低くて響きのいい、優しい声。
強く抱きしめてくる、暖かい腕。
吐息が羽毛のように柔らかく唇に触れて……
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げて、ナンナはベッドの上に跳ね起きた。
高鳴る心臓を押さえて、ため息をつく。それでも、ここが自分の部屋であることを認識するまでにはいくばくかの時間が必要だった。
窓の外に目を向ければ、外はまだ夜の明ける気配すらない真闇の中である。あれからすでに三日。毎晩見る夢は、決まってあのときのことだ。まるで身体が忘れまいとしているかのように、繰り返し脳裏に蘇ってくる。
「……どうして……」
あれから、少し冷静に考え直してみた。そして得た結論は、彼は自分をなだめようとしていたのだろうということだ。妙な連中に追い回されて多少おびえていたのも確かだったし、急に泣き出したりと情緒不安定なところを見せてしまった。
本当に唐突に自覚してしまったのだ。彼が好きだということを。それは抗いようもなく、さりとて従うこともできない巨大な波のようだった。なぜならこの想いは決して届くことはないからだ。
彼には既に大切な人がいて、自分は彼にとってただのいとこでしかない。既にわかっていたはずのことがこんなに胸を締めつける。苦しくて、息が詰まりそうだ。
もう、どうすればいいのかわからない。灯り一つ持たずに夜明け前の闇をさまよっているようだ。出口はどこにあるのだろう。それすらもわからないまま、また朝がやってくる。
翌朝、ついに出撃が決まった。カパトギア城から重騎士部隊が出撃したとの報告が入ったのだ。敵は『トラキアの盾』と異名を取る名将ハンニバル将軍である。南に位置するトラキア城からは竜騎士部隊が出撃したとの情報もあり、とりあえずミーズの周辺で敵を迎え撃つことになった。
竜騎士部隊は弓兵と魔法使いを中心とする部隊が、重騎士部隊は歩兵および騎兵というように隊分けを行い、このうち騎兵は機動力を生かして両者のフォローに回る。そして既にパラディンにクラスチェンジしていたナンナはフォロー役に回ることになったのだが。
ミーズ城周辺は森が多く見通しが悪いことから、単独行動を避け常に二人一組で行動するよう通達が下されている。そしてこの時ナンナのパートナーとして振り分けられたのは、同じくパラディンになっていたアレスだったのである。
「……湿度が高いな。この分だと霧が発生する可能性がある。あまり遠くへ行くなよ」
忠告を半分聞き流して、ナンナは南方の山々に目を向けた。
(優しくしないで……)
優しくされたら、期待してしまう。そんな日は来ないと、わかっているはずなのに。あの日から彼をまともに見ることができない。この三日間は、ろくに顔も合わせていなかった。そんな彼女の態度を不審に思っているのか、時折視線を背中に感じることがある。二人の変化には周囲も気づいているらしく、この組合せはセリスが二人に気を使った結果だったのだが、ナンナにはその気づかいがかえって辛いのだった。
アレスの考えがわからない。あのキスの意味を問うのが怖い。ただの気まぐれだろうと思いつつ、はっきりそう肯定されてしまうのが怖いのだ。考えまいとして、緩く首を振ったとき。
「……ナンナ、聞こえているのか?」
低い声と共に腕を引かれて、ぎくりと身体が震えた。全身がかあっと熱くなる。きっと顔も真っ赤になっているだろう。
「えっ……何?」
「何、じゃない。霧が出そうだから注意しろと言ったんだ」
「あ……ええ、わかってるわ」
忠告よりもつかまれた腕のほうが気になって、困ったように身じろぎする。なのに彼はそんな彼女の様子には気づきもせずに顔を覗き込んで言った。
「何をぼうっとしている?身体の具合でも悪いのか?」
「……そういうわけじゃないけど……」
「なら、もっと集中しろ。もうすぐ戦いが始まるんだぞ。気を抜けばこっちがやられるんだ」
「……わかってます」
