安田 督

海軍中尉

略歴

大正13年 7月25日 兵庫県出身

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和19年 3月22日 海軍兵学校卒業(73期)

昭和19年 5月31日 駆逐艦「春雨」乗り組み

昭和19年 6月 8日 ニューギニア西北海域にて、敵機の攻撃により沈没

               弾片七箇を受け重傷、マニラ海軍病院に収容

昭和19年 9月  日 退院、横須賀に復帰、航空母艦「信濃」乗り組み

昭和19年11月29日 呉に向い出航途中、熊野灘沖にて敵潜の雷撃で沈没

               戦死(享年20歳)

 

昭和19年11月29日

航空母艦「信濃」は呉に向い出航途中、熊野灘沖にて米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃を受け

大きく傾斜。「信濃」を救うべき処置が全て徒労と化し、艦長阿部少将が軍艦旗の降下を命じた。

軍艦旗は航海科の主管する物件である。航海士の安田少尉は大傾斜したマストにはためく軍艦旗を

スルスルと引き降ろし、自分の身体に肩から襷がけに結びつけ粛然と立った。

沈みゆく「信濃」の艦首に二つの人影が寄り添うように佇んでいた。安田少尉は阿部艦長の傍らに侍

し、収容として艦と運命を共にした。

航空母艦「信濃」

 

夜半に攻撃を受けてから時々刻々、艦の傾斜はひどくなり、やがて電気は消え真っ暗になった

下甲板の下で、総がかりで巨艦の復元作業に努力し、最後はバケツリレーまで行って排水作業

に努めたが全ては徒労に終わった。

蒸気で全身に火傷を負った重傷者、雷撃で負傷した将兵達が上甲板に運ばれてくる。注排水作

業員達は、意外に早い浸水のため艦底に取り残され、救出の時期を失ってしまった。艦底で作

業中の部下に引揚の命令を伝える為、戦友の制止も聞かず「大丈夫だ」と言って真っ暗な階段

を降りていった先輩将校は帰ってこない。

密閉された各部屋から鉄扉を叩く槌音、それも浸水とともに消えていく。艦底に閉じ込められた

戦友達の最期を告げる声が、時間の経過とともに伝声管を通して聞こえてくる。

「水が腹まで来ました・・・」「胸まで・・・」「首まで・・・」「もう駄目です、さようなら、天皇陛下万歳」

どうすることも出来ないじれったさ、もどかしさ。

頗る真面目で几帳面しかも人一倍責任感の強い安田航海士は、このようにして死んで行く戦友

達の最期に胸も裂けんばかりの思いに苛まれた事であろう。軍艦旗を降ろし身体に巻きつけた

とき、彼は軍艦旗と運命を共にし戦友達の後に続くべく覚悟を決めていたのかも知れない。

 

御尊父ご詠歌

 

戦死の報に接して

大君の御楯となりて散りにきと 今日おごそかに便り受けたり

汝も亦大和男の子とみんなみの 大わだつみに散りにけるかな

皇戦に散りゆく命惜しまずと ちかいのままに笑みて逝きしか

靖国の宮居めざしてひたむきに 戦ひ果てぬる汝と思ひぬ .

清らかの雄心ふるひまっしぐら 靖国の道馳せて行きしか .

学び舎の三年の教を身にしめて つとめ果たしし汝は男の子ぞ

二十一年短き命と消えぬれど その名は長く戦史にのこらん.

 

子を思う懐旧の詩

五ヶ条の大御論をかみしめて 益良武雄のつとめ果しぬ  .

汝の姿汽車の煙とうすれども 旗ふるこの手おろしかねいつ.

プラットの人混みの中に海軍の 軍帽見れば知らず近づく .

 

墓碑の建碑

奥津城の印立つれば凍雪に 熱き涙もこぼるなりけり   .

大君の御稜威かがやく御戦の 御楯願ひて汝も往くかや  .

古鷹の峯の松ヶ枝征矢たてて 出でしもののふ永久に還らず.

 

弔魂歌

大君の御楯と散りし若桜 吾が家の庭の春にかほれよ.  .

海軍に身を捧げたる汝ゆゑに 誇りに生きて神去りしらん .

二十一年短き命にあらずして 百の思い出長くつづかん  .

三とせあまりわが家にあらぬ人ながら          .

.             哀しいたましこの身もだゑる

兄の遺志かたく守りて仇討つと 張切る男の子家にあるなり.

先だちて水漬く屍と逝きにしを 戦友につたへよ海原の風 .

軍艦旗を背負ひて矢弾の中かけり 一念勝利を祈りたるらん.

矢弾つき御艦も今はしづみゆく あら渦巻きに御旗は消えぬ.

大君の御楯となりて散りにける 歎きはつもり三十年となりぬ

 

呉海軍墓地

広島県呉市

  軍艦信濃戦没者之墓

碑文

航空母艦「信濃」は、戦艦「大和」型3番艦であったが、ミッドウェー海戦で主力空母4隻の喪失

により、急拠空母として建造され、昭和19年10月19日に横須賀海軍工廠で竣工した。しかし

完全に工事を終ったわけでなく、横須賀軍港空襲が想定されたことから急拠呉軍港に向けて

出港することになった。

 11月29日、潮岬沖で米潜「アーチャーフィシュ」の魚雷4本が命中したが、さすがの大艦だけあ

って20節で航行できたが、間もなく浸水が増大し潮岬南東約百浬で転覆沈没した。乗組員、工

廠工員など1,080名が救助され、広島県音戸町三ッ子島に隔離収容され、「阿部俊雄大佐他戦

死者之墓」という白木の墓標を建立して回向をした。

 戦後、昭和58年に「空母信濃会」を結成、三ッ子島から卒塔婆を撤収、11月29日の命日に白木

の墓標を再建したが、白木では朽ちるため遺族、生存者有志の協力を得てこの碑を建立した。

 

海兵73期

更新日:2003/03/07