「ラケシス様、どうかお考え直しください。イードの砂漠は暗黒魔導士の巣窟です。お一人で行かれるなど……」
「平気よ、フィン。もう決めたの」
心配げに言った青い髪の騎士に短く答えながらも、彼女は旅支度の手を休めない。細い金の髪がふわり、とゆれる。
「イザークにはデルムッドが待ってるのよ。もう三年も逢っていないの。早く迎えにいってあげなくてはかわいそうだわ」
「ではナンナはどうするのですか?あの子はまだ三才なんですよ。母親の必要な年頃なんです。こんなときに留守にするなんて……」
末娘のことを持ち出され、彼女は初めて手を止めた。
「それは……わかっています。けれど危険とわかっているところへあの子を連れては行けません」
「ですからお待ちくださいと申し上げているのです。三日もたてばアルスター方面へ偵察に出した部隊が戻ります。そうすれば護衛をおつけすることも……」
「それはいけません。レンスターの守備をおろそかにするなどそれこそ本末転倒だわ」
「しかし……」
「心配しないで。これでも私は獅子王エルトシャンの妹、黒騎士ヘズルの血をひくノディオン王家の娘よ。そうむざむざとやられはしないわ。それに……」
にこり、と微笑む。
「……あの人が命をかけて守ってくれた命ですもの。簡単に捨てるわけには、いかないでしょう?」
その透明な笑みにフィンは言葉を失った。
二人は三年前、英雄と呼ばれながら非業の死を遂げたシアルフィのシグルド公子の元でともに戦った仲である。ラケシスはアグストリア諸国連合内ノディオン王国の王女、フィンはレンスター王国の騎士だった。フィンは主君であるレンスター王子キュアンとその妻エスリンに従っていったん母国レンスターへと戻っていたためにその後の悲劇を見ることはなかったのだが、ラケシスは悲劇のすべてを目撃したのだ。
キュアン率いるレンスター軍がイード砂漠を北上中にトラバント王率いるトラキア軍に襲われ全滅したこと。シグルド軍がグランベルの近衛隊長であったアルヴィス卿の奸計により王都バーハラの戦いで壊滅したこと。ともに戦った多くの友がこの戦いで命を落とし、あるいは行方不明となった。そしてその中には彼女、ラケシスの夫であった自由騎士ベオウルフも含まれていたのだ。
ラケシスはやわらかな笑みを浮かべて腰に佩いた剣をなでた。
「……私は生きると約束したの。この大地の剣にかけて、二度と死のうとは思わないわ」
それは志半ばで散っていった戦友への誓いであり、自分を慈しんでくれた兄や不器用に自分を包んでくれた夫との最後の約束でもある。
「でも……もしも戻れなかったら、あなたが代わりに父親のことを話してあげてね、フィン」
「ラケシス様!」
とがめるように声をかけたフィンに、小さく微笑み返す。
「大丈夫、弱気になっているわけではないのよ。ただ……自信がないの。あの人のことを……ちゃんと話してあげられるかどうか……」
目を閉じればすぐに浮かんでくる。大きな背中。温かい胸。三年という月日は夫と共に過ごしたあの鮮烈な日々を思い出に変えるには十分ではなかったのだ。かすかな胸の痛みとともに、ラケシスは記憶をたどった。
* * *
ラケシスの故郷ノディオンはグランベル王国の西に位置するアグストリア諸公連合の中の一国だった。十二聖戦士の一人である黒騎士ヘズルの血を受け継ぎ、彼女の異母兄であるエルトシャンは魔剣ミストルティンを使える唯一の人間として『獅子王』の異名をとっていた。シアルフィ家のシグルド公子、レンスター王国のキュアン王子とは士官学校時代からの親友で、いついかなるときも互いの身の危機にはかけつける約束を交わしていたという。
