シルベール城の攻防は熾烈を極めた。アグストリア軍は大陸最強と謳われたクロスナイツまでもが壊滅したことにひどく衝撃を受けたようだったが、そのことでもはやここが最後の砦であることを悟ったのか、死に物狂いの攻勢に転じてきたのだ。死を賭しての戦い振りにさしもの精鋭部隊もてこずったが、その中で鬼神のごとき強さを見せたのがほかならぬシグルドとキュアンの二人だった。
普段なら、キュアンは前に出すぎるきらいのあるシグルドを押しとどめる側である。だがこの日ばかりは止めようとせず、逆に愛用の銀の槍を手に彼と並んで率先して敵を突き崩していった。その根底にあるのが親友の安否を確かめたい一心だったのは言うまでもない。そしてベオウルフは、彼らが少しでも早く先に進めるようにと愛用の鋼の剣の代わりに固い鎧をも切り裂くことのできる重い斬鉄の剣を手にしてゆく手をふさぐアーマー部隊をなぎ払っていた。
「ちっ、キリがねえ!」
低く怒声を吐いたベオウルフに、背を合わせていたキュアンが尋ねる。
「ベオウルフ、玉座の場所はわかるか!?」
「ああ!入ったのは一度きりだが忘れちゃいねえよ!」
「ではここは私に任せてシグルドとともに向かってくれ!今度こそ奴を追い詰めるんだ!」
「わかった!シグルド公子、こっちだ!」
後に続く馬蹄を信じて、ベオウルフは馬首を翻した。
長い廊下を、馬蹄を轟かせて二人は突き進んだ。途中幾度も行く手をさえぎられながら、そのたびに相手を切り伏せてただひたすらに玉座の間を目指す。もはやあの男、シャガール王を野放しにしておくわけには行かないのだ。ここで機を逸するわけには行かない。エルトシャンの安否はあの男が握っているのだから!
「あれだ!あの扉の向こうにシャガール王がいる!」
「よし、一気に突破するぞ!」
うなずきあった二人が一気に飛び出そうとしたときだった。
ひゅん、と風を切る音がした。足元に突き立った矢に驚いた馬がいなないて前足を跳ね上げる。とっさに手綱を握ってかろうじて落馬を免れたベオウルフは第二矢の風切り音を耳にした。
(――――間に合わない!)
観念しかけたそのとき。
飛来する矢の前に身を投げ出した者がいた。身体ごと盾にして二人をかばったその人物の身体がびくん、と硬直する。冑の下から覗く赤毛にその人物が誰であるか悟って、ベオウルフははっとした。
「イーヴ……!?」
クロスナイツの精鋭にしてエルトシャンの勇猛かつ忠実な部下。ぐらり、と傾いだ身体をとっさに伸ばした手で受け止める。
一瞬遅れて飛び出したシグルドが、矢を放ったスナイパーを一刀の元に切り伏せる。血しぶきの上がる凄惨な光景は、だが今のベオウルフの目には入らない。
「おい、しっかりしろ!何でてめーが俺たちをかばうんだよ!?」
鎧の胸に描かれた十字が見る見るうちに鮮血に染まっていく。一目でわかる致命傷。苦しげに息を吐いて、イーヴはそれでも彼の問いに答えた。
「……我が祖国はアグストリアなり……されど、我が主君はエルトシャン王ただお一人……!」
「なっ……」
「我らは……主君の信じるもののために、命をかける……だた、それだけの……こと……」
「イーヴっ!」
叫んだベオウルフの元に、敵を倒し終えたシグルドが駆け寄ってくる。
「しっかりするんだ、イーヴ!」
「シグルド……様、どうか……どうか、王の仇を……!」
それだけを言い終えて、震える手がぱたりと落ちた。同時に、支えた身体からすべての力が失われたことをしったベオウルフは拳を握り締めた。
まだだ。まだ泣くわけには行かない。この扉の奥にいる、強欲にして小心な王を断罪するまでは。血がにじむほどに唇を噛みしめ、衷心まれなる騎士の遺体を横たえる。先に立ち上がったのは、シグルドだった。