「しっかりしろ。俺もいつでもお前を守ってやれるとは限らないからな。余計なことを考えている暇はないぞ」
突き放すようにそう言って背を向けたアレスに、ナンナは痛みをこらえるように目を閉じた。
余計なこと。所詮、彼にはその程度のことでしかないのか。自分にとっては息ができなくなりそうなくらいに重要なことなのに。
わかってる。これは戦争だ。他のことに気を取られていては自分ばかりでなく全体に迷惑をかけてしまう。わかっているのに、心と身体がばらばらになってしまったように言うことをきかない。
(今は考えちゃだめ……しっかりしなくちゃ)
浅い呼吸をくり返し、ようやく目を開けたとき。周囲の状況は、一変していた。
「えっ……?」
白い靄に辺りはすっかり覆われていたのだ。視界は数メートルしかなく、ついさっきまでそこにいたはずのアレスの姿も消えている。
「やだ……どこに行っちゃったのかしら」
情けないが、一人きりで深い森に放り出されてしまうと何もできないのだ。慌てて馬首を巡らせ、適当な方向に動き始める。本当は動かない方がいいのだが、このときはたった一人という不安が彼女をつき動かしていた。
早くこの森を出たかった。うまくミーズ方面に出られればみんなに合流できるはずだ。きっとアレスもそう思ったに違いない。
だが、霧は晴れるどころか深くなるばかりだった。その中で、闇雲に歩き回った挙句に完全に道を見失ってしまったナンナである。
「……どうしよう……」
困ったように呟いて、ナンナは天を仰いだ。
霧のせいか、生き物の気配が感じられない。大木の梢が風にざわつく音だけが波のように押し寄せてくる。これだけ静寂に包まれていると、どうしても考えまいとしていたことが頭の中に蘇ってきてしまう。
(……母さま……私、どうすればいいの……?)
ナンナには、両親の記憶が乏しい。物心ついたころには父ベオウルフは既に亡く、母ラケシスは彼女が三才のときに兄を迎えに行くと言ってレンスターを出たまま不帰の人となった。当時は事情が飲み込めず、母を迎えに行くのだとだだをこねては親代わりだったフィンを困らせたものだ。
母を待ち続けて二年が経過したころ、フィンが母の形見だと言って母が大切にしていたロケットをくれた。そしてある日、好奇心にかられてロケットをあけた彼女は、そこに奇妙なものを発見したのである。
それは、見知らぬ人物の肖像だった。それが父でないことは、直感が教えてくれた。幼い彼女の脳裏にひらめいたのは、母の兄、つまり自分の伯父に当たるノディオン王エルトシャンのことだった。
母はよくその兄のことを語って聞かせてくれた。父のことよりそれが頻繁だったのは、ともに過ごした年数の差なのだとその時は思ったのだが。
時がたつにつれて、疑惑は確信へと変わっていった。母は……この肖像の人物を、愛していたのだ。確信は恐怖へとすり変わった。自分は、本当に愛されていたのか。本当は、望まれない子供だったのではないのか……と。
エルトシャン王とはいかなる人物だったのか。思い続けたナンナの前に現れたのが、そのエルトシャンの遺児で若き日の王に生き写しであるというあの黒騎士アレスだったのだ。
彼はあまりにも亡父に似すぎていた。最初に彼を見たときに感じた衝撃の正体も、今ならわかる。自分は、怖かったのだ。母の愛した人物にそっくりな彼のことが。その彼に一目で魅了されてしまった自分自身が。それまで自分を支えてきたコンプレックスへの反発心が崩れ去ってしまう予感があった。なのに、止めることができなかった。彼の目に自分は映っていないのに。
そうだ。アレスにはリーンがいる。幼いころから共にあり、孤独を癒し、多くの思い出を共有してきた大切な人がいるのだ。かなうわけがない。それでも、止められないのだ。
彼を苦しめたくない。彼の大切な人を傷つけたくない。でも、この恋を失ってしまったら心が死んでしまう。心の糸はぎりぎりまで張り詰めて今にも切れてしまいそうだった。