だからこそ、その兄エルトシャンがアグスティに囚われ、隣国ハイラインの軍隊に城を包囲されたあのとき、彼女は何の迷いもなく国境を接するヴェルダン王国のエバンス城主となっていたシグルドに救援の要請を出したのだ。
あのころはまだ十六才。兄から教わっていた剣もまだ半人前、やっとライブの杖が使える程度ではさぞかし足手まといだったことだろう。自分では一人前のつもりで(あのときは兄を助けたい一心だったせいもあるが)、無茶なことをしてはクロスナイツの三つ子のパラディンたち(彼らは城に残される彼女の身を案じたエルトシャンがおいていった部下たちである)に諫められていた。指揮官のシグルドが温厚だったせいか誰も彼女に意見しようとする者はいなかったのだが、ただ一人、彼だけは違っていたのだ。
「イーヴ、エヴァ、アルヴァ、早くなさい!」
振り返って叫んだラケシスに、三人のパラディンが困り果てた様子で言った。
「姫様、何度も申し上げました通りこの人数でアグスティへ向かうのは無謀すぎます。もうすぐシグルド様方がアンフォニーを制圧して戻ってこられる頃ですからお待ちになったほうが……」
「そうですよ。アグスティの前にはマッキリー城があるのですよ?城主のクレメントはスリープの杖を所持しておりますし、崖の上にロングアーチ部隊を配しているとの情報もあります。うかつに近づいては……」
彼らの苦言も今の彼女の耳には届かない。
「こんなところでぐずぐずしている場合ではありませんわ!こうしている間にもエルト兄様……いえ、兄上がどのような目にあわされていることか……ああ、おいたわしい!兄上、ただいまラケシスが助けにまいりますわ!」
彼らは困ったように顔を見合わせる。その鈍い反応に、ラケシスはいらいらしながら歩き始めた。彼女とクロスナイツ達の距離は大人の足で十歩程度といったところだ。彼女が歩き出すと彼等も慌てて後を追うのだが、距離は縮まる気配がない。そのことがさらに彼女をいらだたせているのである。
「姫様、もう一度よくお考えください。姫様の御身に何かあれば王がどれほど悲しまれるか……」
「私はどうなろうとかまいません!今は兄上をお助けするのが先です!」
ぴしゃりと叫んで再び歩き出したときだった。聞き覚えのない男の声に呼びとめられたのは。
「待ちなよ」
きっと勢いよく振り返ったラケシスがそこに見たのは、馬上の男である。見覚えはもちろんまったくない。年のころは二十代後半だろうか。赤銅色に日焼けした大柄な体躯は筋肉質でよく引き締まり、いかにも歴戦の勇士といった風情だ。小麦畑を思わせる髪の下で、真夏の空の色の瞳が見下ろしてきた。
「あんたがノディオンのラケシス王女か?」
「ええ、そうですわ。あなたは?」
「俺はベオウルフ、傭兵だ。あんたがラケシス王女なら、一言言っとこうと思ってな」
「何ですの?」
「……半人前に戦場をうろつかれちゃ迷惑なんだよ。姫なら姫らしくお供と一緒にお城に戻っておとなしくしてな」
「……!」
かつて例のない暴言に、その場の空気がピキン、と凍りついた。
「……ぶ、無礼者っ!この方をどなたと心得て……!」
真っ先に我に返って憤慨したのは長男イーヴである。
「待てイーヴ、少し様子を見よう」
とイーヴを押しとどめたのが次男エヴァ。
「放せエヴァ!奴め、叩き切ってくれる!」
「だから様子を見ようと言っている。これで姫様を止められるかもしれんのだ。切るのはその後でもいい」
「しかし……!」
「……お供ってのはもしかして俺たちのことか?」
言い争う兄たちの横でずれたことを言っているのが三男のアルヴァである。そして、当のラケシスはと言うと、ヘイゼルの瞳に怒りの色を浮かべてきっと彼をにらんだ。