「……行こう。この向こうに……シャガール王がいるはずだ」
「……ああ。こいつの……こいつらの死を、無駄にはできねえからな」
重苦しい音を立てて、巨大な扉は左右に開かれた。
シャガール王は――――玉座についたまま、がたがたと震えていた。嵐に打たれた小動物のようだと、まるで他人事のようにベオウルフは思った。
「わ……わしが、悪かった」
シグルドがずい、と進み出る。
「こ、このとおり、あやまる。今後二度と逆らわん!だから、命だけは……!」
答えないシグルドの背に、ベオウルフが声をかけた。
「……シグルド公子、こいつを使いな。アーマー類にゃ無敵だぜ」
放った斬鉄の剣をシグルドが受け止める。
「……あんたの仕事だ。とどめ、さしちまいなよ」
「ひ、ひいっ!!」
無様な悲鳴をあげた王の頭上に、光が一閃した。
* * *
悪い夢を見ているようだった。
最初に『それ』を発見したのはキュアンだった。豪胆な彼ですら一瞬息を呑み、立ち尽くすしかなかった凄惨な光景。彼は唇を噛み、自らの手で城壁にさらされていた友の生首を回収した。
遺体とともに聖水で清め、大広間にしつらえた棺に納める。手伝うことを許されたのは同じく親友だったシグルドのみで、他の者たちはただその痛ましい姿を見守ることしかできずに立ち尽くしていた。
やがて、広間には彼ら二人とベオウルフを残すのみとなった。
「……私は……何のために戦ってきたのだろうな……」
ぽつり、とシグルドが呟く。
「何も失わないために戦ってきたはずなのに……気がつけば、すべてがこの手から零れ落ちていってしまう……」
「シグルド……」
「神は私に何を望んでいるのだろう。エルトシャンも……ディアドラさえもこの手から奪い去っておいて、この上何をさせようというんだ?私は……こんなにも無力だというのに……!」
白くなるほど握り締められた拳から血が滴り落ちる。血を吐くような彼の問いに、答えを持たない二人はただうつむくしかない。
痛みすら伴う静寂を破ったのは、広間の入り口に恐る恐る姿を現したオイフェだった。
「あの……シグルド様」
遠慮がちに声をかける少年を振り返った表情は、すでに平静を取り戻していて。
「……ああ、オイフェか。何の用だ?」
声だけがわずかに固さを残していたことに、オイフェは気がつかない振りをした。
「申し訳ありません。城下におりましたクロスナイツたちの家族が、シグルド様に面会を申し出てきているのですが……」
「クロスナイツの?」
ベオウルフが思い出したのは壮烈な戦死を遂げたノディオンの三兄弟(エヴァ、アルヴァの二人も先の戦いで戦死を遂げたのだ)のことだった。確かラケシスはイーヴには妻子がいると言っていなかったか。
「はい」
「そうか……わかった、今行く」
答えたシグルドは、二人を振り返って微笑した。
「すまないな、弱音を吐いてしまって。でも、もう大丈夫だから」
何かを言いかけたキュアンだったが、結局そのことに関しては口を閉ざすことに決めたようだ。
「……私も行こう。ベオウルフ、君はどうするんだ?」
「俺は、もう少しここにいるよ」
「そうか……ではここを頼む」
二人がオイフェを伴って立ち去ったあと、ベオウルフは小さなため息をついて棺に歩み寄っていった。
棺の中に横たわるエルトシャンはまるで眠っているようだ。ふっと目を覚ますのではないかと思えるほど、その顔は安らかだった。
なぜ、この男が死なねばならなかったのだろう。比類ない忠義厚き騎士が、戦場ではなくこんなひなびた城の片隅で、他でもない忠誠を尽くした主君に首をはねられるなんて。やりきれない思いが込み上げる。同時に、苦い後悔も。
