豊川海軍工廠爆撃

豊川運動公園

 

 

豊川市運動公園(工廠神社跡地)

愛知県豊川市

平和の像

由来記

豊川海軍工廠は、東アジアに戦雲がたれこめた昭和十四年十二月、重火器、弾薬を製造する目的を

もって開設された。第二次世界大戦勃発とともに規模を光学兵器等の製造にまで拡大し、徴用工員、

女子挺身隊員、学徒報国隊員を各地から動員して総員五万五千人を数えたが、昭和二十年八月七日

午前十時三十分、アメリカ空軍の爆撃により一瞬にして尊い二千四百七十七名の人命を失い、広大

を誇った工場も壊滅した。

終戦を迎えるや戦時中全従業員をもって組織した報国会が奉仕して、妙厳寺境内に大供養塔を建立

し、台座に戦死者芳名を刻して冥福を祈った。

昭和三十二年八月七日、殉国者の十三回忌を迎えるにあたり元従業員をもって八七会を結成し、英

霊の慰霊会員相互の親睦につとめ、毎年八月七日には盛大な慰霊祭を執り行い今日に至っている。

この間昭和三十七年には、金沢市卯辰山山頂に豊川海軍工廠女子挺身隊殉国者乙女の像が建立され

同年八月十八日八七会員が金沢市を訪れて地下に眠る女子挺身隊員の慰霊祭を執り行った。これを

契機に被爆地豊川市に平和の像建立の委員会を結成し目的達成に努力した。

これが募金にあたっては豊川市を中心に全国各地から一千三百万円の浄財を集めることができた。

像の製作は、金沢美術工芸大学教授彫刻家幸成氏の力作を高岡市堺芸社に委嘱し、昭和四十年

八月一日完成をまって陸上自衛隊豊川駐屯部隊の協力を得て輸送隊を編成し、北陸道、東海道をパ

レードして沿道の県庁、市役所に立寄り、八月三日現地に安着した。

途上豊川海軍工廠において戦死した従業員の遺族が涙とともに礼拝する場面が各地に展開され、平

和の像建立の意義がいかに大であるかを知ることができた。

かくして昭和四十年八月七日、数千の参会者を得て盛大な除幕式を挙行した。

ちなみに八七会の名称は、豊川海軍工廠壊滅の日八月七日を意味したものである。記念すべき像の

建立にあたり、この碑を建てる。

昭和四十年八月七日  八七会

 

平和の像

 

海軍教官 (五名連名)記念樹

 

亡き友の御霊に捧ぐ白梅の花/豊川海軍工廠会計部八七会

 

豊川海軍工廠韓国人犠牲者遺族墓参団     

 

豊友会 植樹

 

豊川市  薄墨の桜

 

かなざわの松

由来

この松は殉難おとめの像の建つ金沢市の卯辰山公園から平和之像と共に陸送、この所に移植したものです。

寄贈者  金沢市

 

卯辰山公園

石川県金沢市

殉難おとめの像(殉難女子挺身隊 世界平和祈願像)

建立の趣意

すぐる太平洋戦争の末期 昭和二十年八月七日午前十時三十分 愛知県豊川海軍工廠に敵機の大編隊

が来襲し 一瞬にして二千四百七十七名の尊い人命を奪った 石川県女子挺身隊員五十二名もその惨

禍の犠牲となって祖国に殉じた

白紙徴用の名のもとに 兵器増産の一翼を担い 不幸にも殉死したおとめたちの尊い死は その後十

七年 顧みられないで歴史の彼方に埋もれていた

中日新聞北陸本社が首唱し 金沢市在住の辻豊次氏が同憂同志と相はかり ひろく浄財を募り この

地に 殉難おとめの像を建立して 年次の慰霊祭を盛大に続け けなげなおとめたちの英霊を弔うと

と もに 永久の世界平和を祈念した

なお塔上の平和の鐘は元隊員と殉難者遺族たちで組織されている豊友会会員の浄財によるものである

合祀英霊   五十二柱            

調塑     日展審議員 金沢美大教授 矩 幸成

題字揮毫   芸術院会員 佐藤春夫      

鋳造     高岡市 堺鋳芸社        

竣工     昭和三十七年八月七日      

中日新聞北陸本社

 

挽歌  水芦光子

これやこの少女ら 生きてあれば いまは人の妻 子の母なるを

緑葉の色めくごと 春のなのはなやぐごと 生きてあれば とりどりなるを

われら哭く ここに哭かねば いづこに人の 嘆く辺ありや

昭和三十七年七月二十一日 豊川より土を持ち帰りこの所に埋め碑を建つ

石川県女子挺身隊 殉難者遺族有志 生存隊員有志

 

殉難おとめの像(殉難女子挺身隊 世界平和祈願像)

 

殉難おとめの像(殉難女子挺身隊 世界平和祈願像)

 

豊川海軍工廠爆撃    豊川海軍工廠・諏訪墓地

 

2008.08.07 豊川海軍工廠戦没者慰霊祭

 

都市空襲

更新日:2012/12/08