「……ずいぶんな言いぐさですのね!あなたのような初対面の方にそんなことを言われる覚えはありませんわ!」
「そっちになくてもこっちにはあるんだよ」
「何ですって?」
「シグルド殿にあんたを守ってくれって頼まれたのさ。そういうわけだからおとなしく帰ってくれんか」
「余計なお世話ですわっ!あなたなんかに守っていただかなくたって自分の身は自分で守ります!」
胸を張って言うラケシスに、ベオウルフの表情が険しくなる。
「戦争は遊びじゃないんだ。その程度の腕では虫一匹殺せやしない。さっさと帰れ」
「いやです!兄上を助けるまで帰りません!」
一歩も引かずにラケシスが言い返したときだった。
ふいにヒュウッ、と何かが風を切る音が聞こえたかと思うと、頭上から飛来した巨大な矢がラケシスの背後の地面につき刺さったのだ。
「────姫様っ!」
パラディンたちが叫ぶ声がひどく遠くに聞こえた。足がすくんでしまっているのが自分でも分かった。こんな攻撃は予期していなかったのだ。姿の見えない敵なんて、想像の範疇にない。
「ちっ、ロングアーチ部隊が気づきやがったか。おい、ぼうっとするな!」
ベオウルフの声に我に返るが、強張った身体はうまく動かなかった。それを見て、彼は小さく舌打ちした。そして、次の瞬間。
「きゃあっ!?」
ひょい、とまるで荷物か何かのように肩に担ぎ上げられたラケシスは思わず悲鳴を上げていた。仮にも相手は一国の王女である。あまりの非礼に言葉が出てこない。それは三兄弟も同じだったようで、誰もが唖然とする中無礼を働いた当の本人は大声で彼等を怒鳴りつけたのだった。
「何やってる、とっとと逃げねえか!」
「!?」
怒鳴りつけられてようやく我に返ったクロスナイツ達は馬首を翻したようだ。ようだ、というのは実際に見たわけではないためである。視界に入っているのは自分を担ぎ上げている男の広い背中だけだ。遠ざかる馬蹄の音にようやく我に返ったラケシスは身をよじって叫んだ。
「……無礼者っ!早く下ろしなさい!」
「わぁったからそうキンキン叫ぶんじゃねえよ」
担ぎ上げられたときよりはいくらか丁寧に下ろされた先は、馬の鞍の後ろである。ようやくまともな場所に腰を落ち着かせたラケシスはきっと顔を上げて彼を睨んだ。
「誰が退却すると言いましたか!?命令です、このままアグスティ城へ向かいなさい!」
本人は毅然と言い放ったつもりだったが、彼はそうは取らなかったようで、小さく吹き出して言った。
「姫さん、そいつぁきけねえな」
「私にはラケシスという名があります!理由を述べなさい!」
笑いつづける彼の不真面目な態度が気に入らなくて、さらに声がきつくなる。ぴたり、と笑いを収めた彼は今度は真顔で言った。
「じゃあ教えてやるよ。ひとつ、俺の雇い主はシグルド公子でラケシス姫、あんたじゃない。従ってさっきのパラディンどもと違ってあんたの命令に従う義理はない。ひとつ、シグルド公子の命令はあんたをこっから連れ戻すことだ。それにもうひとつ、あんたには自分のやったことの顛末を見届ける義務がある」
「義務……ですって?」
「たとえどんな理由があったにせよあんたは自国に他国の軍隊を引き入れたんだ。本来ならその行動のすべてに責任を持たなきゃならんはずだ。違うか?」
「……それは……」
思いがけない正論に言葉に詰まってしまったラケシスに、彼はにやりと笑って付け足した。
「……ってわけだ。命令権を振りかざす前に義務を果たすんだな」
ベオウルフが馬の腹をけると、馬は二人分の重さが苦しいのか一声嘶いてから走り出した。鞍につかまりながら、ラケシスは身をよじるようにして遠ざかるアグスティ城を見つめた。
(エルト兄さま……!)