あの時―――たった一人の妹の命を賭けた願いに、彼は応えた。騎士としての誇り高き死と引き換えに、ただ妹の願いをかなえることだけを己に課したのだ。自分は、本当にあの男の期待に応えることができるのだろうか。最愛の人を失った彼女を―――支えてやることができるのだろうか。
「……やっぱり、俺はおまえみたいにはなれそうもねえよ……」
低く呟いて、ベオウルフはうつむいた。これからなのだ。彼女に、ラケシスに伝えねばならない。エルトシャンの死を。果たして自分にできるだろうか。できなくても、やるしかない。自分にできることを。
ドアの前で待っていたベオウルフの元に目を覚ましたラケシスが駆けつけてきたのは一時間ほど後のことだった。息を切らせた彼女は顔面蒼白で、すでに事実を知っているようだ。視線が一瞬絡みあい、どちらからともなくそらされる。
「……そこをどいて」
やがてラケシスが吐くように言葉を絞り出した。思っていたよりも冷静で、感情に欠ける声だ。
「見ない方がいい」
「それは私が決めることよ。どいて!」
阻むものは許さない。そんな強い意志に、ベオウルフはあっさりと折れた。
「……忠告はしたぞ」
横をすり抜けて、ラケシスが扉を押し開ける。
「……兄さま……?」
ラケシスはよろめくように棺に歩み寄っていった。
「兄さま、ラケシスですわ。起きて下さい。戦いはもう終わりました。シグルド様もキュアン様も、兄さまを待ってらっしゃいますわ」
震える声。痛ましさにベオウルフは目を閉じ、唇を噛んだ。
「……どうして黙ってるんですの?ねえ……兄さま、返事をして下さい」
肩をゆする手が硬直した。
「───っ!」
声にならない悲鳴。ようやく事実を悟ったラケシスが後ずさる。短く息を吐いて、ベオウルフは歩み寄っていった。
「……だから見ないほうがいいと言ったんだ」
ゆっくりと振り返る。ヘイゼルの瞳が自分の姿をようやく映し出す。
「……私の……せいなの……?」
「ラケシス?」
「あのとき……私がシャガール様を説得するように言ったりしたから……だからなの?だから、兄様は……!」
冷水を浴びたようにがたがたと震え始めたラケシスに、ベオウルフは強く否定した。
「ラケシス、それは違う!」
「違わない!私が……私が余計なことを言ったせいで、兄様は……!」
「ラケシス!」
乱暴に腕をつかみ、引き起こそうとした。声にならない悲鳴をあげてその場に崩れ落ちる。かろうじて腕を伸ばし、細い身体を抱きとめた。
「……くそっ!」
言葉が足りない。届かない。何をもってしても、今の彼女を救うことはできない。無力感に打ちのめされて、ベオウルフはただすがるように意識を失った少女の身体を抱きしめた。
「ベオウルフ」
気を失ったラケシスを部屋に送り届け、ちょうどドアを閉めたときだった。
名を呼ばれて振り返ったベオウルフは、そこに沈痛な面持ちのキュアンを発見した。
「……よお、キュアン王子。その様子じゃ悪い知らせみたいだな」
一瞬言葉に詰まったキュアンは、やがて吐息とともに吐き出した。
「……ああ。オーガヒルの海賊どもが動き出したらしい。数が多くて城に残してきた守備隊だけでは手におえないそうだ」
「出撃……か?」
「ああ。ラケシスはここに残していくから、君に護衛を頼みたい。……側についていてやってほしいんだ。引き受けてくれるな?」
あたりまえだ、と。言いかけて、ベオウルフは口を閉ざした。
残ってどうする?目覚めた彼女に優しい言葉をかけて、慰めて……それでどうなるというのだ?それでは何の解決にもならない。弱みにつけこんで彼女を手に入れても意味がない。それではエルトシャンとの約束を守ったことにはならない。
