学ニも相通外國御交際二就ては殊更御為可相成ト副島之論も承申候就ては何卒御雇入相成其許迄早々御取寄置被成候ハバ則有志之者ハ門下ニ入候様御坐候ハバ大ニ宜舗ハ有御座ましくや当時學校等御取達相成候より(略)」
 
 これに対して危惧反論もあった。東久世通禧は、七卿(五卿)落ちで長州から太宰府に居た慶応三年十一月微行して二週間あまり長崎を訪ね、薩摩藩邸隣接のヤマキ長崎店の旗亭を宿として、外国商館や軍艦を視察し、五代友厚や蘭医ボードインや米人フルベッキらと交流している。『東久世通禧日記』慶応三年十二月三日「五代才助来封建を論す、大徳寺寓米人フルへツキ英傑之由為面接同伴行向、大浦蒸気造船場・製鉄処、カラハ茶製処等を見物」とある。その後明治元年十二月十八日「十字出仕、外国官へ行、山口範蔵宅行、フルへツキ之事」とある。
 明治二年二月七日大隈重信宛東久世通禧書翰に「今般フルーベッキ御雇入に付山口範蔵長崎表へ罷越候得共唯東京呼迎諸事談合は不苦間敷候得共彼者は耶蘇教主に御座候間表向政府にて御雇入にては議論如何可有御座事」フルベッキはキリスト教主(宣教師)なので公的に雇入れることに難色を示している。
 
 前回の藩士藩校のフルベッキ教導の高評価か゛閑叟公や春嶽公を動かし、新政府の重鎮らも博士の博識を評価して採用することになり、九年余りの長崎時代が終わることになる。ギドー&マニヨンフルベッキ夫妻、ウィリアムズ、エンマ、チャニング、グスタブ、ギドー一家は、一九六九年三月二十三日住み慣れた長崎を出航する。
一八六九年二月二三日長崎 ニューヨークJ.M.フェリス師宛書簡 (高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』新教出版社)「今月一三日、現在江戸にある帝国政府から一人の高官(注1.)が特にこの港に派遣されてきて、私に東京に出仕するように通達してきたのです。私の知る限りでは、主なる目的は私に大学設立の任務を与えるということなのです。しかし私を招聘する目的の詳細については十分了解されていなかったのです。ただ私の以前の生徒で現在新政府に仕えている者が、東京でわたしと会見して、心ゆくまで相談したいということが分かったのです。(略) 今月一六日地方官庁の役人が、私に右の招聘を受理するよう公式に伝達してきたのです。(略)ただ私を苦しめる一つの事は、スタウト氏(注2.)が来ていないことです。」
 
(注1.)山口範蔵(尚芳1834-1894)長崎遊学して蘭学を学んだ後、何礼之助やフルベッキに英語を学ぶ。 新政府の外国事務局御用掛、外務少輔となり、明治四年岩倉使節団の副使として視察。一八六九年二月一六日山口範蔵宛フルベッキ書簡「来月中旬までにわたしが東都へ出向くようにとの帝国政府からの御提議につき、慎重考慮致しました結果、喜んでお受け致しますことを謹んで回答申し上げます。」
(注2.)後任宣教師ヘンリー(1838-1912)&エリザベス・スタウトについては、G.D.レーマン著峠口新訳『ヘンリー・スタウトの生涯 西日本伝道の隠れた源流』新教出版社がある。三月十日来崎して、フルベッキとは二週間足らずで引継をして、その後の西日本特に九州伝道や広運館英語教師、ミッション・スクール東山学院や梅香崎女学校(現梅光学院大学)を創設など孤立無援の中の宣教師活動と日本人キリスト教指導者の育成に尽力したことが綴られている。特に西南戦争の震源地鹿児島に、戦後の「飼う者なき羊の群」見て、翌年秋に門弟たちを伝道派遣し、三年後に鹿児島教会を設立している。また明治十三年には、村田若狭の娘とその乳母が長崎教会で受洗していることが記されている。
 
 三月三十日横浜に着き開成学校の教師となり、四月三十日には妻と子供達がアメリカへ帰国、一九六九年六月二九日横浜 ニューヨークJ.M.フェリス師宛書簡には、この三ヶ月は私が異教の地で経験した最も辛い時で、長崎から江戸に来て失望の数々を身にしみて感じたとあり、ミス・キダーの来日意向云云が書かれている。M.E.キダー(1834-1910)は、S.R.ブラウンに1969年同行来日、新潟英学校の後横浜にフェリス女学院の前身女子洋学塾を創立した。書簡は続く、「私の江戸の転居は都合の悪い時に行われたのです。夏には全国の諸大名が会議を開き、私はその国の法律を改革する件に関し種々論議が交わされることとなり、わたしはその顧問として働かされることになったのです。それで秋か冬には帝国高等学校(大学)に類するものを設立する仕事に取りかからなければならなくなりました。」
 全てのことが政府の高官から好感もって迎えられはしたものの、保守派(攘夷派)のため心落ち着かず、「それで長崎へ帰りたいと毎日そう思っているのです。長崎は不安な政治の中心から遠く離れているので、今後数年間、日本の最も静かな港であるでしょう。なぜこうした事情の下で、わたしが元の古い伝道地に帰らないのかとあなたは言われ、また考えられるかも分かりません。本当に、わたしにしても、もしある政府の党派の人々を失望せしめなければ、今すぐにでも長崎へ帰りたいのです。しかしわたしは今、ブラックストーンとホイートンの著作及び経済学書を翻訳する者(注3.)と一緒に仕事をしているのです。それに以前の生徒のうち、(致遠館生など)三六名以上のものが、わたしを慕って江戸にやって来ているのです。」 (注3.)神田孝平(明治元年外国官一等譯官、二年公議所副議長)など
 