兄の囚われている城を目前にして引き返さなければならない無念。ロングアーチの攻撃程度ですくんで動けなくなってしまった自分への怒りと無力感。それらがない混ぜになり、涙となって頬を伝い落ちる。それはとても苦くて、彼女はこらえるようにぎゅっと目を閉じた。
ノディオンまでの丸一日、二人は終始無言だった。ラケシスの方は自分が泣いていることを悟られたくなかったせいもある。
馬のスピードが上がるとどうしてもバランスが取れない。そのため、はじめは嫌々ながら手綱を取るベオウルフの腰につかまっていたラケシスだったが、彼の広い背中に頬を押し付けていると不思議と少しずつ自分が落ち着いてくるのがわかった。そして、彼が言ったことを心の中で繰り返すうちに、兄エルトシャンが言った言葉を思い出したのだ。
「ラケシス。王族というのは従ってくれる民あってのもので、絶対の権力者ではない。彼等の忠誠を維持するためには果たさねばならない義務も数多くあるのだ」
まだ幼かった彼女にはその意味も、それを告げた兄の真意もよくわからなかった。だが、ベオウルフの言葉とそれが根を同じくするものであることはわかる。確かに腹はたったけれど、この男は間違ったことは言っていない。
(……でも、私は足手まといなんかじゃないわ)
百歩譲って後半は許そう。でも、前半の暴言は許せない。彼は兄を救うべく出撃した自分の決死の覚悟を鼻で笑い飛ばしたのだ。それは確かにロングアーチの一撃で揺らいでしまうほど小さなものだったかもしれないが、それでも自分は真剣だったのに。
ぎゅっと拳を握り締めたとき、不意にベオウルフが口を開いた。
「……見えてきたぜ。ノディオン城だ」
広い背からそっと顔をのぞかせると、見なれた白い瀟洒な城壁が目に入る。……無事戻ってこれたことに関してだけは彼に感謝してもいいかもしれない。
城門の前では先に戻っていたイーヴ、エヴァ、アルヴァの三人が気遣わしげに二人を待っていたが、姿を見とめるなり駆け寄ってきた。
「姫様、ご無事ですか!?よもやお怪我などは……」
「……平気ですわ。どこも怪我などしておりません」
冷静に答えたラケシスに、三人はほっとしたような表情を浮かべた。兄を救い出せなかったことでどれほど落ち込んで(怒って?)いるかと案じていたのだろう。それを見ると、ラケシスもさすがに反省して言葉を続けた。
「……心配をかけましたね。ごめんなさい……」
「いえ、そのような……もったいないお言葉、我等三兄弟、恐縮の限りでございます」
「シグルド様から何か連絡はありましたか?」
「はい。無事アンフォニー城を制圧なされた由にございます。明日昼頃までにはこちらにつくとの早馬がまいりました」
「そう。ではゆっくり休んでいただかなくてはね。お迎えの準備をしましょう」
イーヴが差し伸べた手につかまって馬を下りたラケシスは、ふとまだ馬上にあるベオウルフを見上げた。
「……あなたはどうなさるんですの?」
「俺はこのままシグルド殿に合流する。あんたが無事だったことを知らせなきゃならんからな」
「そうですの。助けていただいて感謝いたしますわ。……でも」
きっ、と眉を吊り上げた次の瞬間、右手が一閃した。精一杯背伸びをしての平手打ちがものの見事に彼の頬にヒットする。
「ひ、姫様!?」
「今後二度とあのような無礼なふるまいは許しませんからね!」
唖然とする彼にそう告げて、ぷいっと背を向けた。三兄弟が慌てて後を追ってくる気配を背後に感じる。妙にすっきりした気分が湧き上がってくるのに少しだけ戸惑いながら、ラケシスはきっと前を睨みつけた。
(私は、足手まといじゃない。そのことを次の戦いで証明してみせるわ!)