アルスターを占拠した解放軍だったが、ブルーム王はあきらめたわけではなかった。彼は東のコノート城で自軍を編成し直してアルスターを奪い返そうと計画を練っていた。解放軍も手をこまねいていたわけではなく、レンスターとアルスターとに分散してコノート軍を迎え撃つ準備を進めていた。このうち、レンスター城側はもちろんリーフ、フィン、そしてナンナが中心となっていたのだが。
「……フィン、彼をどう思う?」
出撃の準備で慌しい雰囲気の中、ふいにそんなことを言い出したリーフに、フィンは軽く目を見開いた。
「……リーフ様、主語が抜けています。どなたのことですか?」
尋ね返されて、リーフが眉をしかめる。
「……アレスのことだ」
「アレスの……?彼がどうかなさいましたか?」
「どうかしたか、じゃない!お前も見ただろう、あいつの態度!」
フィンも少し考えて、思い当たる。あれから何度か打合せなどでアルスターを訪れた彼らであるが、そのたびにアレスの噂は耳にしている。無愛想で、廊下ですれ違っても一言の挨拶もない。その上、解放軍の盟主であるセリスに対してひどく無礼であるというのだ。
「……つまり、リーフ様は彼が団体行動を乱していると怒っていらっしゃるわけですね?」
「そうだ。だいたい、我々はセリス様の元力を合わせて帝国を相手に戦っていかなければならないんだぞ。それを、あいつは一人で乱しているんだ。ダーナではセリス様に剣まで向けたというじゃないか!」
「そう興奮なさらずに……彼にも彼なりの理由があるのですから」
「理由だと?」
「そうです。彼は、あの戦いで父上のエルトシャン王を亡くされました。その理由を、セリス様のお父上であるシグルド様のせいだと思っているのですよ」
「何だって?どうしてそんな……だって、エルトシャン王が亡くなられたのはシグルド伯父上のせいではないのだろう?」
「そうですね。でも、彼はそうは思っていないようですよ」
「じゃあ、アレスは逆恨みであんな態度をとっているのか?なんて奴だ。まさか、裏切る気じゃ……」
「リーフ様」
事実か否かは別にしても話題としてはあまりに不穏当な主君の発言に、フィンが眉を寄せてたしなめようとする。それを遮ったのは、ナンナの控えめな発言だった。
「……あの、リーフ様……それは少し違うと思います」
「ナンナ?」
意を決したように口を開いたナンナに、リーフが目を向ける。
「……彼は多分誤解してるだけだと思います。それに……彼の母上も戦火に巻き込まれて亡くなっていらっしゃるのだそうです。ご両親を亡くされた悲しみと怒りがどんなものかはリーフ様もご存知のはずですわ」
戦争で両親を失った、その点に関する限りアレスの環境はリーフと大差はない。だがリーフにはフィンが、ナンナが、側にいて真実を教えてくれる人々がいた。だが、彼には誰もいなかったのだ。小さく息を呑んだリーフが何か言おうとするのを、フィンが制する。
「悔しくて、悲しくて、誰かを憎まずにはいられない。そうですよね?……リーフ様にはその相手がトラキアのトラバント王で、彼にとってはそれがシグルド様だったのだと思います」
「それは……しかし……」
「いつか彼にもわかると思うんです。それに……彼は悪い人じゃありません」
「どうしてわかるんだ?」
少し迷って。ナンナは、再び口を開いた。
「……だって、彼がリーンに向ける目はとても優しかったから……」
アレスがわずかでも緊張を解いて会話しているのはあの踊り子の少女だけだ。そして、彼女に対してだけは穏やかな微笑を向けるのである。本当の彼は、きっと心の優しい人なのだと、ナンナはそう確信していた。
リーフはまだ少し不満そうだったが、彼女の説得に少しは納得したようだ。
「……ナンナがそう言うんなら少しは信じることにする。でも、僕はあいつを完全に信じることはできないよ。せめてあいつが態度を改めるまではね」
「それでよろしいのですよ、リーフ様。これはご自分で判断なさるべきことなのですから」