「……ベオウルフ?」
応えない彼に、キュアンがいぶかしげに眉をひそめる。
「……ラケシスは連れて行くべきだ」
「え?」
「泣こうが喚こうがエルトシャンはもういねえ。そいつをしっかり理解させねえと立ち直ったように見えたってすぐつぶれちまうぜ」
思いがけない意見だったのだろう。キュアンが戸惑ったように見返してくる。
「しかし、今は……大丈夫なのか?」
「引きずってでも連れて行くさ。そろそろあいつも自分の足で立つことを覚えていいころだ」
守られるだけの雛鳥の時代は終わった。翼は、生えそろっている。あとは羽ばたくだけなのだ。
「だが……」
言いよどむキュアンには、一つの心配があった。
この男がいかに不器用であるかはよくわかっているつもりだ。そして、口に出さないまでもあの姫のことをどれだけ大切に思っているのかも。彼女を自分の足で立たせるということは、つらい現実を突きつけた上で突き放すということだ。それはすなわち、二人の微妙な関係に亀裂が入ることを意味する。
「……本当にいいのか?」
念を押すように尋ねたキュアンに、ベオウルフはふっと笑って答えた。
「矛先が他人に向いている間はよけいなことを考えずにすむからな」
「え?」
「思い込みの激しい姫さんだからな。いったん落ち込んじまったら浮上できねえ。自分を追い詰めちまう前に誰かに全部ぶつけちまえばちったあ楽になるだろうさ」
「しかし、それでは……」
「大将にはよろしく伝えといてくれや。すぐに追いつくから、ってな」
ひらひらと手を振る彼に、キュアンはつらそうな顔をした。それを見て、ベオウルフがにやりと笑う。
「そんな顔すんなよ。俺はエルトシャンにはなれねえ。奴みてえに生きる力を与えてやるなんてどだい無理なこった。所詮、俺にはこんなやり方しかできねえのさ」
「ベオウルフ……わかった。シグルドには伝えておこう。しかし……君も不器用なところはエルトシャンによく似ているな」
ふわりと笑ったキュアンに、ベオウルフは顔をしかめた。
「よせやい。あんたにしろフィンにしろ、どーもレンスター人ってのぁ隠し事が出来なくていけねえや」
「それは光栄だな。では、この戦いが終わったらレンスターにくる気はないか?」
いきなりの申し出に、ベオウルフの目が点になる。
「は?」
間抜けな問いに、キュアンは真剣な表情で続けた。
「知ってのとおり、我がレンスター王国は常にトラキア王国に狙われているのでな。優秀な戦士が一人でも多くほしいんだ。この戦いが終わったら、ラケシスを連れてレンスターに来るといい」
どうやら真剣に言ってるらしいと知って、ベオウルフはがりがりと頭を掻いた。
「いや……そう言ってもらえんのは光栄だがよ……」
「エルトシャンの息子も今は母親とともにレンスターにいる。いずれアグストリアに戻るにしても、アレスの成長を待ってからでもいいだろう?」
「いや、俺が言いてえのはそういうことじゃなくてだな……」
「返事は急がなくていい。海賊退治が終わってからでもゆっくり考えてみてくれ」
自分の言いたいことを言い切ると、キュアンはにっこりと笑って立ち去っていった。唖然としてその後姿を見送ったベオウルフは、やがてがりがりと頭を掻いて呟いた。
「……強引なとこは夫婦一緒かよ。ったく……かなわねえな」
再び部屋にはいると、ベオウルフはいまだ眠りつづけるラケシスの枕もとに腰をおろした。
はっきり決断したつもりだった。でも、こうしてラケシスのあどけない寝顔を眺めていると決意が鈍りそうになっている自分に気づく。自分は本当に彼女を失って生きていけるのだろうかと、そんな不安が脳裏をよぎる。
