I WISH 第三章
 解放軍は破竹の勢いで快進撃を続けていた。マンスターを襲ったトラキアの竜騎士軍団を撃破し、勢いに乗ってミーズ城を落としたのはコノートを出て二週間後のことだ。彼らが拠点をミーズに移したことにより、トラキア側は彼らを侵略者とみなして迎え撃つ準備を始めた。激突の日は近い。だれもがそう感じていながら、それでも二週間あまりは穏やかな日々が過ぎていった。
表面だけとは言え、平和な日々は解放軍の戦士たちにはつかの間の休息となったようである。敵の襲撃に対する警戒を怠ることはなかったが、暇を見つけては城下の街へ買い物や遊びに出かける者が増えた。ここミーズはトラキアへの入口ということもあって、物流が集中する交通の要衝としてかなり栄えていたのだ。
 その日の午後も、彼らは数人ずつ連れ立って街へと出かけていった。自室で出かける支度をしていたナンナの元にフィーがやってきたのも、その誘いのためだったようだ。
「ナンナ、いる?」
「フィー?どうしたの?」
「うん、今日パティたちと街に行くからナンナもどうかなって思って。どう?」
「ごめんなさい、今日は先約があって……」
「先約?誰と?」
 答えようとしたところへ、その相手が現れたのだった。
「……ナンナ、準備は出来たか?」
「あ、アレス……下で待っててくれる?すぐに行くわ」
「わかった」
短く答えて、アレスはすぐに行ってしまった。その後ろ姿を茫然と見送っていたフィーが不意に振り返る。
「やだっ、ナンナったら水臭いじゃない!アレスとつき合ってること、どうして教えてくれなかったの!?」
 不意をつかれて、ナンナも思わず真っ赤になりながら反論した。
「ち、違うわよっ!私たち、別にっ……」
「え?だって……デートじゃないの?」
「……買い物に付き合ってもらうだけよ。チュニックの女物を捜しに行くの」
 この場合のチュニックとは甲冑の下に着る胴衣のようなものを指す。彼女はそれまで女性用があるのを知らずに男性用を身に付けていて、先日それをアレスに指摘されたのである。
「知らなかったって……胸のとこ、きつくなかった?」
「だから、上までしめられなくて困ってたの。そしたら、アレスがこの街の防具屋だったら女物もおいてるだろうって……」
「……それってやっぱりデートって言わない?だって、アレスって他の子にはそんなこと言わないわよ。それに、剣を教えるのだってナンナにだけだし……」
「それは私が彼のいとこだからよ。それに……アレスにはリーンがいるじゃない」
 そう言った瞬間、胸がちくりと痛んだ。この痛みの正体は、やっぱりよくわからない。考えていると夜も眠れなくなってしまうので、なるべく考えないようにしているナンナである。
「ほら、フィー、パティたちが待ってるんでしょ?早く行かないと」
「うん……って、ナンナ、あなたその格好で出かけるの?」
「ええ、そのつもりだけど?」
 ラフな綿のシャツに、皮のズボンとブーツ。おそろいのベストを着ようかどうか迷っていたところだった。
「スカートは?デルムッドが前にくれたって言ってたじゃない。せっかくの外出なのにもったいないわよ」
「だから、デートじゃなくて防具を買いに行くのよ?試着もするのにスカートの方がかえって変よ」
 そういって肩をすくめたナンナに、フィーはぽん、と手を打ってポケットから何かを取り出した。
「じゃあ、これあげるわ。着飾れなくてもこれくらいはね」
 ころん、と手の中に転がり込んだのは二枚貝を加工した小さなケースだ。現代で言うところのリップクリームのようなものである。
「フィー……これ」
「ナンナは元がいいからお化粧なんかしなくたってかわいいけど、これも身だしなみの一つよ。じゃあねっ」
 いたずらっぽく笑って部屋を出ていくフィーを、ナンナは茫然と見送った。
「……もう、フィーったら……」
 困ったように呟いて、ケースのふたを開けてみる。活発なフィーにはちょっとおとなしめのほんのりとしたピンク色は、ナンナの白い肌によく似合いそうだ。
「身だしなみ……かぁ」
 思えば、常に戦乱の中にあったせいで女らしいことはほとんどしたことがない。幼いころからの剣の鍛練で身体はすっかり筋肉質になってしまっているし、おしゃれにもほとんど気を使う余裕はなかった。
「……やだ、早く行かなきゃ」
 アレスを待たせたままであることに思い至る。少し迷って、ナンナは中の染料を指先にほんの少しつけた。それで軽く唇をなぞってケースをポケットにしまい込み、立ち上がる。少し急いだ方がいいかもしれない。


 階段の下でナンナを待っていたアレスは、階下に駆け降りてきた彼女にかすかな違和感を覚えた。
「お待たせ!……どうしたの?」
「……いや、何でもない。行こうか」
「ええ。あっ、ねえ、馬は?」
「今日はいい。防具屋はあまり遠くないし、あまり目立たない方がいいからな」
 ミーズの街にはトラキア人も多い。彼らは解放軍に対してあまり良い感情を抱いておらず、街に出た戦士の中には一度ならず絡まれた者もいるのだ。ナンナが街に出ると言い出したときアレスが即座についていくことを決めたのはこうした理由による。本人は気づいていないようだが、母親譲りの容姿と気品はこの辺境では目立つことこの上ない。
 きょとん、とアレスを見ていたナンナが小さく吹き出して、言った。
「このままでも十分目立つと思うわよ?」
 その言葉に、アレスはかすかに眉を寄せる。
「……そうか?」