 同年夏休みを取って、「良い船便が得られたので、大学で三週間の休暇を得て、今月九日、長崎に行き、この船便に丁度間に合うように帰ってきました。長崎の私の旧い家(大徳寺)で楽しい時間を過ごし、スタウト夫妻がよく、よく熱心に働いているのを見届けました。」(八月二八日横浜 書簡)
 この間に、一八六九年六月十一日大隈重信宛に送ったフルベッキ意見書は、およそ二年四ヶ月後岩倉具視に提出された「ブリーフ・スケッチ」の元であった。次回長崎時代の集大成とも言うべきものについて考察し一区切りとした。
 
[参考文献] 
大隈重信 1935『大隈重信関係文書 第一』 日本史籍協会
大久保利通 1929 『大久保利通文書 第2』日本史籍協会 
 
 
ブリーフ・スケッチと岩倉使節団
本会森田氏は、「真の西洋を教えたフルベッキ宣教師」(『近代国家「明治」の養父フルベッキ博士の長崎時代』長崎外国語大学2016)の章で、「新政府によって東京に招請されたフルベッキ師は開成学校での本務のほかに、新生日本国家の在り方、外交について、重要な建言をしていました。長崎を離れてからの行為と言うよりは“長崎における総決算”という見方をしたいと考えます。」と述べている。
 
 ブリーフ・スケッチの成り立ちを念頭に置いた発言である。長崎を離れて二ヶ月半ほどの頃大隈重信に書き送った使節派遣の意見書であったことが、一八七二年八月六日江戸J.M, フェリス師宛書簡で分かる。「私が一八六九年に江戸に来た時は、強い排外感情が国内に漲っていました。しかし有力な友人たちが、私に外国へ使節を派遣することは、この秋か冬になる可能性があると話してくれました。このことが私に次の文書を作成することを暗示したのです。この文書を私は一八六九年六月十一日頃、秘かに私の友人大隈に送りました。大隈は当時も現在でも、政府の重要人物の一人です。私はこの文書が同氏の手に渡ったので満足して、そのままに放置して、そのことに関して、決して人に語ることも、あるいはさらに質問されることもありませんでした。」
 一方受け取った大隈も当時攘夷論の保守主義者たちから、改宗者などと疑われていたので秘匿していたが、岩倉卿の知るところとなり、フルベッキ顧問は一八七一年十月二十六日同邸に呼ばれて質されて、三日後作成し直した文書をもとに会見した。同書簡には、「岩倉は私の出した計画案を厳密に一字一句、その通りにやっていくべきであると私に言いました。その後、何回も会見が行われ、使節一行は私の文章に従って組織され、私の文章が岩倉及び天皇に知られるに至った日から二ヶ月経って出帆しました。」や「総理大臣でしかも全権大使一行の長である岩倉が、私に一度ならずこう申されました。「政府を難局から救うことに尽くしてくれた」と。そして大使一行は出発され北米合衆国に向かいました。」とも書かれて、更に「このことは今あなただけ(フェリス師)に書くのであって一般には公表しません。(略)私の名声を勝ち取るのに十二年間もかかった人々からの信頼を失ってしまうからです。しかもその上この使節派遣の計画を起草した外面的名誉は、使節一行に任せるという暗黙の了解が岩倉と私自身との間にあったのです。」そこで岩倉具視はブリーフ・スケッチを参照して作成した使節団派遣計画とも言うべき「事由書」を作成した。しかし「もし私たちがその恩典、すなわち信教の自由とその計り知れない影響が部分的には現在使節一行の帰朝後には、はっきりと獲得せられるとするならば、誰か単なる名声や光栄に煩わされましょうか。そのうえ私とわたしの業績を羨望を持って見ている領事たちの一団がおります。(略)名声はどうでもいいのです。結果が全てです。」宣教師フルベッキは使節団の欧米視察において宗教に触れ、文明国としての宗教的寛容を理解してくることを期待して、「信教の自由に関する覚書」を特別に付記しているが、岩倉公の「事由書」には全く既述されていない。
 
