機雷掃海(航路啓開)部隊

 

大東亜戦争中、日本の周辺海域には約66、000個の機雷が敷設された。その内訳は、日本海軍の

係維機雷が約55、000個、米軍の感応機雷が約11、000個である。

戦後になって、これらの機雷の掃海に従事し、主要な航路・港湾泊地を啓開、戦後の復興に大きく貢

献したのが機雷掃海(航路啓開)部隊である。

 

当時の機雷掃海艇

 

概史

戦争末期、米軍は対日反攻政策の一つとして感応機雷を敷設し、日本本土の海上封鎖により重工業の

弱体化を目的とする「飢餓作戦」を展開した。

主要な航路はことごとく塞がれ、敗戦後二ヶ月間で83隻の船舶が触雷した。当初、掃海作業の重点は、

大阪−下関間の航路確保を目的として瀬戸内海におかれ、掃海艇と現地徴用の漁船など112隻で「臨

時掃海部隊」が編成された。

その後、掃海作業は全国的に並行して進められたが、瀬戸内海では昭和23年に9隻、翌24年には6隻

の触雷事故が発生し、作業の重点は再び瀬戸内海に集中して行われた。

一方、日本海方面では機雷が対馬海流にのって沿岸各地に漂着し、一時は青函連絡船の運行も中止

された。昭和26年に13隻の掃海艇で「日本海方面機雷捜索隊」が編成され、481個の機雷が処分さ

れた。

 

昭和25年6月、朝鮮戦争の勃発に伴い国連軍の掃海作業に協力を求められ「日本特別掃海隊」を編成、

掃海艇20隻、巡視船4隻、延べ1、200名が参加して、当時交渉中だった「対日講和条約」の締結に大き

く貢献することとなった。

 

昭和27年、日本沿岸の全ての主用航路と100余ケ所の港湾に対して、全世界に「安全宣言」が発せら

れた。しかし、瀬戸内海に敷設された機雷の半数は未だに処理されていないらしい。

 

昭和24年5月23日、関門海峡で触雷し沈没するMS27号、右は救助作業中のMS22号

 

特攻掃海

当時航路を再開するに当たり未処理の機雷を強制的に掃海する「特攻掃海」という任務が有ったそうで、一回当り

の危険手当で家一軒が買えたとの事である。

 

殉職者

殉職者 79名。

瀬戸内海・朝鮮戦争の活動を含めて日本の死者も多数出たが一切公表もされず、殉職者の葬儀が公然と行われ

ることは無かった。靖國神社にも祀られていない。

国際法では戦後の機雷処理は当事国(敷設した国)の責任で行うべきところ、連合国は敗戦国である日本に掃海

させており明らかな国際法違反であることから、機雷掃海作業について 厳しい報道管制しいたためである。

 

金刀比羅宮

香川県中多度郡琴平町

掃海殉職者顕彰碑

碑文

第二次大戦中、瀬戸内海及び日本近海には六万七千余個に及ぶ各種機雷が敷設され、昭和二十年八月

の終戦時、日本周辺の主要港湾、水路はことごとく塞がれていました。

戦後これら残存機雷を除去し安全な海上交通を再開することが、国家再建の緊急業務となり旧海軍関係者

は率先して航路啓開業務に従事しました。

昭和二十七年までの六年有余に亘って主要な航路、八十余箇所の港湾や泊地など総面積5千平方キロに

及ぶ海域が啓開され、我が国の産業経済の復興に大きく貢献しました。

この間、航路啓開隊員は風浪寒暑と戦い、自らの危険を顧みず掃海や獏博物処理に挺身し、不幸にも七九

名が殉職しました。

これら殉職隊員の偉業を永久に讃え、後世に伝えるため、瀬戸内海国立公園協議会及び一府十県にわたる

三十二港湾都市の市長らが発起人となり、昭和二十七年六月海にゆかりのここ金刀比羅宮境内に、当時の

吉田茂首相の揮毫により「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以来毎週五月の最終土曜日に関係者及び有志

相集い、碑前において厳かに追悼式が執り行なわれ、今日に至っております。

この「掃海殉職者顕彰碑建立の由来」案内板は、第五十回回殉職者追悼式を記念し、航路啓開隊及び海上

自衛隊掃海部隊並びに本主旨に賛同した方々の浄財らよって設置されました。

平成十三年五月吉日  案内板建立発起人一同

 

    

掃海殉職者顕彰碑

 

  

江田島兵学校の桜

 

高野山奥の院

和歌山県伊都郡高野町

海防艦大東 戦没英霊塔「忠魂」

 

八月十五日

更新日:2008/10/13