(……何考えてんだ、俺は)
一つ頭を振る。自分は、エルトシャンとの約束を守らねばならない。彼が命がけで守ろうとした妹を深い悲しみの淵から立ち直らせねばならないのだ。そのためには手段を選んではいられない。
彼女とともに生きる未来を夢見たことがないといえば嘘になる。だが、自分はただの流れ者の傭兵で、彼女は聖戦士の血をひく王国の姫君で。風まかせの自分の生き方を後悔したことはないが、その生活に彼女を巻き込むわけには行かない。そう、自分に言い聞かせる。
「……ん……」
身じろぐ気配にふっと顔を上げると、ラケシスが目を覚ましたようだった。
「……ラケシス、目が覚めたのなら支度をしろ。出発だ」
低い、事務的な声で告げる。
「……行きたくないわ」
ぼんやりとした答えを、あえて無視する。
「オーガヒルの海賊が動き出した。シグルド殿たちは先にもう出ている。大したことのない敵だが数が多い。全員で協力しなければまた近隣の村が……」
「行きたくないの。あなただけで行けばいいわ。もう……私のことは放っておいて」
感情の抜け落ちた声。これがあのいつも生命の光に輝いていたラケシスだろうか。まるで別人のようだ。自然、彼女を見つめる視線にも険しさがこもる。
「ラケシス……いいかげんにしないか」
きっ、とあげられたヘイゼルの瞳は涙に濡れていた。
「もう放っておいて!兄さまは亡くなったんだもの、あなたとはもう何の関係もないはずよ!」
反射的に。引き起こした彼女の頬を平手で打つ。
「いいかげんにしろと言っている!これは戦争なんだぞ!」
はっと見開かれた瞳が睨み返してくる。その瞬間、精気がよみがえったかのように。
「……あなたに何がわかるっていうのよ……!」
「ああ、わからんな。子供のわがままにつき合っていられるほど俺は暇でも気長でもない」
「……!」
きっと眇められた瞳。次の瞬間、細い手が頬を打つ。
「あなたなんか大嫌いよ!もう出ていって!」
「……嫌いでかまわねえが準備はしろよ。三十分後に出発するからな」
それだけを言い捨てて、部屋を出た。これ以上は彼女を正視していられる自信がなかった。直後、ボン、と音がしたのは枕でも投げつけたのだろう。
三十分後、ベオウルフは自分の行動を後悔した。再び覗いた部屋に、彼女の姿はなかったのだ。
「……ちっ!」
舌打ちして、身を翻す。今のラケシスは防具すら身につけていないまったくの無防備状態だ。しかも、このあたりにはまだアグストリア軍の残党が潜伏している可能性が高い。彼らから見ればラケシスは国を売った裏切り者である。命を狙われたとしても不思議はないのだ。そのことを失念していたずらに追い詰めるようなことを言ってしまった自分に吐き気がする。
「ラケシス、死ぬなよ……!」
馬を駆り、城を取り囲む森を進む。程なく、ベオウルフはラケシスの姿を発見した。気配に気づいたらしいラケシスがはっと振り返る。
「……ベオウルフ……!?」
「ラケシス!何をしている、戻れ!この辺りはまだアグストリアの残党が潜んでいるんだぞ!」
「私のことは放っておいてって言ったでしょう!?もう私なんかどうなったっていいのよ!」
叫び返して走り出した彼女の後を追う。馬と徒歩では速度の差は歴然で、あっというまに追いついた。
「ラケシス、俺の話を聞け!」
「いやよ、放して!兄さまのところに行くんだから!」
手首をつかむと、ラケシスは闇雲に暴れた。舌打ちして、木の幹に押えつける。
「バカを言うな!あいつの最期の言葉を忘れたのか!?」
「……兄さまの……?」
「そうだ。あいつは死ぬな、って言ったんだぞ。その最期の約束をお前は破るつもりなのか!?」