ふと顔を上げれば、霧が少しずつ晴れ始めている。それでナンナは、自分が森のはずれまで来ていたことを知った。ただし、ミーズ側ではなく南方の山に面した反対側だ。
「……いけない、戻らなくちゃ」
馬首を返そうとして、ぎくりとする。頭上を影が遮ったのだ。一瞬遅れて、ばさりと羽音が響いた。
「……女のパラディンとは珍しい。だが、偵察にしては出過ぎたな」
「……トラキアの竜騎士……!」
竜騎士が二人。槍を構えて騎竜の上に仁王立ちになっている。偵察部隊だろう。ということは、本隊が近いということだ。
「我々の居所を知られたからには、生かしておくわけにはいかん。死んでもらうぞ」
脅迫ではなく、からかいでもなく、まるで事実を報告するかのように男はそう告げて、槍をかまえた。
「……冗談じゃないわ……!」
とっさに馬首を翻した。いくらなんでも竜騎士を二人同時に相手にする自信はない。でも、森の中なら木々が入り組んでいるから身体の大きな竜は入ってこれないし、上からの攻撃も複雑に生い茂った木々の枝葉がある程度防いでくれる。ここは何としても彼らの追求をかわしてミーズに戻り、本隊の襲来を知らせなければならないのだ。
「ははは、我らから逃げられると思うなよ!」
高笑いした一方の男が投げつけてきた手槍が左の肩当てを砕いた。
「あうっ!」
激痛が走り、バランスを崩しかけた。辛うじて持ち直し、馬の首にしがみつく。一瞬気が遠くなりかけるのを、意地でつなぎ止める。
(だめよ!こんなところで死ねない……みんなに知らせなくちゃ……!)
どこをどう走ったのか、もう覚えていない。気がついたときには、草の上に投げ出されていた。かなり強く背を打ち、一瞬呼吸が詰まる。激しく咳き込んでいると、下草を踏む足音が近づいてきた。
「……これまでだ、観念しろ」
身体を起こそうとしたがうまく行かず、かえって肩に走った激痛に顔をしかめる。目の前に冷たく光る槍の穂先を見た瞬間脳裏によぎったのは、母の面影でも近しい人々でもなく、たった一人だった。
(アレス……!)
心の中でその名を呼んで、ぎゅうっと目を閉じたとき。
「……がっ!」
奇妙な悲鳴の後、殺気が消滅した。慌てて目を開けた彼女の視界に飛び込んできたものは。
「なっ、なんだきさま……ぐわあっ!」
宙にひらめく黒い長剣。血飛沫をあげて倒れ伏す敵兵。そして……黒いマントを翻しそこに立つアレスの姿だったのだ。
「アレ……ス……?」
幻かと思い、かすれた声で名を呼んだ。すると、幻でないことを証明するかのように振り返った彼の力強い腕が力の入らない身体を抱き起こしてくれた。
「ナンナ、大丈夫か!?」
残った力を振り絞って彼にすがりついた。
「アレス、敵よ!竜騎士部隊の本隊がすぐそこまで来てるの!」
「何!?」
「これは偵察隊よ。彼らが戻らなければ本隊は気づかれたと思ってすぐに動き出すわ!早く皆に知らせないと……っ、痛っ……!」
肩の痛みに身体を折る。
「ああわかった、わかったから落ち着け。ひどい傷じゃないか。すぐに応急手当を……」
「私はいいから、早くみんなに……っ、!」
霞みかけた視界に、影が映る。アレスの背後に迫る影の正体を直感した彼女は、反射的に行動を起こしていた。
「アレス……ッ!」
身体ごとぶつかるようにして彼をつき飛ばした。一瞬遅れて、新たな痛みが背中に走る。
「ナンナッ!……きさま!」
瀕死のまま槍を振り上げた竜騎士にアレスが止めを刺すのを見届けて、意識がふうっと遠くなりかける。
「しっかりしろ!なんて無茶を……!」
「だ……って、私……」
「ああいい、しゃべるな。今応急手当をしてやる」
言いながら鎧をはずそうとするアレスの首に腕を回す。そして、かすれた声で囁いた。
「あなたが……好き……」
血と共に気力が流れ出ていくようだった。もしかして、このまま死ぬのかもしれない。それなら、この想いを告げてしまってもいいだろうか。何も言えないまま死んでしまうのはいやだ。
返事を聞く余裕はなかった。意識はそのまま深い闇に飲み込まれてしまった。