あなたに逢いたくて… 第三章
 翌日から、二人はことあるごとに剣の訓練をするようになった。それはノディオン城を出発してマッキリー城へと向かう行軍中も同様である。もっとも、彼はエルトシャンや三つ子パラディンたちとは違ってまるで手加減をしなかったのでラケシスは毎回傷だらけになってしまったのだが。
 エルトシャンから彼女を守るよう命じられていたクロスナイツのパラディンたちはと言うと、この状況が多少不満であったようだ。とくに長男のイーヴは、ベオウルフの態度(一切謙ることがなく、ラケシスに対してもまるで子供に対する接し方なのだ)が気に入らないらしくよく兄弟たちに不平をこぼしていた。
「まったく……姫様はいったい何を考えておられるのだ。我々がいるというのにあのような者を側におかれるとは!」
 文句を言う長男を三男がなだめる。
「そうかりかりするな、イーヴ。奴は腕は確かだ。我々よりこの辺りのことにも詳しい。姫様も素直にいろいろ教わっているようだし、よい傾向ではないか」
「だがなアルヴァ、それでは我らの立場はどうなる?それに奴は加減がなさ過ぎだ!昨日も姫様にあんなケガをさせおって……」
 次男と三男が顔を見合わせる。彼の言う『ケガ』とは昨日ラケシスが手の甲に貼っていた絆創膏のことだろうか?
「……イーヴ、剣の鍛練にケガはつきものだぞ」
「それはわかっている!しかしだな……」
「やめておけアルヴァ。イーヴのはただの心配症だ。娘に恋人ができたときの父親の心境のようなものだ」
「エヴァ!」
「いい加減にしておけ。我々が言ってどうにかなることでもないだろう」
「だが……!」
「イーヴ。姫様は今得がたい経験をなさっているのだ」
「……経験?」
「そうだ。考えても見ろ、我々の誰が奴のように遠慮なくものが言える?剣の鍛練とて同じことだ。奴は我々にはできないことをやっているのだ。ノディオンではまず体験できないことをな」
 一国の王女という身分の壁がラケシスを孤独にしてきたことにエヴァは既に気づいていた。ノディオンにいるかぎりその壁が消えることはなく、彼女を孤独から救った唯一の存在が兄エルトシャンだったのだ。
 彼女にしてみれば、ベオウルフほど自分に対して壁を意識することなく言いたい放題言う人間は初めてだったに違いない。そして、何の隔てもなく自分と他人を同列に扱ってくれる場所も、このシグルド軍が初めてだったのである。
 イーヴも口を閉ざした。確かにそうだ。この経験は彼女をより成長させるだろう。逆に口を挟んだのはアルヴァである。
「それはそうだが、逆に不安もあるぞ」
「何だ?」
「二人の間に恋愛感情が芽生えたらどうするのだ?」
 今度は長男と次男が顔を見合わせた。
「……まさか。奴と姫様とでは十才以上も年が離れているんだぞ」
「年の差は関係あるまい。自由騎士は女性に手が早いとも聞くしな。ありえないことではないぞ」
「いや、ないな」
「なぜそう言い切れる、エヴァ?」
「姫様にはご自分の兄君と相手を比較する傾向がおありだからさ。エルトシャン王と比較されてはどんな男でも恋愛対象にはなりえんよ」
「……確かに」
 エヴァの説明に思わずうなずいてしまった二人である。
ノディオン城からマッキリー城までは馬で全力で飛ばして丸二日といったところだが、今回は歩兵の速度にあわせての進撃なのでマッキリー城を臨む谷あいの道を抜けたのは三日後の夕刻だった。先行していた斥候部隊の報告から夜襲が適当であると判断したシグルドは全軍に作戦の指示を出した。
まず歩兵が先行し、深夜のうちにマッキリー城周辺に展開する。移動を迅速に行い、敵の守備隊に気づかれないようにするのが絶対条件だ。つぎに、夜明け前に騎馬部隊が一斉に突撃を開始する。マッキリー城の守備隊が混乱して誘い出されたすきにあらかじめ展開していた歩兵が一気に城門に突入するのである。厄介なのは崖の上に配置されているロングアーチ部隊の存在だが、シグルドには何らかの腹案があるらしく軍議では言及されることはなかった。
エーディン、エスリン、ラケシス等医療部隊を含む後方部隊はロングアーチの射程外に待機して戦況を見守っていた。一週間前にラケシスがマッキリーを目指した頃に比べてロングアーチの向きが変更されているため位置的には城まで半日といったところだ。ただし戦場を臨むことはできないため、戦況の報告は盗賊のデューが担っている。すばしこい彼は戦場にかなり近づいても傷一つ負うことなく帰ってくることができた。その彼の報告で、彼女等は日没を待たずにマッキリー城が陥落したことを知ったのである。