「だ……って」
子供のように見返してくる瞳に涙があふれる。
「だって……兄さまは、私のすべてだったのよ……?兄さまがいなければ私は一人ぼっちだわ……一人はいやよ、もう生きていけない……!」
吐き出された言葉に、はっと胸をつかれた。忘れていた。彼女はたった一人の兄を失ったことで天涯孤独の身となってしまったのだ。どれほど寂しかったことか。どれほど孤独感にさいなまれていたことか。独りではないと、そのたった一言をさえ伝え忘れていたなんて。
小さなため息をついて。ベオウルフは、彼女の顔を覗き込むようにして言った。
「……何を言っている。お前は一人なんかじゃねえだろう?」
「……えっ?」
「お前の回りにはたくさんの仲間がいるじゃねえか。あいつらは何もお前がノディオンの王女だからって心配してるわけじゃねえんだぞ?エルトシャンが死んだからってお前を追い出したりは絶対にしねえ。今でもオーガヒルでお前を待ってるはずだ」
「仲……間?」
「そうだ」
失えるはずがない。今度こそはっきりと思い知らされた。この少女を失っては自分に生きる術はない。彼女を守ることこそが自分の生きる意義なのだ。
「少しは理解したか?」
ぼんやりと見返してきていた瞳がやがて小さく頷いた。
「……そう……よね。私……どうかしてたわ」
彼女の頭にぽんと手を置いたベオウルフはにやりと笑って言った。
「わかったんならいいさ。もう忘れるなよ。お前は一人じゃない。俺がいつでもお前を守ってやるから」
微笑み返したラケシスが何かに気づいたように顔を上げた。
「あ……でも」
「何だ?」
「……いいの?だって、兄さまはもう亡くなったのに……」
「あ?何のことだ」
「だから……約束はもう無効なんじゃないの?」
沈黙が流れる。しばらくして、彼女のいわんとすることを理解したベオウルフはがりがりと頭を掻いた。
「あーその、何だ……つまり、それはもういいんだよ」
「もういい?どういうことなの?」
「お前……それを俺に聞くのか?」
「え?」
噛み合わない会話に、ラケシスがきょとんと見返してくる。
今度の沈黙を破ったのは、一瞬の風切り音だった。素早く反応したのはベオウルフで、彼はとっさにラケシスを腕に抱えるようにして横に飛んだ。
「きゃっ!」
わずかに遅れて彼らの立っていた背後の木に矢がつき刺さる。
「何?」
「ちっ……きやがったか。お前は隠れてろ!」
「でも……」
「その格好じゃ的になるのがおちだ!いいから隠れてろ!」
厳しい声でそう言ったベオウルフは彼女を木陰に突き放すようにして駆け出した。
「ベオウルフっ……!」
動き出した彼の後を追うように矢が次々と飛来する。その素早さから見て敵はスナイパーのようだ。
どう見ても分が悪い。森の中では動きが制限されるし、相手の位置はまだ特定できていない。何とかして接近戦に持ち込まなければ勝ち目はない。それには相手の位置を知ることが不可欠である。どうするべきか。考えかけたそのとき、視界の端でラケシスが木陰を飛び出すのが見えた。
「こっちよ!こっちを狙いなさい!」
「ばっ……ラケシス、何をしている!」
ベオウルフが慌てるが既に遅い。三本まとめて飛来した矢を辛うじてかわしきった彼女が叫ぶ。
「ベオウルフ、今よっ!」
その意図を悟り、ベオウルフは木陰の藪に飛び込んだ。はっとしたスナイパーを一刀の元に切り伏せる。眼前に飛び散った血しぶきに、ベオウルフはわずかに目を眇めた。
「やったあ!」
無邪気に手をたたいて喜ぶ彼女に、藪からすり傷だらけで立ち上がったベオウルフは苦笑した。と、その時。
「……覚悟っ!」
その彼女の背後から、剣を振り上げた男が立ち上がったのだ!