 念のため述べておくが、彼の基本的なカラーコーディネイトは甲冑を脱いでも結局黒が中心である。その中で彼の金髪は大変映えたし、その顔立ちはと言えば人目を奪わずにおかない美形なのだ。地味なはずの服装も彼にかかっては最先端のファッションと同等の存在感を持ってしまう。そして幸か不幸か、彼はそのことを全く理解していないのだった。
 そんな二人が街に出れば、待っているのはお決まりのコースである。道を歩けばやたらに注目を集め、店に入れば要りもしないものを勧められる。さらにとどめのように、ようやく買い物を済ませて帰ろうとしたところへ薄ら笑いを浮かべた男たちに行く手を遮られたのだった。
「よう、優男。ずいぶんと目立ってんじゃねえか」
「ちいっとむかつくんだよなあ」
 言い掛かり以外の何物でもない言葉を吐く男たちの数は七〜八人といったところか。ふぞろいな部分鎧などからみてどうも傭兵崩れのようだ。暇を持て余して他人に八つ当たり、という有りがちなパターンのようである。
 それらを見て取ったアレスは、わざとらしくため息をついて言い放った。
「……それで、俺たちに何の用だ」
「何の用だぁ?すかしてんじゃねーよ」
「てめーじゃねえよ。用があんのはそっちの姉ちゃんのほうさ」
 袖をつかんだナンナの手がぴくっ、と反応する。アレスは彼女をかばうように立ち位置を変えた。
「おとなしく俺らにゆずれや。そーすりゃてめえにゃ手出ししねえでおいてやるよ」
「それともカッコつけて彼女守ろうってかぁ?やめとけやめとけ」
 げらげらと下品に笑う男たちを相手に、アレスは表情一つ変えずにぼそりと呟いた。
「……身の程をしらん奴等はこれだから困る……」
「あぁ?何か言ったか、てめえ」
「俺は相手の力量もはかれない奴の相手をしてやるほど暇じゃない。他を当たれ」
 あまりの暴言に言葉のでない男たちを尻目に、くるりと身を翻したアレスはナンナの肩を抱くようにしてさっさと歩き出した。
「アレスっ……」
「放っておけ」
「でも……!」
「て……てんめえ、待ちやがれっ!」
 我にかえって激昂した男の一人が背後からつかみかかろうとする。だが触れることすらできずに振り向きざまに手刀をたたき込まれて吹っ飛ばされた。
「ぐえっ!」
「この……!」
 それを合図に、男たちは剣を抜いて二人の周囲を取り囲んだ。
「なめやがって、もうにがさねえぞ!一寸刻みに切り刻んでやるから覚悟しろ!」
「ふん……きさまらが相手なら剣を抜くまでもないな」
「何ぃっ!?」
 この期に及んでも不敵な面構えを崩さないアレスに男たちがじり、と詰め寄る。と、ナンナが腕をつかんで叫んだ。
「アレス、だめよ!騒ぎを起こしたりしたら……!」
「奴等が勝手に騒いでいるだけのことだ。俺たちに非があるわけじゃない」
「それでもよ!あなたにわからないはずないでしょ?」
 自分たちはよそ者で、しかも侵略者と思われている。そんな自分たちが城下で騒ぎを起こせばそれはさらに住民の反感を買い、確実にこれからの戦いに支障を来すだろう。
 ナンナの言いたいことをさとって、アレスは小さくため息をついた。そして、
「……わかった。仕方がない、強行突破するぞ」
そう言うなり、彼女の手をつかんで走り出したのだ。
「待ちやがっ……ぐわっ!」
 立ちふさがる一人をつき飛ばし、一人を後方に転がして追いかけてくる相手の邪魔にし、二人は細い路地に飛び込んだ。樽を蹴飛ばし、バケツを飛び越えて路地を抜け、さらに細い脇道に飛び込む。そこは人一人がやっと通れる程度の隙間しかなかったが、アレスはナンナを抱き抱えるようにしてそこに身を隠した。
「あ……アレス?」
「しぃっ……静かにしてろ。見つかるぞ」
 喧噪はかなり近い。ナンナはぎゅっと目を閉じて彼にしがみついた。
 そのまま、しばしの時が流れた。喧噪は遠ざかり、代わりに二人の心臓の鼓動が妙に大きく聞こえる。二人はともに離れるタイミングを逸したまま、互いの体温を感じていた。
 心臓の音が聞こえる。あれほど恐れていたはずの温もりがなぜか心を落ち着かせる。吐息がかかりそうな距離に近づいた存在が、真実に気づかせた。
(やっと……わかった)
(私……この人が好きなんだわ)
「……どうした?」
 アレスが耳元で囁いてくる。それで初めてナンナは自分が泣いていることに気づいた。
「……何でもないわ」
 短く答えて、ようやく離れようとする。だが狭すぎる場所のせいでうまく動けない。しかも、背中に回された彼の腕はまだ離れる気配がないのだ。
「……ここを出ましょう。そろそろ帰らないと……」
 囁くような声で言ったが、力がない。吐息が頬に、唇に触れることで呼吸が浅く、速くなる。自分の反応が怖くてぎゅっと目をつぶると、柔らかな感触が瞼に触れた。
「……っ!」
 声が出ない。おびえるように震える頬を涙が伝い、あとを追うように唇が触れていく。指先がそっと顎に触れたことで、彼女は必死に唇を動かした。
(だめ……!)
 それでも。止めることはできなかった。吐息が唇にかかり、そのままふさがれてしまう。背筋を駆け抜ける甘い衝撃に、膝が崩れ落ちそうになるのをこらえるのがやっとだった。
 くちづけから解放された後も、彼を見ることができなかった。頭が混乱して何も考えられない。ただ、逃げるようにそこから走り去ることしかできなかったのである。
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