相談の上、馬に乗れるエスリンが先行してマッキリー城へ向かうことになった。そして今、エーディンとラケシスの二人を乗せた馬車はマッキリー城を目指している。
窓の外はすでに黄昏色の光に染まっている。ぼんやりと窓の外を見つめていたラケシスに、エーディンは優しく微笑みかけて言った。
「よかった、次はアグスティよ、ラケシス。もうすぐあなたのお兄様を助けることができるのよ」
ラケシスはあいまいな笑みを返した。勝利の知らせはもちろん嬉しいのだが、相手が同じアグストリアの諸侯であることを考えると複雑な思いがある。
意図したわけではない。だが、事実だけを見れば自分は祖国アグストリアを裏切ったことになるのだろう。兄を救い出すためとはいえ他国の軍隊を招き入れて隣国の城を攻め落とし、今その攻め落とした城に凱旋しようとしている。そんな自分を民はどう見るだろう。少なくともマッキリーの民から見れば自分は立派な裏切り者だ。石を投げつけられてもおかしくはない。
(……でも、後悔はしないわ)
戦乱を起こそうとたくらんだのはアグスティのシャガール王である。兄はそれを止めようとして逆に幽閉された。兄を救い出すことは戦乱を終わらせることである。この戦いは民を苦しめるものではない。そう信じる限り、物事をまっすぐに正面から見ることができる。
ベオウルフの言葉が脳裏をよぎる。目をそらさずにすべてを見届けろ、と彼は言った。それはたぶん、このことをさしているのだろう。
ラケシスの笑みの意味を正確に捉えきれなかったエーディンがにこり、と笑う。
「まだ心配?大丈夫よ、シグルド様とキュアン様がついているんですもの。すぐに助け出せるわ」
「ええ……それはわかっているんだけど」
それでも、不安が完全に消えるわけではない。マッキリーを無事抜けたとしても軍のたてなおしに二日、さらにアグスティまでの旅程が三日と考えると最低でも五日はかかることになる。その間に兄がどんな目にあわされているかと思うと身体の芯から震えが走る。
本当は、今すぐにでも助けに行きたい。その身を焦がしそうな衝動をかろうじて押さえていられるのはあの約束のおかげだろう。感情のままに行動しても結局は無駄足に終わるだけである。それでは彼に自分を一人前と認めさせることはできない。
ふと顔を上げると、エーディンが微笑を浮かべて見つめていた。
「……なあに、じっと見たりして」
「今のあなた、とてもいい目をしているわ。いい表情をするようになったわね。ベオウルフのおかげかしら?」
 思いがけないことを言われてラケシスは眉をしかめた。
「いやだ、どうしてあの人の名前が出てくるの?」
「違うの?あの人と話しているときのあなた、とても生き生きしてるわよ」
「そう?」
ぱっと頬を押さえるラケシスに、エーディンがくすくすと笑う。と、視線を上げた彼女はふっと目を細めて言った。
「ああ、見えてきたわ。マッキリー城よ」
話がそれたことになんとなくほっとしながら、ラケシスはふと思った。そういえば、彼等はあのロングアーチ部隊の攻撃をどうやってかわしたのだろう。
馬車の窓から次第に大きくなる城門を眺めていたラケシスは、ふと城門の前に立つ人影に気づいて声をかけた。
「……フィン殿?どうなさったのですか、こんなところで」
はっと顔を上げた騎士見習の少年の顔色は常になく青白かった。それを見たラケシスの胸をいやな予感が掠めた。
「あ、ラケシス様……エーディン様はご一緒にいらしていますか?」
「え、ええ……」
名前を呼ばれたエーディンが顔を出す。
「何かあったのですか?」
「エーディン様、お疲れのところを申し訳ございません。すぐにいらしていただきたいのですが」
「誰か怪我でも?エスリンが先に城についているのではないの?」
「それが、傷が思いのほかひどく、エスリン様のライブでは……」
「まあ……わかりました、案内をお願いしますね。それで、どなたが怪我をなさったの?」
「それが……」
言いよどんだフィンは、一瞬だけラケシスを見てから答えたのだった。
「……ベオウルフ殿なのです」


ベオウルフ重傷。その知らせは奇妙に現実感のないもので、馬車を降りてフィンの後に続いて長い廊下を歩いていく間もそれは変わらなかった。実際に目にするまでは信じられなかったのだ。
ラケシスは王女である。戦場に出るのも初めてなら、戦場がどんなものかもよくわかっていない。だから、今朝まで元気に話をしていた相手がその日の夜にはいなくなっているという状況を想像できなかった。戦争とはそういうものだと言葉では知っていても実際には理解できていなかったのである。
ベオウルフの部屋で血だらけの包帯を巻かれた彼の姿を目にしたときは声も出なかった。エスリンが一心にライブを唱える横で、シグルドが申し訳なさそうに声をかけている。