 使節団に夫婦で同行することになるチャールズ・デロング駐日特命全権公使へ、岩倉卿が便宜依頼の書簡を出した翌日十一月十七日に、フルベッキは宮中に招かれて天皇に拝謁し勅語を賜る栄誉に浴する。「汝久しく我邦に在り教導を奉し生徒を訓導す朕深く之を加す汝の才学浩博にして能く薫陶の功を奏し後進をして其成業を速かならしむ尤欣喜する所なり爾後益勉励し学術を盛にせんことを望む」(明治四年十月五日文部省雇米国人フルベッキへ勅語)
 
一八七一年一一月二一日江戸J.M.フェリス師宛書簡「全権大使一行はサンフランシスコに向けて十二月二十二日に出版する予定です。大使一行の長は龍と旭(ニューブランズウィック留学中)の父親です。日本帝国の総理大臣(岩倉卿)で最も権力のある人物です。この使節の派遣は永年にわたり、熱望しているキリスト教信教の自由をもたらすかもしれず、あるいは少なくとも、それに近づくのに大いに役立つかもしれないと言うのが私の希望であり、祈りであります。」
 次の便で、使節一行の名前の中には、八,九名がフルベッキの生徒であったと伝えているが、副使伊藤博文31 才、副使山口尚芳33才、一等書記官何礼之32 才、、大使随行中山伸彬30才、理事官随行中島永元28 才、瓜生震19 才、中野健明28 才、仏国留学の中江兆民25 才が該当する。
 
 岩倉使節団の主目的は、幕末欧米諸国と結んだ不平等条約の改正のための予備交渉であったが、最初の訪問国アメリカで躓き以後欧州諸国でも改正希望を伝えるのみであった。ただ欧米各国の国家制度、産業文明、伝統文化などを視察したことの意義は大きく、明治新政府の国家形成にとって、憲法や法律、近代的な産業や政治、司法、社会の制度などの参考となったことは言うまでもない。またブリーフ・スケッチと同時期使節団首脳に提出された「フルベッキより内々差出候書」は使節団報告書の手引書であり、それをもとにした使節団の公式報告書「特命全権大使米欧回覧実記」は、久米邦武(履歴:明治五年八月三日英国倫敦府において使節紀行纂輯専務に心得、杉浦弘蔵申談し取調べを命ぜられ、六月九日大使と共に帰朝復命す)の編修により、明治十一年末には太政官から刊行された。
 
 使節団(大使・副使・書記官・大使随行・理事官・随行員46名の使節団に、18名の随従者、43名(女子5名含む)の留学生、当初総勢108名) の詳細については、「公文書に見る岩倉使節団」https://www.jacar.go.jp/iwakura/index3.html や公文書館「単行書・大使書類原本大使全書」、「岩倉使節・米欧亜回覧の会」http://www.iwakura-mission.gr.jp/など、文献も含めて多数あり、また「ブリーフ・スケッチ」全文は、田中彰(1991)『開国』(日本近代思想大系1)岩波書店や高谷道男編訳(1978)『フルベッキ書簡集』新教出版社に掲載されている。
 
 一八七三年二月二二日江戸J.M.フェリス師宛「この時代の大いなる光り輝くある事件は一週間ほど前に、外国宗教の布教を禁止する布告を、政府の命令によって、全国にわたる高札から撤去することになりました。それは信教の自由を許したことと等しいのです。」  この経緯については、W.E.グリフィスが次のように述べている。「使節団の最初の成果は「長い間世界の中心地から取り残されていた」人たちの目を輝かせたことである。彼らは日本のことわざで言う、あるいは日本人が冗談めかして自分たちを呼ぶように「井の中の蛙」であった。キリスト教は真の文明国で絶大なる力を持つと彼らは覚ったのであった。使節団はすぐ行動を起こした。手短に述べると、全権大使は日本政府に電報で海外で受けた印象を知らせた。その結果、高札に掲げられていたキリスト教近世の布告が、まるで魔法にかかったように消えてなくなったのである。日本橋にあった考察には他の国とともにキリスト教近世が掲げられていたがある字キリスト教禁制の布告がなくなり考察がまばゆく見えた」ことを私は忘れられない。」(『日本のフルベッキ』村瀬寿代訳編洋学堂書店2003)
 
 最後に、これから本会の進むべき道は森田正発起人の遺志にあると考え、「G.F.フルベッキ博士の長崎時代」の<結び>を転載する。「長崎から東京へ移った当初は維新政府の主要な政権の中で活躍の場を広げますが、接する政府高官は長崎でフルベッキ師から知識を蓄えた侍たちでした。日本の近代化の源流は長崎にあったと言えましょう。長崎でのフルベッキ市の活躍の解明は英知を糾合して進めなければなりません。「フルベッキ書簡集」の文言と記載内容の奥は深く、今後もその読み込みに努力して更なるフルベッキ師像の創出に努めたいものと思います。フルベッキ師の全体像の解明は「フルベッキ書簡集」にあります。書簡集に秘められた内容の追求こそ道だと考えます。一字一句の関連究明を今後の課題として、日本の近代化に貢献したフルベッキ宣教師の顕彰に繋げたいと思います。」  一年間にわたり、「長崎フルベッキ研究会」facebook ページをご清覧くださいましたことに深く感謝致します。 up