シャガール王、マディノ城にてついに挙兵。
その知らせを受けて最も落胆したのは言うまでもなくシグルドであった。この一年足らずというもの、何とかして親友との戦いを避けようと努力してきた結果がこれである。だが悲しいかな、生粋の軍人である彼には本国の命に逆らうすべはなく、否が応にも戦闘準備をせざるをえなかったのだった。
当然であるが、アグスティ城内にも戦前特有の緊迫した空気が漂い始めた。中でも誰もが案じたのが祖国ばかりか最愛の兄さえ敵に回さねばならなくなった悲劇のノディオン王女ラケシスの身である。この一年の間に見違えるほどの成長(外見も、精神的にも)を遂げた彼女はけなげにも自分が兄を説得するから戦闘に参加させてくれと申し出たのだ。それはこの時期に及んでなお戦いを避けるすべを模索していたシグルドには願ってもない申し出だった。そして軍内の誰もがさすがは獅子王の妹よと感嘆する中で唯一異を唱えたのが他でもないベオウルフだったのである。
「どうして!?」
信頼する男の言葉に、彼女は憤慨した。誰がわからなくても、彼だけはわかってくれると思っていたのだ。自分の決意を。自分だけが兄を説得できるという自負を。
つかみ掛からんばかりの彼女の剣幕に、ベオウルフは顔をしかめて答えた。
「さっきも言ったろう。お前は人を斬ったことがねえ。戦がどんなに汚くて残酷なもんかわかってねえんだ。こればっかりは腕だけじゃどうにもなんねえからな」
「でも目をそらすなと言ったのはあなたよ。忘れたとは言わせないわ」
戦いから目をそらさないこと。行く末を見届けること。それは、二人の間に交わされた最初の約束だった。同時にこれまでの彼女を支えてきた言葉でもある。一国の王女という身分を持つ自分を誰もが庇護しようとする中で、ただ一人だけ世の荒波に立ち向かうすべを教えてくれたのがベオウルフだった。彼に一人前に扱われることがどれほどうれしかったことか。
真夏の一番高い空の色の瞳がひたり、と見据えてくる。そこには何の感情も見出せない。その氷のような眼差しそのままに、彼は言った。
「……俺が許可するまで前線に出るな、とも言ったはずだぞ」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょう!?こうしている間にも兄様が出撃してくるかもしれないのよ!兄様を止められるのは私だけなの!死ぬ覚悟ならとっくにできてるわ!だから……」
つ、と目が細められる。そして。
「……じゃあ、お前は仲間を守るために兄と戦えるのか?」
その質問は氷の刃となって彼女の心に突き刺さった。
「……え……」
「これは戦争なんだ。お前が説得する相手はその指揮官なんだぞ。奴が味方に刃を向けてきたら、お前は奴を切れるのか?」
脳裏をよぎる面影。他者に『氷の美貌』と称された、けれど自分にはいつでも優しかった、兄。
絶句する彼女に、ベオウルフは小さく息をついた。そして、
「……その覚悟がないなら前線に出ても足手まといなだけだ。ここでおとなしくしていろ。これはシグルド殿も了承済みのことだ」
冷たく言い放つなり、踵を返して部屋を出て行ってしまったのだった。一人取り残されたラケシスの瞳にじわり、と涙がにじむ。
「……ベオウルフのバカッ!」
叫んで、ベッドに突っ伏した。熱くて苦い涙があとからあとからあふれてくるが、ぬぐう気にもなれない。己の無力に打ちのめされて、それを告げた男への理不尽な怒りだけがあった。
ラケシスの部屋を出たベオウルフは、廊下に立ち尽くす少年を発見して口元をゆがめた。
「よう、フィン。聞いてたのか?」
声をかけられたレンスターの槍騎士(先ごろ主君に勇者の槍を授けられて立派に昇格を果たしたのだ)フィンは、彼の皮肉めいた声に困ったように一礼した。
「……立ち聞きするつもりはなかったのですが、聞こえてしまいました。しかし、あの申されようでは……」
「いいんだよ。ああいう甘やかされてきたお姫様にゃガツンと言ってやらねえとだめなのさ」
ひらひらと手を振るベオウルフに、生真面目な彼はわずかに顔をしかめた。
「……本当によろしいのですか?」
言葉どおりでない深い含蓄をこめた問いに、ベオウルフの顔から表情が消える。
「……いいんだよ。フィン、後は頼むぜ。お姫様が暴走しねえように見張っててくれや」
言い置いて飄々と立ち去っていく後姿に、生真面目に頭を下げたフィンである。
翌日、アグスティ城を発ったシグルド軍は二手に分かれて進軍を開始した。出立前にシグルドから正式に後方待機を言い渡されていたラケシスは城の一室に引きこもり、ほとんど顔を見せなかった。とても冷静に彼らを見送る自信がなかったからだ。特に、あのいやでも目立つ大柄の傭兵の姿を見てしまったらどうなるか自分でも見当がつかなかった。
