豊川海軍工廠爆撃

 

豊川海軍工廠

昭和11年、海軍は仮称「A廠()」「B廠(豊川)」の建設計画を立案し、豊川海軍工廠は昭和14

年12月15日に開庁した。当時は1,500人規模で開始された工廠は諸施設の拡充によって従業員が

増加し、昭和18年には60,000人規模の工場となった。

豊川市の人口も昭和15年には30,000人だったのが、昭和18年には74,000人、昭和19年

には92,000人に膨れ上がり、豊川市はまさに海軍工廠によって成長した軍都であった。

豊川海軍工廠は機銃生産に関しては日本最大の規模で、他に弾薬、光学機器、指揮兵器等が作られ、規模

・生産システムともに東洋一の武器工場と言われていた。

 

豊川大空襲

東洋一の規模を誇る豊川海軍工廠は、当然ながら米軍の戦略爆撃の目標となり、昭和19年11月23日

にはB29により航空写真が撮影され、精密な建物配置図が作成されていた。

昭和20年 8月 7日、雲ひとつない快晴、グアム・テニアン・サイパン・硫黄島の各基地から飛び立

った米軍第20航空軍のB29爆撃機124機とP51戦闘機45機からなる大編隊は、12波の波状攻

撃で豊川海軍工廠を爆撃。

午前10:13から僅か30分足らずの間に3,256発もの500ポンド爆弾(814.1トン)が投下

された。

海軍工廠では「総員退避」の放送直後に空襲が開始された為、12〜13歳の国民学校児童や女子挺身隊

員を含む2,700人近い尊い命が奪われた。

また爆撃は近隣の病院や一般住宅にも及び、一般住民の死没者も100人を超えていることが確実視され

ているが、その正確な実数は把握されていない。

翌日の新聞には、「豊川付近に爆撃、若干の被害が有った模様」とのみ書かれていた。

 

毎年8月7日が来ると、豊川市では犠牲者の供養がしめやかに行われ、豊川稲荷や駅前通りでは市民によ

り御魂祭り(8月7〜8日)が執り行われている。

現在、「豊川海軍工廠跡地保存をすすめる会」では平和祈念館を建設すべく活動を続けている。

 

豊川稲荷

愛知県豊川市

豊川海軍工廠戦没者供養塔

供養塔建立縁起

昭和二十年八月七日午前十時三十分突如米軍機B29の大編隊が豊川海軍工廠に来襲 数千の爆弾 

焼夷弾 無数の記銃弾が投下され 廠内は一瞬修羅の巷と化し阿鼻叫喚のうちに職員 従業員 学

徒 女子挺身隊員 雇員 傭員等の尊い命二千有余を奪ってしまった 其の惨状目を覆はしめ混乱

の状筆舌の及ぶところではなかった

同年八月十五日終戦和平となるや豊川海軍工廠報国団が中心となり 現地 に供養塔を建立して挺身

国難に殉じた英霊二千余柱の冥福を祈らんとの議が起こり 全国の資金と 団員の汗の奉仕とにより

十月二十五日地鎮祭を行い 翌二十一年九月二十三日竣工除幕式を挙行した

因に塔中には戦死者名簿と廠内縁りの土を納め各工場の石定盤に戦死者氏名を刻し台座周囲に組込

み 以て永久に冥福を祈らんとした

偶昭和三十二年八月七日此の地に於て英霊十三回忌法要厳修の際 生存者一同相諮り供養塔の概 要

を記し後世に伝えんとて此の碑を建立す

右記す

昭和三十二年八月七日  元豊川海軍工廠従業員生存者一同

 

豊川海軍工廠戦没者供養塔

 

大慈地蔵尊

碑文

昭和二十年八月七日当市に於ける戦災没者二千四百三十九霊の成仏と永劫の冥福を祈り 茲に大慈

地蔵尊を造顕し奉る

 

薄墨の桜

 

南門橋交差点

愛知県豊川市

豊川海軍工廠戦没者供養塔

 

名古屋大学環境研究所

愛知県豊川市

豊川海軍工廠 遺構

 

日本車両

愛知県豊川市

豊川海軍工廠 正門

 

豊川海軍工廠 引込線

 

中日新聞 豊川通信局

愛知県豊川市

豊川海軍工廠 海軍用地石標

 

豊川海軍工廠・豊川運動公園    豊川海軍工廠・諏訪墓地

 

2008.08. 07 豊川海軍工廠戦没者慰霊祭

 

都市空襲

更新日:2012/12/08