間に合うとは思わなかった。それでも、考えるより先に身体が動いた。身体ごと両者の間に割ってはいる。全身を貫いた激痛に耐えて、ベオウルフは剣を振り下ろした。
「────っ!」
握力がもったのはそこまでだった。その手から剣が滑り落ちる。
「い……やああぁっ!」
倒れ伏す寸前に抱きとめられる。
「しっかりして!ねえ、目を開けてよ!」
ぼやける視界に映ったのは、愛しい少女の涙に濡れた顔。必死の呼びかけに、かろうじて手を伸ばして背をなでてやる。
「心配いらん……ちょっとドジを踏んだだけだ」
「バカ……あなたってバカよ!どうして私なんかのために、こんな……エルト兄さまはもういないのよ!約束に縛られることなんてないのにっ……!」
「……約束の……ためじゃ、ない……俺が、そうしたかったんだ」
「えっ……」
「お前は……生きる意味を、くれたから……な」
かろうじて保っていた気力が、そこで途切れた。
「……ベオウルフ……?ねえ……起きてよ!一人にしないって言ったじゃない!こんなのいやよぉ……っ!」
意識を取り戻せたのはほぼ奇跡だったのだろう。夢ではなかった証拠に、目を覚ましたときもやはり傍らにはラケシスの姿があった。
「ベオウルフ?よかった、気がついたのね」
「……ここは?」
「シルベール城よ。運ぶの、大変だったんだから」
「そうか……助かったのか。すまんな、重かったろう」
「ええ、とっても……と言いたいところだけど、やめておくわ。今回のことは私のせいなんだもの」
「ラケシス?」
不思議そうに見つめ返す。力の入らない手を彼女の白い手が取り、頬を寄せる。
「……いろいろと、ごめんなさい。それと……ありがとう。あなたのおかげだわ」
礼を言われて、ベオウルフは鼻の辺りをかきながら目をそらした。
「うむ、まあ……わかったんならそれでいいさ。だいたいお前は考えすぎるんだ。これからは苦しいことや辛いことは全部俺に吐き出せばいい。それで少しは楽になるんだからな」
「そうね……そうするわ。だから……これからも側にいてくれる?」
少し驚いたように見返して。ベオウルフは、いつものようににやりと笑って言った。
「ああ。お望みなら、一生でもな」
頬をなでていた手を首筋に回し、そっと引き寄せた。
* * *
とうにわかっていたことだった。彼女が実の兄を慕っていたこと。その兄もまた、彼女に対し妹という以上の感情を持っていたこと。二人は互いの孤独を癒す唯一の存在で、その兄を失ったとき彼女もまた自己の半分を失ったのだ。自分に出来たのは、ただ命を賭けることだけで。そんな想いを、彼女は理解し、受け入れてくれた。愛しい娘はシレジアで妻となった。
彼は自分の妻を、彼女との間にできた子供を愛していた。イザークへ逃れた二歳にもならない息子。そして、生まれてくると信じていた娘。それは彼が守りたいものの象徴であり、三十年余りの人生を悔いなく過ごしてこれたことの証だった。
彼女が……ラケシスがいなければ、自分は孤独であることにすら気づかないままだったろう。そして、彼女の兄エルトシャンがいなければその彼女にすら出会うことができなかったのだ。この二人がいなければ、始まりすら迎える事のない人生だった。痛みは決して消えることはないけれど、たとえこの砂漠の城で果てたとしても悔いはない。そう言い切れる自分を、ベオウルフは誇りに思っていた。
今、フリージ軍との最後の戦いを目前に控えて女性たちはこのフィノーラ城にとどまることが決まり、それぞれに別れのときを迎えている。ザクソンに残してきた妻ももうすぐ到着するはずだ。
真実を告げよう。そして、彼女を解放するのだ。自分には、この想いさえあればもう十分だから。生きて、幸せに……願うことはそれだけだ。
「……ベオウルフ!」
聞き慣れた声。階段を上ってきた妻が懸命に駆け寄ってくる様子を、ベオウルフは静かに見つめていた。
(終)