(……私、間違ったことは言ってないわ)
兄は誇り高い男だ。たとえ親友とはいえ、祖国に敵対する者の言葉に耳を貸すことはないだろう。本心はどうあれ、主君と愛する祖国に忠誠を尽くそうとするに違いない。だがそれはアグストリアとグランベルの全面対決を招くだけだ。この戦いはあくまでもシャガール王の私怨から発生したもので、シグルドにはもともと戦う意志はない。ならばシャガール王さえ説得できれば両者の和平には何の障害もないということになる。それができるのは兄だけだろう。
ラケシスには自信があった。自分の言うことなら兄はきっと耳を傾けてくれる。戦いの申し子のように言われがちだが、兄は無益な戦いを決して好まない。自分が戦場へ赴くことが、この戦いを止めさせる唯一の方法となりうるのだ。
『兄と戦えるか』というベオウルフの言葉が脳裏をよぎる。答えはノーだ。自分は兄に刃を向けることはできない。だが、この命を賭けることならできる。兄が間違いに気づいてくれるなら、この命を投げ出してもかまわない。
二日目の夜、ラケシスはこっそりと身支度を整えて城を抜け出した。馬を駆って向かう先は、シルベール城だ。そこに、兄エルトシャンがいる。数千騎に及ぶ精鋭クロスナイツを従え、シグルド軍の動向を見守っているはずである。
城を抜け出して十分とたたないうちに背後から迫るひづめの音に気づいた。はっと身を硬くして振り返り、すぐに肩の力を抜く。そこに見知った顔を見出したからだ。レンスターの槍騎士フィン。ベオウルフの代わりに自分の護衛としてアグスティに残っていた彼は自分が抜け出すのを目ざとく見つけて後を追ってきたらしい。
「ラケシス様、どちらへ行かれるのです!?」
当然の質問に、ラケシスは月明かりの下人を食ったような返答を返した。
「見てわからない?」
一瞬ひるんだフィンも、負けじと返す。
「……マディノへ向かわれるおつもりなら腕ずくでも阻止させていただきます。それがシグルド公子のご命令ですから」
「おあいにくさま。私が行くのはマディノではないわ。シルベールよ。兄様を説得しに行くの」
「シルベールとて同じことです。アグストリア側にとって今や我々は仇敵同然なのですよ?そんなところへのこのこ出て行ったりしたら……」
「シルベールに駐留しているのはノディオンのクロスナイツよ。王女に剣を向ける愚か者はいないわ」
「ラケシス様!」
珍しくフィンが声を荒げる。ラケシスも負けじと声を大にして返した。
「止めないで!もうほかに方法はないのよ!」
「しかし……!」
「一人だけ置いていかれるなんてごめんだわ。私は、私にしかできないことをする。そのためにシルベールへ行くのよ」
それが、兄を失わないための唯一の方法だから。
動かしようのない決意を込めたラケシスの言葉に、フィンも黙り込む。やがて、小さく吐息をついた彼は静かに言った。
「……わかりました。では私もお供いたします」
今度はラケシスが面食らう番だった。
「それはだめよ。あなたはアグストリアの人間じゃない。もしつかまればどんな目にあうか……」
「元より覚悟の上です。それに、これは私にしかできないことですから」
にこり、と微笑む。先の台詞を逆手に取られたラケシスはぐっと言葉に詰まった。
「……いやな言い方をするのね。人の揚げ足を取ったりして、まるでベオウルフみたいだわ」
「よく一緒に行動させていただきましたから。少し影響は受けたかもしれません」
「悪い傾向ね。キュアン様が知ったら嘆かれるわよ」
「キュアン様でしたら堅苦しさが取れてよい傾向だと誉めてくださいました。では、お供をお許しいただけますか?」
「わかったわ。でも、ひとつだけ約束して。もし戦いになったら自分の身の安全を優先してね。私も自分の身は自分で守るから」
それにはフィンも困った顔になった。
「ラケシス様のお強さはよく存じておりますが……騎士としては承服しかねる約束ですね」
主君を身を呈して守るのが騎士である。かまうなといわれても困ってしまう。
「約束して。でなければついてくることは許さないわ」
それでもかたくなに言い張るラケシスに、最後は折れるしかなかった。
「わかりました。絶対とは申し上げかねますが、善処するようにいたします」
「そう?では行きましょうか」
にこり、と笑うラケシスに小さく笑い返して、フィンは彼女の斜め後ろにつき従った。
二人はまだ気づいていない。村の解放と平行してマディノ城へ速攻を仕掛けたシグルド軍がこのときすでに城を制圧していたことを。そして、マディノ陥落の報を受けたエルトシャンが悲壮な決意とともにクロスナイツに全軍出撃の命令を下していたことを。運命は刻一刻と、もっとも残酷な形で彼女の前に姿を現そうとしていた。