そう言ったフィンが、視線でナンナを促した。うなずいたナンナもリーフに一礼してから席を外した。
「フィン殿、どうしたのですか?」
「ナンナ様、あなたにこれを預けます」
そう言ってフィンが差し出したのは、一通の手紙である。
「これは……手紙、ですか?」
「ええ。アレス殿の父上が彼に当てたものです」
「え」
「これを、アレス殿に渡していただきたいのです」
「アレスに……?」
「そうです。頼まれていただけますね?」
手紙を前に、ナンナは躊躇した。
「……こんな大事なものを、どうして私に……」
「それは、あなたと彼が血のつながったいとこだからです。それにこれは、あなたの母上が望んだことでもありますから」
「……母さまが?」
はっと見返す。昔から変わることのない穏やかな青の瞳がひたりと見つめ返してくる。
「エルトシャン王は亡くなる直前まで王妃様やアレス殿の身を案じておられたそうです。そして、これを預かったのはあなたの母上だった。だから、あなたが彼に渡してあげてほしいのです。あなたになら、彼が今抱いている思いを理解することができる。彼の孤独を理解し、かたくななあの方の心を溶かして差し上げられるはずだ」
「そんな……私、無理です。彼を説得するなんて……」
「あなたは正直に思ったことを彼に言えばいいのですよ。それで、伝わるはずですから」
「そう……ですか?」
「何も恐れる必要はないのですよ」
恐れる必要はない。その言葉が、今の彼女の胸にしみる。恐れずに、ぶつかること。それが、彼女の抱くコンプレックスを解決する手段なのかもしれない。
「……わかりました。この戦いが終わったら……彼と話してみます」
「頼みましたよ、ナンナ様」
微笑して、フィンは彼女の頭にぽん、と手をおいた。それは、両親のいない彼女の父親代わりだった彼が昔から相手をほめるときによくする仕種だった。
***
ナンナがようやくアレスと会話する機会を得たのはそれから三日後、ブルーム王を倒してコノート城を制圧した後だった。彼が一人で城壁の見張りに立ったことを知ってようやく決意を固めた彼女は、高鳴る心臓を押さえて城壁へと続く階段を上がっていった。
ドアを開けると、澄み渡った青空と強い日射しが彼女の目を射た。眩しさに目を細めながら周囲を見回すと、城壁の端に程近いところに立つアレスの後ろ姿が目に入った。深呼吸を何度かくり返してから、意を決したように歩み寄っていき、声をかけた。
「……あなたがアレス?」
思ったよりもずっと冷静な声が出たことにほっとする。彼もはじめは少し驚いたようだった(この時期、リーン以外で自分から彼に話しかける者は皆無だったのだ)が、すぐに冷静さを取り戻して尋ね返してきた。
「……そうだが、おまえは誰だ」
氷の礫のような冷ややかさを含んだ声にわずかにひるむ。が、何とか自分を取り戻したナンナはふわりと微笑を浮かべて言った。
「はじめまして、いとこさん。私はレンスターのナンナ、エルトシャン王の妹ラケシスの娘です」
まさに先制パンチ、という奴だ。これにはさすがのアレスもひどく驚いた様子で、身体ごと向き直った返った拍子に黒い鎧ががしゃんと音を立てた。
「ラケシス叔母上の娘だと……?」
「はい、母はずっとあなたのことを心配していました。レンスターに来たのもあなたを捜すためだったようです。残念ながらイードの砂漠を越えることができずに行方不明になってしまいましたが……あなたは今までどうしていたの?レンスターにいたのではなかったの?」
「……父上はアグストリアが戦乱になることを予期されて病弱だった母と幼い俺をレンスターの実家に預けられたそうだ。しかしそのレンスターも帝国軍に侵略されて戦火の中で母上は死んだ……ジャバローが現れなければ俺は今ごろここにはいない」
ジャバロー。ダーナで敵対した傭兵軍団の隊長の名だ。養父でもあったその男を、彼は自らの手で倒したのだとフィンが言っていた。
「奴は母上を失って路頭に迷っていた俺を拾って育ててくれた。俺は奴の傭兵軍団とともに世界を渡り歩いてきたのだ」
