I WISH 第五章
 一時は本当に死を覚悟したのだ。だが目覚めた場所は天国でも地獄でもなくミーズ城の見慣れた自分の部屋のベッドの上で、傍らにはリライブの杖を持ったラナが座っていたのだった。
「……ラナ……?」
「ああナンナ、やっと気がついたのね!よかった、もう大丈夫よ!」
「ここは……私、どうやって……」
「ミーズのお城よ。安心してね、竜騎士部隊はちゃんとみんなで撃退したから」
「そう……よかった……」
 ほっと息をつき、天井を見上げる。
「後でアレスにお礼を言っておいてね。彼が戦場を突っ切って城まで運んでくれなかったら本当に危なかったのよ」
 その名に、どきりとする。……そういえば、最後だと思ってとんでもないことを口走ってしまったような気がするのだが。
「じゃあ、また後で食事を持ってくるわね。傷口をふさいだだけだから無理して動いたりしちゃだめよ」
「わかってるわ。……ありがとう、ラナ」
「気にしないで。あなたのおかげでみんなが助かったようなものなんだから」
 そう言ってにこりと微笑んだラナが退室しようとして、ドアの前で足を止めた。
「……あらアレス、ちょうどよかったわね。今気がついたところよ」
(えっ!?)
戸惑うナンナをよそに、ラナがさらに笑顔で言う。
「ナンナ、アレスが来てくれたわよ。じゃ」
 気を利かせたつもりなのか、そのまま退出してしまう。ナンナは慌てて頭からシーツをかぶった。
(やだ、どうしようっ……!)
 今更だが頬が熱い。まともに彼を見ることもできず、ただ息を殺して彼の気配を伺う。
 まっすぐにベッドの脇まで歩み寄ってきたアレスは、しばらくそのままたたずんでいたがやがて静かに口を開いた。
「……傷は、もう平気なのか?」
「……あ、大丈夫……もう、血も出てないし」
「そうか。無理はするなよ。治療魔法では傷は治せても失った血までは取り戻せないからな」
「ええ……あの、私……ごめんなさい。結局迷惑ばかりかけてしまって……」
 持ち場を離れたばかりか、戦線を離脱してパートナーの彼にまで迷惑をかけてしまった。しかも、戦いの前にあれだけ注意されていたのにだ。もう呆れられてしまっているだろう。
 アレスはしばらく答えなかった。やがて、小さなため息と共に吐き出す。
「……気にするな。結果的に本隊を早く発見できたからな。問題はない」
「でも……私を運ぶために戦場を突っ切ったって……」
「心配いらん。すべてミストルティンの錆にしてやった。それに、謝らねばならんのは俺のほうだ」
「謝る?どうして?」
「お前のけがは半分は俺のせいだからな。俺がちゃんと注意していればはぐれることもなかったし、こんなけがをすることもなかったはすだ。すまなかった」
ナンナは思わずシーツから顔を出して反論していた。
「そんなこと言わないで。あなたは何も悪くないわ。私がけがをしたのは自分勝手なことをしたからで……」
 言葉が途切れたのは、彼が手を伸ばして肩に触れてきたからだ。
「……それでも、これは俺のせいだろう?」
左肩から滑り降りた手が背中に触れる。触れられた瞬間に傷口が疼いた気がして、ナンナは眉を寄せた。
「……アレス……」
「心臓が止まるかと思ったぞ。もう……あんな無茶はするなよ」
 引き寄せられ、抱きしめられる。声が出ない。呼吸が浅く、速くなる。
「無理はしなくていい。俺の側にいろ」
「え……」
「おまえを……失いたくないんだ」
 小さく息をのんで、ナンナはアレスを見つめ返した。すると、彼は少し赤くなって付け足した。
「だから……つまり、これが返事だ」
 まっすぐに見つめ返されて、すぐには声が出ない。その彼女の瞳から涙があふれ出したのにはさすがにアレスも慌てたようだ。
「ああ、泣くな。俺は泣かれるのが苦手なんだ」
「だって……嘘でしょう?あなたにはリーンが……」
「前にも言わなかったか?リーンは幼なじみだ。ちゃんと他に好きな奴がいる」
「でも……」
「それに、俺は好きでもない女とキスができるほど器用じゃない。……お前もそうなんじゃないのか?」
 涙が止まらない。背をなでてくれる優しい手。抱きしめてくれる広い胸。それらが本当に自分のために広げられていることが信じられない。
「だから泣くなと言っているだろう」
「だって……嬉しいんだもの。止まらないのよ」
「嬉しいのなら笑えばいいだろう。なぜ泣く?」
「わからないわ。だって……勝手に出てくるんだもの」
「……涙の止め方は俺も一つしかしらんぞ」
 その言葉にくすり、と笑い返して、彼女はそっと瞳を閉じた。少しして、吐息が唇にかかる。
―――二度目のくちづけは、前よりも甘かった。


「……そうだ、これを返しておくぞ」
 しばらくして。思い出したようにそう言ったアレスが取り出したのはあのロケットである。
「えっ、でもこれは……」
「あけてみろ」
 促されて、ふたをあけてみる。出てきたのはやはり以前と同じエルトシャンの肖像だ。
「これはあなたのお父様で……」
「よく見てみろ。もう一つ、ふたがあるだろう?」
「ふた……?」
 以前は気づかなかった。だが、確かにこのロケットは二重蓋になっている。
「……!」
 そこにあったのは、別の肖像だった。赤子をかかえた母が一人の男性に寄り添い、幸せそうに微笑んでいる。
「これ……」
「フィン殿にも確認した。これがお前の父上だ」
 シレジアでデルムッドが生まれたときに、シグルドの助言で残したものだった。ラケシスがこれを大切にしていただろうことは十年以上たった今でも全く色あせない肖像を見ればすぐにわかる。
「おば上はよほどこの方を愛しておられたのだろうな。とても幸せそうじゃないか」
 ぽろぽろと涙をこぼすナンナをアレスは優しく抱き寄せた。
「……泣くな。嬉しいなら、笑ってくれ」
「ごめんなさい。でも、嬉しいのは本当よ。お父様の顔を見たのは初めてなんだもの。お母さまは……あまり教えて下さらなかったから……」
 だから、いつも不安だった。本当は父のことを愛していなかったのではないか。自分は望まれない子供だったのではないか。そう思ったとたんに襲いかかってきた身も凍るような恐怖を思い出して、肩を震わせる。すると、肩を抱く手に力を込めてアレスが言った。
「……子を想わない母親はいない。夫を亡くしているのならなおさらだ。……少なくとも俺の母はそうだったぞ」
「アレス……」
「だから、そんなことを気にする必要はない。これからは、俺がずっと側にいるから……」
「……そうね。あなたがいてくれるものね……」
呟いて、額をもたせかける。そして、母を想った。
 母は……幸せだったろうか?兄と夫、愛した二人に先立たれ、自らも二度と故郷の土を踏むことなく異国の地に果てた母。わずかな記憶の中にあるあの寂しげな表情は、遠い故郷を想ってのことだったのか。もし今生きていたら、自分とアレスのこの出会いを喜んでくれただろうか?
「いつか……この戦いが終わったら、一緒にノディオンに帰ろうな」
「ええ……」
 この人の側にいたい。同じ空気を呼吸して、同じものを見て、同じように年を取って……そんなふうに、穏やかに生きていきたい。ささやかな祈りだが、それこそが彼らの戦う力になるのだ。

(終)
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