「すまない、やはりあのような危険な作戦を取るべきではなかった……」
「気にしなさんなって。無事に城を制圧できたんだ、万事めでたしじゃねえか。……っつう……」
笑顔で答えたベオウルフがかすかに顔をしかめる。どうやら左脇腹にかなり深い傷を負っているらしい。はっと我に返ったエーディンが杖を持って駆け寄った。
「お静かに、無理は禁物ですよ。エスリン、交代するわ」
額にうっすらと汗を浮かべたエスリンは小さく頷いて席を交代した。そこでようやく真っ青になって立ち尽くしているラケシスに気づいて、微笑みかけた。
「ラケシス……あなたも来てくれたのね」
「エスリン、これはいったい……」
「しっ……いったん外に出ましょう。エーディンの集中の邪魔になるわ」
促されるままに部屋を出る。ふと目を向けると、エーディンが唱えるリライブの効果で彼の傷は少しずつふさがり始めていた。
ドアを閉めたエスリンに、ラケシスは矢継ぎ早に尋ねた。
「どういうことなの?大きな怪我人は出なかったのではないの?どうしてベオウルフだけがこんな……」
「ラケシス、落ち着いて。順を追って説明するから……彼は、囮役を買って出てくれたのよ」
「囮?」
「ええ、そう。マッキリー城に近づくには崖の上のロングアーチ部隊がどうしても邪魔だったの。かといって、彼等を始末するために割ける兵力はないし……彼が囮になってロングアーチ部隊をひきつけてくれなかったら、こんなに早くこの城を制圧することはできなかったのよ」
「……!」
真っ青になって声を失ったラケシスに、エスリンはすまなそうに続ける。
「……お兄様を責めないであげてね。時間がなかったのよ。マッキリーを速攻で突破できればアグスティとの和平の可能性が浮上するわ。そうすれば、あなたのお兄様の身の危険も少なくなる。これは、彼が自分から言い出したことなの」
「……どうして……」
「それは、あなたが自分で聞いてみるといいわ。正面からぶつかれば、彼もきちんと答えてくれるはずよ」
小さく頷く。普段はなんでもはぐらかしてしまう男だが、真剣に正面から尋ねれば受け止めてくれる。そのことを、彼女は誰よりもよく知っていた。
エーディンが部屋から出てきたのは少し後のことで、その頃にはラケシスもいくらか落ち着きを取り戻していた。
「エーディン、どうだった?」
早速尋ねたエスリンに、彼女は少し疲れた様子で微笑んだ。
「もう大丈夫よ。大きな傷はだいたいふさがったわ。あとは二、三日安静にしていればすぐに元通りに動けるようになるはずよ」
視線をラケシスに移して、
「そういうわけだからラケシス、あとはお願いね」
「えっ……」
「私達は他の怪我人の手当てをしなくてはならないの。ここはあなたにお願いするわ」
にこり、と微笑む姿はまるで何もかもわかっているかのようで。ラケシスも反発することなく素直に頭を下げた。
「はい、わかりました」


ノックをするのもはばかられて、ラケシスは迷った挙句そっと扉を開いて中をのぞきこんだ。ちょうど部屋を出ようとしていたシグルドと鉢合わせになり、思わずぴんと背筋を伸ばしてしまう。
「じゃあ、私はこれで失礼するよ。……ラケシス、彼のことは頼むよ」
「あ、はい……」
ぺこり、と頭を下げてそっと様子をうかがう。ベオウルフは上半身裸にシャツを肩にかけただけの姿でベッドに座っていた。巻きなおされた白い包帯が痛々しい。鍛え上げられたたくましい肉体には古傷から新しいものまでおびただしい数の傷跡がある。立ちすくむ彼女に気づいて、彼はいつものように片手をあげて言った。
「よお、お姫様。ちいとみっともねえとこ見せちまったな」
声も平静だ。少し顔色が悪い以外はまったくいつもの彼である。そのことになんとなくほっとして、ラケシスは小走りに彼の元に駆け寄った。
「その分じゃ怪我はねえようだな」
「ずっと後方でしたもの。あるはずありませんわ」
反射的にきり返してから、反省する。こんなことが言いたいわけじゃないのに。
「それもそうか。あんたのこったからまた先走って前に出てんのかと思ったぜ」
「……一応約束ですもの。集中しますから、少し静かにして下さる?」
ライブの杖を掲げて、目を閉じる。短い聖句を唱えると、全身に聖なる光が満ち始めた。それは杖の先の宝玉に集中し、ベオウルフへと注がれていく。
自分は、まだまだ未熟なのだ。痛感せざるを得ない。エーディンならたちどころに癒してしまうだろう程度の傷でも、自分には完全に治すことができない。なんと役立たずであることか。そのことが悔しくて唇をかみ締めたとき、頭上から低い声がかかった。