「だから会えなかったのね……アレス、ラケシス母さまから預かっていたものがあるの」
そう言ってナンナが差し出した手紙を何とはなしに受け取ったアレスは、見覚えのあるその封緘にはっと目を見張った。
「この封緘は、確かノディオン王家の……まさか……父上の!?」
「そう、エルトシャン王からあなたに宛てた手紙よ」
彼はものも言わずに封を切り、手紙に目を通していった。読み進むにつれてその顔色が蒼白になっていく様をナンナはじっと見つめる。
「……ばかな……こんなことが……」
「嘘ではないわ。すべて事実よ。フィン殿も、オイフェ様も、ちゃんと知っていることよ。エルトシャン王はシグルド様を最後まで信頼されていたのよ。お二人は真の親友だったと思うわ」
「これは……いったい……」
「アレス、セリス様を守ってあげて!あなたの力が必要なの!」
懸命に訴えかけるナンナをじっと見つめていたアレスの表情がふっと和む。その穏やかな表情にはっとしたその時、彼は口を開いた。
「……わかったよ、ナンナ。どうやら俺が間違っていたようだ」
「それじゃあ……!」
「ああ。セリスにも後で謝らなければならないな。これからはちゃんと協力しよう」
その返答にほっとして、ナンナがふわりと笑う。
「よかった!これでやっと母さまも安心して下さるわ」
「ああ……すまなかったな、よけいな心配をかけて。父上もきっと天井でやきもきされていたのだろうな」
そう言って腰に下げた黒い長剣の柄をなでる仕種に、彼女はふと思いついたことを尋ねてみた。
「……アレスは……お父様のことを覚えている?」
意外な質問だったのだろう。ふと顔を上げてナンナを見たアレスは、再び剣に視線を落として答えた。
「……いや。あまり覚えていない。父上と最後に別れたのは俺が三才のときだったし、肖像も残っていなかったからな。俺が知っているのは母上の話の中の父上だけと言っていい」
彼の母はレンスターの貴族の出身でとても気位の高い女性だった。それが他には高慢に映ることもあったが、母は母なりにノディオンの王妃であることに誇りを持とうとしていたのだとアレスは思っている。そして他の目にどう映っていようとも、彼にとってはたった一人の母で、その言葉は彼のすべてだった。だからこそ、あれほどまでにかたくなにセリスを、彼の父シグルドを憎み続けてきたのだ。
そう言ったアレスをナンナはじっと見つめていたが、やがて小さく息をついて言った。
「そう……では、これはあなたが持っているべきだわ」
「それは?」
「母さまの形見なの。でも、私には必要のないものだから」
そう言って、ナンナは首からはずしたロケットを彼の手に握らせた。中を見たアレスがわずかに目を見開く。
「……これは、父上……?」
「そうよ。初めてあなたを見たときはあんまりそっくりでびっくりしちゃった。ごめんなさい、もっと早くに言えばよかったわ」
「いや……ありがとう、大切にさせてもらう。代わりと言っては何だが、お前には剣を教えてやろう。これでも傭兵として少しは知られた身だからな」
「知ってるわ。でも、お手柔らかにね?」
「それは保証できないな。俺は手加減が苦手なんだ。さあ、剣を取れ」
「はい!」
訓練であるからには、もちろんアレスもミストルティンを用いるようなことはしない。互いに刃をつぶした訓練用の鉄の剣を用いるわけだが、それでもなお彼の技量は圧倒的だった。これまで一緒に訓練してきたリーフとも比較にならない。これはリーフが弱いというよりはアレスが強すぎるのだろう。彼が黒騎士と呼ばれ恐れられる所以は何もミストルティンのせいだけではないのだ。
程なく、彼女も剣を弾き飛ばされてしまった。
「きゃっ!」
「まだまだだな。そんな腕では敵を倒すどころか身を守るのもおぼつかないぞ」
「そんなことないわ、アレスが強すぎるのよ。私だってちゃんと修練は積んできたんだから……あ、いたっ……」
「どうした?」
剣を弾かれた拍子に手の甲を切ってしまった。真っ赤な鮮血がぽたりと滴り落ちる。
