関 行男

海軍中佐

 

略歴

大正10年 8月29日 愛媛県西条市出身

昭和16年11月15日 海軍兵学校卒業(70期)

昭和16年11月15日 戦艦「扶桑」乗り組み

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 4月  日 軍艦「千歳」乗り組み

昭和18年 1月  日 第39期飛行科学生

昭和18年 8月  日 艦上爆撃機の実用機教程(宇佐空)

昭和19年 1月  日 霞ヶ浦海軍航空隊付き(操縦教官)

昭和19年 5月  日 結婚(婦人は関大尉散華ののち再婚)

昭和19年 9月  日 台湾を経てルソン島マバラカット基地

昭和19年10月19日 神風特別攻撃隊敷島隊の指揮官発令

昭和19年10月21日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投

昭和19年10月22日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投

昭和19年10月23日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投

昭和19年10月24日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投

昭和19年10月25日 出撃、米空母セント・ローに体当り、散華(享年23歳)

昭和29年10月25日 伊予三島市に墓碑建立(没後十年目にして初)

昭和49年 5月 7日 現地人の有志によりマバラカットに慰霊碑建立

昭和53年 3月21日 西条市楢本神社に慰霊碑建立

 

    

 

 

出撃前の関大尉(左から三人目)

 

敷島隊の出撃

 

敷島隊の出撃

 

敷島隊が突入した米空母セントロー          

 

敷島隊の戦果を伝える新聞             

 

ご母堂の戦後

戦後、ご母堂サカエさんは日々の生活にも困窮し草餅を作って売り歩いたが、昨日までサカエさんを

「軍神の母」と神様扱いした人々は冷たかった。

その後中学校の用務員となったが、昭和28年「せめて行男の墓を…」との遺言を残し、用務員室で

その生涯を淋しく閉じた。ここに関家は断絶した。

 戦後の世相は、祖国を護るために散華した軍神の墓を建てることさえも許さなかったのである。

 

関 行男海軍少佐のご母堂

 

マバラカットの神風慰霊碑

昭和49年5月7日、フィリピン人 ダニエル・H・デイゾン氏によってマバラカットの海軍201空基地跡

に「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場」が建立された。

記念碑の除幕式には多数の参列者が有ったにも係わらず、日本からの参加者は一人もいなかった。

日本人が忘れている神風特攻隊の偉業を、外国人が認め顕彰したのである。

 

神風特攻隊全戦没者の碑

碑文(原文は英語)

ここは第二次世界大戦当時最初のカミカゼ基地、マバラカット東飛行場跡です。

カミカゼ特攻隊は昭和十九年十月二十五日大西海軍中将によってマバラカットで編成された。最初の志願者

は当地に進駐していた帝國海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属の搭乗員二十四人でした。最初のカミカ

ゼ隊指揮官は、大尉関行男で「神風特別攻撃隊」と呼ばれ敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の四隊に分かれ

ていた。

昭和十九年十月二十五日敷島隊は関大尉指揮のもとに午前七時二十五分ここを飛び立った。部下隊員は

一等飛行兵曹中野磐雄、一等飛行兵曹谷暢夫、飛行兵長永峰肇、上等飛行兵大黒繁男でした。同日午前

十時四十五分レイテ近海にて米海軍空母群を発見。先ず関大尉機が米艦セイントローに体当り爆破二十分

後に沈没させ隊員機は米艦カリニンベイ、同キトカンベイ、同サンガモン、同サンテイ、同スワニー、同ホワイト

プレンズを攻撃した。戦果では関行男大尉を「世界最初の正式人間爆弾」としている。

第二次世界大戦終了までのカミカゼ特攻の戦果は米艦隊の撃沈又は大破合計三二二隻兵員に与えた損害

九〇〇〇人以上であった。そしてカミカゼ隊員五〇〇〇人の内四六〇〇人が戦死した。

カミカゼ特攻はすべての世界史に記録の例のない壮挙であり、又歴史のあきらかにするところによればその

背後にあった理念は正に凡ての国が相互尊重と機会均等の原則に従って共存共栄を偕にする世界の秩序と

平和の確立をひたむきに願いその実現のため散華したことです。

この碑は、神風特攻隊戦没者全員と米国および連合国の犠牲者のために建立されたものである。

訪問者はこれら英霊の永遠の鎮魂と世界の恒久平和のために、祈りを捧げてください

 

村松大師

愛媛県伊予三島市

故海軍中佐 関 行男之墓

 

楢本神社

愛媛県西条市

関行男慰霊之碑

碑文

人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさに

このことである。この種の攻撃を行った物は、わが日本民族を除いては見当たらないし日本民族の歴史にお

いても、組織的な特攻攻撃は国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。

憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意志に基づいて絶対に生きて還ることのない攻撃に赴いた

事実は、真にわが武士道の精髄であり、忠烈万世に燦たるものがある。

昭和十九年十月二十日神風特別攻撃隊第一陣、は第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の

命により、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。

この攻撃隊十八機(うち半数は直掩隊)は十月二十五日出撃し、六機は護衛空母に命中し、三機は至近弾と

なって敵艦を損傷した。中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(一万四〇〇屯)に命中、同艦は火薬

庫の誘爆を起し、解体二つに折れて轟沈するという偉功を奏した。

 

関行男大尉がその教え子に残した辞世の句

教え子は散れ山櫻 かくの如くに

 

副碑碑文

関行男は西条市栄町下組関勝太郎の長男、大正十年八月生誕す 幼少より怜悧、果敢、何事も衆に秀づ

昭和九年三月大町小学校卒業次で県立西条中学校へ入学 昭和十三年二月江田島海軍兵学校(第七十

期生)へ入学し帝國海軍軍人としての宿望を果たすと共に、航空技術を習得して教官となり累進して海軍大

尉に任官す

大東亜戦争末期、日本国の命運旦夕に迫りし昭和十九年十月二十五日、神風特別攻撃隊敷島隊々長とし

て出撃し、皇国悠久の大義に殉ず 豊田連合艦隊司令長官は、忠烈万世に燦たる関の殊勲を全軍に布告

し、二階級特進の栄冠によりその偉功を賞揚す

西条市の旧海軍々人をもって組織する海軍会の有志相議りて、遺族無き軍神、関行男の慰霊碑を建立し、

源田実氏除幕して、その功績を永久に顕彰す

自今、毎年十月二十五日、軍神が敵空母「セント・ロー」に直撃して、轟沈破の日を例祭と定め、碑前に献花

供饌して霊魂安眠の礼を執り行なって遇す 依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを

 

関行男慰霊之碑

 

関行男慰霊之碑に供えられた250kg爆弾    

 

境内に建設された神風特攻記念館の展示風景

 

境内に建設された神風特攻記念館の展示風景

 

西条高校

愛媛県西条市

遥かなる故国を想ひて

碑文

捧戦没同窓生之霊

昭和三十年十一月  西中第三十九期生 西中佐鎮顕彰会有志 建立

 

神風特攻隊

更新日:2010/08/31