浮島丸事件

 

終戦直後の昭和20年 8月24日17時20分頃、京都府舞鶴市佐波賀沖で海軍特設輸送艦浮島丸

(4730トン)が突如爆発・沈没し、乗員乗客549人(政府発表)が死亡するという事件が起こった。

浮島丸には青森方面の朝鮮人労働者とその家族3,735人が帰国のために乗り込み、朝鮮・釜山へ

の航行中に進路を変更して舞鶴へ寄港し災禍に遭い、戦後日本の海難史上「洞爺丸事件」に次ぐ多く

の犠牲者を出した。

 

浮島丸 略歴

昭和12年 3月  日 竣工、貨客船として南西諸島航路に就航

昭和16年 9月  日 海軍に徴用され特設巡洋艦に改装、佐世保警備戦隊旗艦

昭和18年 1月  日 特設砲艦に改装、第22戦隊第1監視艇隊に編入(横鎮)

昭和20年 7月14日 空襲で打撃を受けた青函連絡船の代替船として派遣

昭和20年 8月22日 青森県の大湊から朝鮮人帰国者多数を乗せて釜山に向け出港

昭和20年 8月24日 GHQの指示により舞鶴に寄港、爆発を起こし乗員乗客もろとも沈没

 

日本政府が発表した犠牲者数

朝鮮人労働者3,725名中524名、乗員255名中25名、計549名。

但し、駆け込み乗船者を含めて死者は2,000人以上という証言もあり、政府発表の乗船人数・犠牲

者数を疑問視する説もある。

 

関連年表@

昭和20年 8月21日 政府次官会議で強制移入朝鮮人らの徴用解除方針を決定

昭和20年 8月22日 帰還輸送問題打ち合わせ会を開催

 

急遽帰国が行われた理由

浮島丸に送還命令が出たのは8月19日であり、政府が徴用解除方針を決定する以前であった。後に

京都地裁では、「強制連行された朝鮮人が連合軍の進駐やソ連軍の進軍と呼応して暴動を起こすこと

を恐れ、安全を確認せず急いでこれを帰還させようとした」(平成13年 8月23日)と認定している。

 

舞鶴へ寄港した理由

乗客には水の補給のためと説明されたが、乗員の中には「舞鶴で下船の準備をしている」との証言も

有る。また海軍省はGHQ進駐のため8月24日18時以降の船舶の航行禁止命令を出しており、当初

から釜山へは行かない計画だったとの指摘も有る。

 

爆発原因

舞鶴湾は戦時中に米軍が機雷を投下した海域であったが、船体の引揚時にも爆破の原因は調査さ

れず、確たる証言もなく、真相はいまだ明らかにされてないまま今日に至っている。

船体の引揚時に船体にあいた穴が外側にむかっていたことが目撃されており、機雷説は事実と矛盾

するとの指摘が有る。当時、乗組員の家族の間では、出港時に火薬を積み込んだ、爆破装置がセット

されている、等の風説が流れた。

 

関連年表A

昭和20年 9月16日 雲仙丸が浮島丸事件の生存者を乗せ舞鶴から釜山へ出港

昭和20年10月 7日 雲仙丸が陸軍の復員軍人2,000人を乗せ釜山から舞鶴へ帰港

              (この船が舞鶴への引揚船の第一号となった)

昭和20年10月 8日 舞鶴鎮守府が初の公式発表「浮島丸が湾内で触雷で沈没し、若干の犠牲者がでた模様」

昭和25年 3月  日 船体の浮揚に着手、103柱の遺骨を回収

昭和28年11月  日 第二次浮揚作業、245柱の遺骨を回収

昭和29年 1月 7日 船体を浮揚解体

昭和30年 1月21日 殉難者の遺骨、舞鶴地方復員残務処理部の廃止に伴い呉地方復員部へ移管

昭和33年  月  日 殉難者の遺骨、呉地方復員部の廃止に伴い厚生省引揚援護局へ移管

昭和46年  月  日 殉難者の遺骨、東京・目黒の祐天寺へ移管

昭和46年11月20日 身元が判明した殉難者の遺骨を、韓国政府を通じ遺族へ返還(一回目)

昭和46年12月 8日 身元が判明した殉難者の遺骨を、韓国政府を通じ遺族へ返還(二回目)

平成 4年 8月  日 韓国在住の生存者21名と遺族59名が提訴

平成13年 8月23日 京都地裁が国の安全配慮義務違反を認定.

昭和53年 8月24日 「浮島丸殉難者追悼の碑」除幕

 

浮島丸犠牲者の遺骨は当初、舞鶴地方復員残務処理部の管轄で東本願寺別院に祀られ同寺で慰霊祭

が行なわれていたが、その後に呉地方復員部、更に厚生省引揚援護局へ移管され、事故後半世紀以上

を経た今も故郷に帰ることの出来ない遺骨285柱は東京目黒の祐天寺に祀られている。

 

舞鶴湾 佐波賀地区

京都府舞鶴市

浮島丸殉難者追悼の碑

碑文

昭和20年 8月15日、日本は戦いに敗れた。青森県大湊旧海軍施設などで働かされていた朝鮮人労働者

とその家族3,735人(政府発表)は、強制労働と非人間的な生活からの解放と夢にまで見た故郷へ帰れる喜

びを胸に、大湊港で旧日本海軍輸送船「浮島丸」(4,730トン)に乗船し、8月21日午後10時、朝鮮の釜山に

向けて出港、帰国の途についた。

連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で浮島丸が針路を変更して舞鶴に向かい、湾内に入った

直後の8月24日午後5時20分頃、ここ下佐波賀沖で突然すさまじい爆発音と共に船体は真二つに折れて海底

に沈み、地元の人々などの必死の救助活動にもかかわらず、確認できただけでも婦人・乳幼児を含む524人

が日本人乗組員25人とともにその尊い生命を失ったのである。

故郷の山河や忘れられない肉親との再会を心待ちにしていた人々がその直前異国の海でかけがえのない生命

を失っていった殉難者の胸中いかばかりであったろうか。

私たちは、この浮島丸事件は「風化」させるのではなく、将来にわたって忘れ去ることのできないものと考え、思

想・信条・信教の違いを超え、人道の立場に立って追悼の碑建立の運動を進め、幅広い府・市民の方々の浄財

と京都府及び舞鶴市のご援助を得て、記念公園と追悼の碑の完成をみるにいたったものである。

この碑が平和と国際友好のかけ橋として意義深いものとなることを願いつつ。

浮島丸が沈没した海域

 

抑留者引揚

更新日:2004/10/19