「……なんでもないわ。ちょっと切っただけよ」
「刃先が当たったか?かしてみろ」
いきなり手首をつかまれて。その手に唇を寄せられ、どきりとする。
「あっ、アレス?何して……」
「動くな。こういう傷はなめて治すのが一番なんだ」
「えっ……」
微かに舌が触れただけ。ただそれだけで、雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。そんな自分の反応に戸惑う。
「……アレス、もういいわ。そんな、大した傷じゃないし……」
アレスもようやく自分のとった行動の意味に気づいたようで、ぱっと唇を放した。
「……っと、すまん。傭兵仲間の荒くれ共と同じ扱いはまずいな」
「それは別にいいけど……ただのかすり傷だから、気にしないで」
「鉄の剣の傷を甘く見ないほうがいいぞ。すぐに化膿するからな。後で僧侶のところに行って治してもらえ」
少し早口でそんなことを言いながら、取り出したハンカチで手早く傷を結わえる。
「じゃあ、アレスもそうする?」
「何がだ」
「戦いのときよ。かすり傷でも放っておかないって、約束して」
そう言った彼女に、アレスは小さく苦笑して答えた。
「わかった、約束する。そのためにはナンナにも強くなってもらわないとな」
「え?」
「俺は前線にいるからリブローは届かないからな。僧侶では馬にはついてこれんだろう?」
解放軍にはトルバドールはナンナ一人である。つまり前線での回復は彼女一人に委ねられるということだ。
アレスの指摘に、ナンナは笑顔で答えた。
「あら、平気よ。だって、あなたが剣を教えてくれるのでしょう?」
「そうだな。では明日からはもっとびしびししごくことにしよう」
「今度こそお手柔らかにね」
「俺は手加減ができんと言ったはずだぞ」
「まあ、ふりだけでもしてほしいわ」
「……努力はしてみる」
顔を見合わせて、二人はくすりと笑った。
思った通りだ。彼は優しい人で、しかも自分と同じ痛みを抱えている。彼となら、この痛みを分かち合うことができるかもしれない。そう思ったとき、だった。
「あー、アレス!やっと見つけたわ!」
前ぶれもなくドアを開けて飛び込んできたのは、踊り子の少女リーンである。
「リーン?どうしたんだ?」
「どうした、じゃないわよ。早くしないとお昼の時間が終わっちゃうわ!お昼がすんだらすぐに出撃だって……あれ、その子は?」
ようやくナンナの存在に気づいたようである。
「ああ、彼女はナンナ、俺のいとこに当たる。ナンナ、こっちはリーンだ。ダーナで一緒に育った幼なじみだ」
「ナンナね?私はリーンよ。踊り子なの。よろしくね」
「あ、あの……ナンナです。トルバドールです。よろしく……リーンさん」
「やだあ、リーンでいいわよ。その手、どうしたの?」
「これは……剣の訓練をしていて」
「あっわかった、アレスがやったんでしょ!もう、ちょっとは手加減してあげなさいよ」
「だから俺は手加減が苦手なんだと最初から……」
「だからって女の子相手に力任せはだめよ。これがもし手じゃなくて顔だったらどうするの?責任とって結婚しちゃう?」
「えっ……私、そんな……」
「リーン、あまり話を飛躍させるな。ナンナがびっくりしているぞ」
「別に飛躍はしてないと思うけど……まあいいわ。二人ともお昼まだでしょ?一緒に食べない?」
「あ、あの……ごめんなさい。私、先約が……」
本当は何もない。けれど、なぜかそう言わなくてはいけない気がした。
「そう?残念だわ。じゃあ、また今度ね」
明るく微笑むリーンにぎこちなく笑い返して、ナンナは立ち上がった。
「じゃあ……アレス、また教えてね」
「ああ、また後でな」
ぺこりと一礼し、身を翻して駆け出した。息を切らして階段をかけ下り、廊下を一気に駆け抜けて、自分に与えられた一室に飛び込んだ。勢いのままベッドに身を投げ出す。息が苦しい。それ以上に心が痛い。その意味さえわからないまま、ぎゅうっと目を閉じた。