シルベール城が近づくにつれて次第に大きくなる喧騒の音が、ラケシスの胸をざわめかせていた。いやな予感はフィンも感じているらしく、険しい表情で音を聞き取ろうと耳をすませている。やがて、顔を上げた彼は硬い声で言った。
「……ラケシス様、こちらで少しお待ちください。様子を見てまいりますので」
「……フィン、もしかして戦いはもう……」
言いかけた言葉をさえぎるように、
「すぐに戻ってまいりますので、こちらを動かれませんように」
言い置いたフィンはすぐに馬の腹を一蹴りして駆け出した。その後姿を見送りながら、ラケシスは全身の血の気が引いていくのを感じていた。
まにあわなかったのか?戦いはすでに始まっているというのか。兄はどこにいるのだろう。常に先陣を切る兄のことだから、もうすでに交戦しているだろうか。もしや、誰かの手にかかって……
「……兄様!」
矢もたてもたまらずに駆け出していた。フィンの忠告など頭にない。ただひたすらに馬を駆り、丘を越え、森へ突入する。ベオウルフに教えられたとおり邪魔な小枝を剣で切り払いながらほぼ一直線に森を突き抜けた彼女の目に飛び込んできたものは――――
「やめろ、エルトシャン!この戦いに何の意味がある!」
悲痛に響く、シグルドの叫び。
「黙れ、シグルド!もはや問答は無用だ!お前にこのミストルティンが受けられるか!」
叫び返し、魔剣ミストルティンを振りかざすエルトシャン!
「やめて――――っ!」
気がつけば、身体が動いていた。
二人の間に体当たりをするように割り込んで、その身を魔剣の前にさらしていた。
瞬時、驚いたように見開かれた蒼氷色の瞳。黒い閃光は、持ち主の妹を袈裟切りにする寸前でかろうじて止まった。
静けさが戦場を支配する。それを破ったのは、呆然としたようにエルトシャンが呟いた言葉だった。
「……ラケシス、なぜ泣いている……?」
それで、頬を伝うものに気づく。だがラケシスはそれをぬぐおうともせずに答えた。
「兄上がバカだからです!どうして……どうしてわかってくださらないのですか!?」
「無理を言うな。もはや戦うしかないのだ。ほかに手段はない。俺は、アグストリアの騎士として……」
「友を裏切ってまで戦うことが騎士の誇りなのですか!?」
「ラケシス……」
「兄上だっておわかりのはずです!シャガール様さえ剣を引いてくださればシグルド様には戦う意志はありません!シャガール様を説得できるのは兄上しかおられないのですよ!」
「…………」
「どうしても戦うというのなら、いっそその剣で私を切り捨てて下さい。そんな兄上は見たくありません」
剣を捨て、両手を広げてミストルティンの前に立ちふさがる。涙は流れつづけていたが、不思議と恐怖感はなかった。あるいは、兄がその剣を振り下ろすことはないという確信があったのか。
痛みをこらえるように目をそむけたエルトシャンの肩からすっと力が抜けた。金属音とともに、ミストルティンが鞘に収められる。
「兄上……?」
「……わかった。もう一度、陛下を説得してみよう。お前の言う通りだ。同じ命をかけるなら、不本意な戦にではなく友のために戦うのが騎士の生き方だろうから」
「兄上!」
ぱっと表情を輝かせるラケシスに向かって小さく微笑んで。彼は、ミストルティンを鞘ごと腰から引き抜いて、言った。
「ラケシス……頼みがある。これを、レンスターにいるアレスに届けてくれないか」
「アレスに?義姉上にではなく?」
「そうだ。アレスが無事にミストルティンを継承できるよう見守ってやってほしいのだ」
「兄上……?」
「それと、これはお前にやろう」
淡い緑色の光を放つ長剣を腰から引き抜く。
「これは、大地の剣!?……兄上、まさか!」
それはミストルティンと並ぶノディオン王家の家宝である。彼はこれを父や母の記憶とともに肌身離さず持ち歩いていた。それを手放すとは……
「俺に万が一のことがあれば、形見と思え。ラケシス、死ぬなよ!」
一瞬、だけだった。強く抱きしめられ、突き放される。そのまま馬首を翻して走り出した兄の後ろ姿に、ラケシスは底知れぬ恐怖を覚えた。
「ああっ、待って!エルト兄さま!」
後を追おうとするが、駆けつけてきたベオウルフに腕をつかまれ引き止められる。
「待て、行くな!」
「いやっ、放して!兄さまが……!」
「ラケシス、落ち着け!」
「放して!……エルト兄さまぁ!」
闇雲に暴れる。いやな予感が消えない。このまま兄を見送ってしまえば二度と逢えなくなってしまうような気がするのだ!
だが、少女の細腕ではベオウルフの手を振り切ることは不可能で。逆に、軽い当て身を食らわされて意識を失ってしまったのだった。