菅野 直
海軍中佐
略歴
大正10年 9月23日 宮城県角田町(現角田市)出身
昭和13年12月 日 海軍兵学校入校(70期)
昭和18年 2月 日 第38期飛行学生(大分空)配属、戦闘機専攻学生
昭和19年 4月 日 343空(初代、隼部隊)分隊長、南洋に進出
昭和19年 7月 日 343空 解隊、201空分隊長
昭和19年12月25日 343空(二代、剣部隊)松山、戦闘301飛行隊「新選組」隊長
昭和20年 8月 1日 屋久島西方にて戦死(享年23才)
飛行学生
着陸禁止区域に着陸を試みたり、教官との空中模擬戦で教官機とあわや接触という状態を何度
も繰り返した。
飛行機を何機も壊したので「菅野デストロイヤー」というあだ名を付けられたと云う。
南方戦線
ヤップ島での防空戦では、乗機零戦の主翼を米陸軍爆撃機B‐24の垂直尾翼に引っ掛けて撃墜
した事もあったと云う。
乗機の胴体に黄色の帯を描いていたことから、米軍パイロット達に「イエローファイター」と呼ばれ
怖れられていたと云う。
神風特別攻撃隊
昭和19年10月の比島沖海戦において、最初の神風特別攻撃隊・敷島隊の隊長として201空の
分隊長としてフィリピンに配属されていた菅野を任命する動きがあったが、菅野は新しく受領する
零戦のテストのため中島飛行機小泉製作所(群馬県太田市)へ赴いていた。
このため菅野と海兵同期で201空・戦闘301飛行隊分隊長の関 行男海軍大尉が任命された。
経緯を聞いた菅野は「俺が関のところを取るんだったんだがなあ…」と寂しげにつぶやいたと云う。
その後、菅野は特攻機の直掩・戦果確認を務めたが、部下達に落下傘装備を禁止した。
第343海軍航空隊
源田 実が発案、自らが司令を務める二代目「第343海軍航空隊」の戦闘301飛行隊「新選組」隊長
へ転属、松山基地に集結し局地戦闘機「紫電」「紫電改」にて錬成を開始。
B−29の邀撃時には、前上方より背面急降下でコクピットのみに狙いを定め、搭乗員の顔が見える
ほどに接近し、接触寸前で交わすという攻撃方法を編み出した。
菅野 直海軍大尉
最後の戦闘
昭和20年8月1日、九州に向けて北上中のB−24爆撃機編隊発見の報を受け、菅野以下の紫電改20
数機はこれを邀撃すべく大村基地を出撃。屋久島の西方にB−24の一団を発見し敵上方より急降下に
入ったとき、「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と無線が入電。
これを聞いた菅野の二番機である堀 光雄飛曹長が遥か下方を水平に飛ぶ菅野機を発見、即座に近づ
いたところ左翼に大きな破孔を発見した。堀飛曹長は戦闘を中止し菅野機の護衛に回ったが、菅野は拳骨
を振りまわして怒り戦闘空域に戻るように指示した。
そして堀機が菅野機を離れ戦闘に戻ると再び菅野からの無線が入電、「空戦ヤメ、全機アツマレ」。
菅野機が居る空域へ向かう途中に再び「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」。
列機が燃料の続く限り捜索したが菅野機は見つからなかった。海軍基地はもとより、陸軍飛行場にも菅野
機の着陸を問い合わせたがどの基地にも着陸していないとの報告であった。
終戦後一ヶ月以上経った9月20日、源田司令は菅野を生死不明のまま「空戦の末の戦死」として二階級
特進を具申、菅野は正式に8月1日戦死と認定され中佐に昇進した。
個人・協同含め敵機撃墜数 72機。
称念寺
宮城県角田市
「新撰組」 隊長 菅野 直海軍大尉 墓碑
更新日:2009/12/12