杉山 元

元帥陸軍大将

 

略歴

明治13年 1月 1日 福岡県小倉市(北九州市) 出身

明治33年11月  日 陸軍士官学校 卒業(12期)

明治34年 6月  日 歩兵第14聯隊附

明治37年 2月  日 日露戦争に出征

明治38年 4月  日 歩兵第14聯隊中隊長

明治39年 8月  日 歩兵第14聯隊大隊副官

明治43年11月  日 陸軍大学校 卒業(22期)

大正 3年 8月  日 歩兵第14聯隊大隊長

大正 4年 2月  日 インド駐在武官

大正 7年12月 1日 航空第2大隊長

大正 9年 7月16日 参謀本部附(国際連盟空軍代表随員)

大正11年 4月 1日 軍務局航空課長

大正14年 5月 1日 航空本部補給部長

昭和 3年 8月10日 軍務局長

昭和 5年 8月 1日 陸軍次官

昭和 7年 2月29日 第12師団長

昭和 8年 3月18日 航空本部長

昭和 9年 8月 1日 参謀本部次長(兼)陸軍大学校校長

昭和11年 8月 1日 教育総監(兼)軍事参議官

昭和12年 2月 9日 陸軍大臣

昭和13年12月 9日 北支那方面軍司令官

昭和15年10月 3日 参謀総長

昭和19年 7月18日 教育総監

昭和19年 7月22日 陸軍大臣

昭和20年 4月 6日 第1総軍司令官

昭和20年 8月15日 終戦

昭和20年 9月12日 自決

 

自決

杉山 元は終戦後も自決するつもりはなかったようであるが、妻に「自決」を迫られて覚悟を決めたとされている。

杉山は自決すべく第一総軍司令官室に入ったが拳銃の引き金がひけず、ドアの外で緊張して待っていた第53軍

高級参謀・田中忠勝大佐に「おい、弾が出ないよ」と言い、大佐が安全装置を外すと部屋に戻り自決したという。

この自決の報を自宅で聞いた妻・啓子は「本当に死んだのですね?」と自決を確かめると自宅に帰り、あとを追って

自刃した。

部下に安全装置をはずして貰った杉山に対し、妻の啓子は短刀一突きで事を遂げたという。

 

御詫言上書

(前略)謹みて大罪を御詫申上ぐるの微誠を捧ぐると共に、御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の

速ならんことを御祈願申上ぐ。恐惶謹言。

 

参謀総長時代に会議の内容などを記したメモが戦後「杉山メモ」として公刊され、当時の軍・政府上層部の動向を

知る貴重な資料となっている。

 

防衛省

東京都新宿区

写真提供 K-N様

杉山元帥・吉本大将自決之跡の碑(右)

 

多磨霊園

東京都府中市

取材協力:小村大樹氏(多磨霊園著名人研究家)

杉山元帥夫妻の墓

 

世紀の自決

更新日:2007/12/16