「あまり無茶はしない方がいいぞ。あんたとあの二人じゃ元々の魔力が違うんだからな」
その言われように少しだけむっとして、彼を軽く睨んだ。
「無茶などしておりません。その言葉、そっくりあなたにお返しさせていただきますわ」
「ハッ、それもそうだ。こりゃ一本取られたな」
「ごまかさないで下さい。あなたにはいろいろと伺いたいことがあるんです」
「そりゃまたキツいな。で、何が聞きたいんだ?」
「どうしてこんな無茶をなさったの?」
少しだけ声音の変わった問いに、ベオウルフが眉を上げる。やがて彼は、真顔で答えた。
「……時間がなかったからさ。アグスティのシャガール王がいくらバカでも和平の切り札であるエルトシャンを殺すようなことはしないだろう。でも、殺さないだけで何をするかはわからん。奴の身の安全を考えれば一刻も早くマッキリーを攻略してシャガールにプレッシャーをかける必要があった。のんびりロングアーチを壊してる暇なんかなかったのさ」
「それにしても、自分から言い出すなんて……あんな戦い方をしていては命がいくつあっても足りませんわ。どうして囮役なんか引き受けたんですの?」
 ラケシスの疑問に対する彼の答えは端的である。
「決まってる。他になり手がいなかったからさ」
「だからって、どうしてあなたが……」
「ああいうのは傭兵の仕事なんだよ。死んでも後腐れのない奴がやることなのさ」
 それは彼女にとってはじめて聞く理屈である。
「後腐れって……」
「ここは死んじゃいけねえ奴が多いからな。消去法でいきゃあ残るのはいつだって俺たち傭兵だ。どうせ金だけのつながりだからな。見捨てたところで心が痛むわけもねえ」
「そんな……シグルド様はそんな方ではありませんわ」
「そうだな。なんせ部下を傷つけたくないからって自分が真っ先に敵陣に突っ込んでいくような御仁だからな。ああいう優しい人間には自分から誰かを切り捨てるようなこたあ言えねえだろうし、だからなおのこと俺みてえのが言ってやんねえとならんのさ」
 声音はいつもどおりだった。憎らしいくらいに飄々としている。だが、その中には胸を締め付けるような痛々しさがあった。それは多分、本人すら気づかない孤独の影だ。胸の中に痛みを覚えて、ラケシスはぎゅっと拳を握り締めていた。
「死んではいけない人とはどういう基準なんですの?」
「まず第一に、女がいる奴だな。次に帰るところや守るものがある奴、最後に実力のない奴、ってとこだ」
「まあ、それでは話が合いませんわ」
「は?」
「ですから、その条件ではあなたは死んではいけない方ということになりますわよね?」
 ラケシスの言葉に、彼は目を瞬かせた。
「……何でそう思うんだ?」
「だって、あなたはエルト兄さまに私を守ると約束なさったのでしょう?それは、守る者がいるということではありませんの?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような……とは、こういう表情のことを言うのだろうか。ふとそんなことを考えてしまうほど、彼はきょとんとしてラケシスを見つめている。
「……私、何か変なこと言いました?」
「いや……確かに、そういう考え方もあるな。目からうろこが落ちたような気がするぜ」
「まあ、では今まで考えたことがなかったんですの?それでは約束を忘れたのと同じことじゃないですか!」
「悪かったよ、本当に思いつかなかっただけなんだ。あんたもただの世間知らずのお姫様じゃなかったんだな」
 彼は本当に感心したようだったが、彼女はその言われように顔をしかめた。
「……相変わらず失礼な方ね。とてもいやみだと思いますわ、その言い方」
「じゃあ、あんたもその姫言葉を直せよ。馬鹿丁寧で返って人を見下してるみたいに聞こえるぜ」
「……そう聞こえます?そんなつもりはありませんでしたのに……」
「ほら、それだ。そんなにかしこまるなよ。軍隊に敬語は不用だぜ」
「わか……ったわ。気をつけるようにしま……するわね。これでいいの?」
「よし、それでいいんだよ」
 男くさい風貌がにかっと笑う。そうすると、さっきまでの影がなりをひそめてひどく子供っぽく見えた。つられて微笑み返したラケシスは、ある決意の元に口を開いた。
「あなたは本当に失礼な方ですけど、間違ったことは言わないようですわね。私、決心しました」
「決心?」
「すぐに、とは申しません。でも、いつか必ずあなたに名前で呼ばせて見せますから。覚悟なさってね」
奇妙な宣戦布告に、ベオウルフが軽く目を見開いた。その様子を見て満足したようににこりと笑ったラケシスは再び杖を掲げた。
「さあ、お静かに。もう一度集中しますから」
to next page →